虎に翼と透明化を巡る話
NHKの朝ドラの「虎に翼」の中で轟が花岡に"惚れていた"ということについて脚本家の吉田さんが正式にXでそのようなセクシャリティを念頭に置いて書いたと表明していた。
当事者としてまさか朝ドラでそんなエールがもらえる日が来るなんて全く予期していなくてそのポストが仕事中に流れてきたとき本当に嬉しくて暫くトイレに籠もってそのポストを噛み締めていた位だった。
普段周りには基本的にクローゼットにしていて婚活な勤しむ30代男性として擬態している。職場では独身ネタで自虐して、架空のマッチングアプリのデートの体験記を話して、週末の予定も全部すり替えて話している。
まるでゲイとしての自分なんて存在してないようでひどく透明な自分だなと自嘲してしまう。
もともと"透明"という言葉はなんか透き通っていてきれいな印象があって、そんなに嫌いな言葉ではなかった。一般的に使われる透明化も政治とか企業のブラックボックスを可視化する文脈で使われ基本的にいい意味なはずだった。
透明な存在としての自分も敢えて可視化されないようにやってきた結果であり、ある種透明であることは自己防衛であるようにも感じていたところはあって、不条理とは思いつつも納得もしていた。
今回、吉田さんが「私は、透明化されている人たちを描き続けたい。」と宣言してくれたことで、自分を守るためのバリアであった自分の透明さの冷え切った温度を肌で感じた。多分異性愛規範の社会からの無意識の要請に透明であることを強いられているうちに冷たさが麻痺していたのだろう。
多分直接批判をすることができなかったからなのかいちゃもんのように透明化の誤用が気になるといった意見が何個か散見された。透明化は可視化の意味であり、見えなくさせることではない。と。
確かに透明化の名の下に可視化されてきたものは
色々あるのだろう。特に権力や権威に対し透明化の眼差しを向けることで暗い部分を白日のもとに曝すことができたのだと思う。
しかし透明化の名のもとに強い光で照らしたとしても"透明化"された弱い不可視な存在は照らすことはできないとはなんともどかしいのだろう。ある意味透明化する主体は常にマジョリティであることは変わっておらず、誤用かどうかの議論はおいておいて、そんな意味で透明化の今回の使われ方はある意味でそんなマジョリティへの痛烈な皮肉を含んだ言葉として捉えてもいいのではないのかなと思う。
透明であることは決してポジティブなことではない、そんな意味を含んできた最近の潮流で自分の中の透明であることへの意識が少し変わった気がした。
とにもかくにも、今回そんな透明化された人々を描くことで可視化する吉田さんの姿勢にただただ感謝と希望を感じた。
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