幽谷霧子の優しさとは? ~歌と死に込められた願い~
どうも、TK(@TK_HoCliP)です。
本日2024/09/23は283プロ所属幽谷霧子の誕生日です。おめでとう、霧子。
ということで最近やたら霧子のコミュを読み直す機会が多かったので、これにかこつけて自分なりに「霧子ってどんな子なんだろう」、というのを整理してみました。
霧子の登場するコミュ以外も含め、いろんなコミュから引用してくるので、ネタバレされたくない人は回れ右でお願いします。
以下常体。
0.概略
霧子にとって歌は受け取った想いを伝える物であり、この世界は自分を愛してくれる優しい世界であることやそんな世界を嬉しく思っていることを、いつか知ってもらえると信じて歌っている。
霧子は輪廻転生的な考えを持っており、物理的な死も記憶の死も避けられないとしても、その先には生まれ変わりがあると願っている。
前者は関係性は深めていくことができるという可能性の話であり、後者は消えゆく関係性に対する祈りの話である。アンティーカ自体が特に人と人の関係性を強く押し出したユニットであるが、その中でも霧子は人の傍には誰かがいるといて欲しいという想いや、それにより世界が広がっているところを重視していると考えられる。
以上より私は、霧子は人の存在を信じる優しさを持つ子であると考えている。
1.はじめに
本noteでは、私が霧子のコミュを読み直して霧子がどういった子であると感じたかについて述べる。
だが、そもそも彼女に限らず、「この人はこういう人だ」といったことを語るのは非常に野暮なことであるように思われる。あさひSTEPや【われにかへれ】、【くもりガラスの銀曜日】などでも描かれるように、「誰かを理解する」と言うことは非常に難しいことであるからだ。更に、霧子やプロデューサーの発言は抽象的であり、特に霧子が何を伝えようとしているについては非常に捉えにくく、結果として霧子の人物像は分かりにくく、また解釈の分かれる形になっているように感じる。実際、私はこのゲームをプレイして初めて彼女のコミュを読んだ時は何も理解できなかったためか、当時の記憶は断片的なものしか残っていない。
しかし、私は霧子が「人と人はいつか理解し合えると信じている」と感じたからこそ、今の私に見えている霧子がどういった姿であるかを語ることに意味があると信じ、ここに記すこととした。(これについては本note中で触れる。)
本noteでは霧子について、コミュ中で何度も登場する大きな構成要素である「歌」と「死」の2つの観点から霧子がどのような人物であるかを考察していく。
2.霧子と歌
2.1 霧子はどのように歌っているか
「どんなアイドル(自分)でありたいか」はシャニマスで繰り返し強調されているポイントである。
例えば、小糸WINGでは幼馴染が始めたからという理由でアイドルを志望した小糸が、どんなアイドルになりたいかを考える課題を出されている。他にも、灯織GRADでは目指すアイドル像を見失った灯織の悩みを中心に話が進んでおり、イベントでは【アイムベリーベリーソーリー】では各々のアイドルが「やりたいからやる」という能動性・自主性を持って行動する様子が描かれる。
さて、霧子LPではボイストレーナーに「霧子だけの歌」を見つけるよう言われ、自分らしさが何であるかを悩むことになるが、これが霧子がどんなアイドルであるかを考えるコミュに相当するだろう。
この中で霧子は、ステージに限らず歌を歌う時に、周りの音を聴いている、と語っている。そしてこのことを聞いたプロデューサーは(霧ちゃんというAIに対してという文脈ではあるが)聴こえているものを歌って伝えることを提案し、実際に霧子はワンマンライブでそのように歌い上げようとした。
この「音」だが、霧子にっとて人の想いを象徴する物であるかのように語られている様子が確認できる。
ここまでで、霧子の歌は受け取った想いについて伝えるものである、と言えるだろう。
2.2 霧子が聴いているもの
次は、具体的にどのような想いを受け取っているかについて考える。
LPでは、霧子が聴くのに夢中になっているものがアンティーカの歌、つまりアンティーカのメンバーが伝えているものであることが示される。
その想いの一つが、例えばアンティーカの優しさがあることなどは言うまでもないだろう。【数・数・娘・娘】でのくしゃみをした霧子を心配する4人や、【楓・風・娘・娘】で霧子の息に飛ばされていく遊びをする4人からは、霧子への優しさを感じずにはいられない。
これが特に強調して描かれているものに、【十五夜「おもちをつこう」】がある。
本コミュでは霧子がボランティアで読み聞かせる絵本を自分で作り上げていくことを決め、恋鐘と買った画材、摩美々のキット、結華の工作、咲耶と練習した読み方と、4人の助けも借りて出来上がった絵本を、最後に霧子が読み上げることで完成している。
特にこのコミュについては、アンティーカから受け取った優しさを、絵本を通じて子供たちに伝えるという形をしており、LPの霧子の歌と合致するだろう。
一方で、例えば霧子がソロでステージに立つ時は、ステージの上でアンティーカの歌を直接聴くことはできない。そのため、アンティーカの優しさはあくまで聴いているものの具体例であり、普遍的に当てはまるものではないように思われる。
【唯・唯・寧・詠】ではソロ曲を歌う霧子が、どのように歌うかを考えることとなる。アンティーカという所属すら取り払い、一人のアイドルとして聴く人に向けてどのように歌うかを考えるこのコミュは、LPより更に普遍的に歌について考えているだろう。
ここで霧子が受け取っている想いは、プロデューサーやアンティーカ、ファンが霧子を知りたい想いであると私は考えている。これを説明する上で、分かりやすさの観点から一度LPに立ち返る。
LPには、開発中の霧ちゃんの様子に対する様々な意見を霧子が目を通すシーンがある。
これらの意見はファンの人が霧子をどう見ているか(以下霧子像)が反映されており、「豊かな感性を持っている」「簡単に分析できない」「繊細な優しさ」「お花や生き物や、季節と会話できる」などがある。だが、これらはあくまで霧子像であり、本当の霧子とは異なるものであるだろう。例えば最後の「お花や生き物や、季節と会話できる」だが、霧子はそういったことができているわけではないと示されている。コミュでもゼラニウムや雨、雪に話しかけるシーンがあるため、一見すると霧子は会話をしているようだが、あくまで語りかけているだけであり、返答が返ってきていないことは理解している。
また、これと同じく霧子が他者から向けられる霧子像と向き合った経験として、【ストーリー・ストーリー】のリアリティー・ショーがある。
このリアリティー・ショーでは切り抜きと意図的な編集による作られたアンティーカに対抗すべく、自分たちが見てもらいたい形のアンティーカを作り演じることを霧子が提案する。一方でカメラの外、つまり人の目に届かないところでも作った筋書きを守ろうとする摩美々に対しては、そうしなくても大丈夫だと語っている。
これは、他者が自分に見出している姿に迎合する必要はなく、自分らしくあれば良い、という考えであり、LPのボイストレーナーの想いである「霧子像に負けずに歌い続けて欲しい」に非常に近いものであった。
霧子が霧子像に迎合せず彼女の歌を歌いあげたことについては前述の通りだが、一方で霧子像自体の否定はしていない。そして、そもそもこのような霧子像が生まれた理由は、「霧子が好きだ」という愛が根底にあることは忘れるべきではないだろう。【ストーリー・ストーリー】でのネットの書き込みならいざ知らず、霧ちゃんに対する意見を出す人やワンマンライブに来る人は基本的にほとんどがファンであるはずだ。
「誰かを理解する」と言うことは難しいことである。霧子は283プロに所属してすぐの内は植物に話しかけるところや包帯を巻く理由を隠していたが、これは素の自分の思考や行動が他人に受容されないと思っていたためである。このことを踏まえると霧子は「誰かを理解する」と言うことは難しいということをよく理解していると考えられるだろう。
だが霧子は徐々に素の自分を隠そうとしなくなっていくが、これはアンティーカやプロデューサーによる素の彼女へ寄り添う姿勢や、素の彼女を魅力的だと考えファンになった人の存在によるものである。であれば、霧子は素の自分を知ろうとしてくれることを好意的に捉えているだろう。そうでなければ知ろうとされても素の自分を隠し続けようとするはずである。
この経緯を踏まえると、霧子は、霧子を好きな人たちが霧子を知ろうとして持った霧子像のことを、ある程度好意的に捉えていると思われる。
ここで再び【唯・唯・寧・詠】に立ち返ると、曲を聴く人が繰り返し聴くことが霧子の歌に必要な要素であることが描かれる。これは、霧子を愛し各々の霧子像を持つ人々が霧子の歌を何度も聴き、霧子を知っていくことを表しており、愛し知ろうとすることと歌は不可分であるかのようである。
ここまでで、霧子の歌は自分を愛し、知ろうとしてくれる世界について伝えるものである、と考えられる。その場合、本章で最初に例示した「アンティーカの優しさ」というものも愛の派生の一つとみなせるだろう。
ここからは歌についてさらに掘り下げるために、霧子の受け取る愛と霧子にとっての伝えるという行為について考える。
2.3 霧子の愛への想い
霧子は自分を愛してくれる世界をどのように思っているかについては、シンプルに嬉しく思っていると見て良いだろう。そして(ここは少し脱線にはなるが)特に、自分を愛してくれることについては、その意思も嬉しく感じている様子が特徴的である。
STEPでは幼い頃に「おばけごっこ」をしていた、という話が登場する。「おばけごっこ」は霧子にシーツを被せて目隠しをしている間に霧子がびっくりするものを用意して見せるという遊びであるが、霧子は少しだけ動く様子が見えたり、音が聞こえていた、と回想している。
だが、それでも霧子はこの遊びを「楽しかった」と言っている。これは準備をする様子が見えるのも含めて楽しんでいた、つまり楽しませようという相手の想いも楽しんでいたと考えられる。
実際、このような楽しみ方をしている様子が以下のコミュなどで描かれる。
2.4 伝えることに込められた想い
「2.2 霧子が聴いているもの」では、霧子は「誰かを理解する」と言うことは難しいということをよく理解しているが、一方で自分を知ろうとしてくれる人の存在を好意的に捉えているが故に素の自分を隠さなくなってきた、と記した。
この事実は、霧子が歌で伝える際の想いに大きく関わっている。
LP中では「霧ちゃんに心はあると思うか」という開発者からの質問に対して以下のように返答している。
LP中では、一部シーンで霧ちゃんが歌を届ける相手と重ねられていると私は考えており、これを踏まえると「霧ちゃんの心」「心が向かうとこ」とは歌を聴く人の心のことである。
また、霧子が霧ちゃんに、見えているものを伝えようとして歌っていたことを踏まえると、「霧ちゃんに向かう心」というのは歌う人(この場合は霧子)の伝えようとする心のことである。
ここまでで、霧子は「歌う人が伝えようとすることで、歌を聴く人の心に届く可能性が産まれる。逆に言えば、伝えようと思わなければ届くこともない。」と考えていると解釈できる。
また、霧子の歌は、歌を通じて少しずつ霧子を知っていくことが含まれているのも「2.2 霧子が聴いているもの」で述べた通りである。
LPのこのシーンでは、先ほどと同様に「あなた」は歌を聴く人のことであり、「わたし」は歌う人も指していると考えられる。そしてこの祈りが「いつか」「きっと」「はず」という非常に不確かな祈りであることも踏まえると、実際の自分を完全に理解されることは難しいとしても、そんな未来を信じていると解釈できる。霧子像と実際の霧子の不一致に対して、霧子は否定的に捉えていないとしても、いつかはその2つが一致することを信じているのではないだろうか。
以上のことから私は霧子は歌を歌うことについて、歌う人が自分に見えているものやそれに対する自分の気持ちが伝わると信じて歌うことで、それが歌を聴く人の心に届くかもしれないと考えていると解釈した。例えば霧子であれば見えているものや気持ちというのは、自分を愛してくれる世界やその世界を嬉しく思っていることとなるだろう。
これを考慮すれば「2.1 霧子はどのように歌っているか」で触れた霧子が歌う時に歌を聴くことに夢中になっている、という部分にも納得がいく。霧子にとっての歌が自分の世界やそれに対する想いを伝えるものであるならば、誰かが自分を伝えようとした誰かの歌を聴き逃すはずはないだろう。霧子がアンティーカのステージで聴いている想いの一つに、「自分の世界を知って欲しい」という想いがある、とも言えるだろう。
2.5 総括:幽谷霧子はどんなアイドルか
以上のことから霧子は、この世界が自分を愛してくれる優しい世界であることや、そんな世界を嬉しく思っていることを、いつか知ってもらえると信じているアイドルであると考えられる。
3.霧子と死
「どんなアイドルでありたいか」という多くのアイドルで共通するテーマがある一方、各アイドルには個別に向き合っているテーマが存在する。果穂であれば大人と子どもの中間ならではの悩み、あさひであれば人からの想いに対する向き合い方などである。
霧子にもこのようなテーマは存在しており、近年(?)の霧子のコミュでは死に関する内容が繰り返し語られる。以下これについて考える(GRAD以降を近年と言うのは無理があるのでは…!?)。
3.1 2つの死
死と聞いて真っ先に思い浮かべるのは物理的な死であろう。ヒトは老いれば死ぬ、物は壊れれば機能を終えるというのは当たり前である。【琴・禽・空・華】では、亡くなった小鳥(以下小鳥)の墓が登場するが、これは当然物理的な死のひとつだ。
だが霧子はこの小鳥に関して、プロデューサーが思ってくれているのなら半分だけ生きていると語っている。
同コミュ中では霧子が墓は忘れゆくものを大事に思い出すために作られるものだと語っている。この思い出す(覚えておく、も含まれるだろう)という行為こそがもう一つの生であるだろう。
そこで、物理的な生と死に対し、こちらは記憶の生と死と呼ぶこととする。
3.2 死は不可避である
我々人類は忘れる生物であり、別れた人や失ったものをいつまでも覚えておくことは出来ない。誰とて例外なく、忘却という記憶の死を避けられないのだ。
【縷・縷・屡・来】では再び小鳥が登場するが、プロデューサーと霧子は小鳥が亡くなっていたことをその時まで覚えておらず、その墓がどこにあるかは最早分からなくなっていた。
この時、霧子は小鳥を忘れていたことや自分たちがいつか忘れられることを否定していない。これは記憶の死を避けられないことだと理解しているが故であろう。
そしてこの会話は「生きている間はたくさんの物を記憶しよう」と締められる。これは裏を返せば記憶できるのは死ぬまでの間、と言えるだろう。
これを踏まえて私は、「覚えている人がいなくなる」というのは単純に皆の記憶から消えるというのもあるが「記憶していた人が死ぬ」を含んでいると考えている。
ならば、誰かを半分だけ生きていさせられる記憶の生も、しかし物理的な死に塗りつぶされる、ということを霧子(とプロデューサー)はどこかで考えているのではないだろうか。
何れにせよ、万物が2つの死を避けることができない、というのは霧子の知るところであろう。
3.3 別れ
更に視点を広げれば、誰かとの交流が無くなることで、その誰かのことを忘却していく「別れ」も記憶の死に該当すると言えるのではないだろうか。
そう考えた場合、シャニマスでは別れを通じて、記憶の死に対する向き合い方が描かれることが非常に多いと言える。例えば【階段の先の君へ】では応援する人が遠く離れても、自分の姿が届けられるようにありたいと決意した樹里の様子が、【天檻】ではいつまでも一緒に居続けられないことを受け入れたノクチルが、それでも一緒にいる未来を夢見て少しずつ違う道を歩もうとする様子が、【ヒカリと夜の音楽、またはクロノスタシス】では別れを仕方のないことと何処かでは理解した人々やイルミネが、歌と幸せな時を紐づけていく様子が描かれる。
また、より直接的な記憶の死に関する言及は【三文ノワール】や【ノンセンス・プロンプ】などで成される。
これらに共通する事柄として、人々が記憶の死を理解しつつ、それに抵抗している点があるだろう。樹里の決意、ノクチルの確認、イルミネと人々の祈り、冬優子の嘘は全て、記憶の死への抗いであるのだ。
3.4 その先の"物語"
では避けられない死に対し、霧子はどのような抗いを試みているのだろう。私は「死んだものはまた生まれ変わる」という輪廻転生的な考えが抗いにあたるのではないかと考えている。
【縷・縷・屡・来】で、霧子は2つの死を迎えたものが、風になって歌になって誰かを覚え覚えられる時間を始めると語っている。
歌は「2.霧子と歌」で述べたように、受け取った想いについて伝えるものである。「受け取る」「伝える」という行為には二者の存在が必要であることから、これは物理的な生を必要とする行為だと私は考える。そして、誰かを覚え覚えられる時間は記憶の生そのもののことだろう。
これらを単純化すると、2つの死を迎えたものは新しく生を始めるという考えであることがわかるだろう。
とすれば「風」は死から生への過程とも言えるだろうか。以下の二つのコミュからは風に対する霧子の考えと、死が単なる終わりであって欲しくないという祈りが感じ取れる。
また、物やそれに込められた想いが生まれ変わる様子を霧子が見出すコミュも存在する。これらのコミュで生まれ変わりを見出した霧子が喜んでいる様子からも、彼女が輪廻転生を期待していることが読み取れるだろう。
そして、シャニアニ2章の特典で配布されるプロフィール帳では「生まれ変わったら何になりたい?」という質問に「なんでも大丈夫です」と答えている。これは、生まれ変わったその先があればそれだけで救いになる、という霧子の抗いが表れているように思う。
3.4 総括:霧子の死生観
以上のことから霧子は、物理的な死も記憶の死も避けられないとしても、その先には生まれ変わりがあると願っていると考えられる。
4.つながりと優しさ
これまでの考察を元に、霧子がどのような人であるかを考える。
4.1 考察:霧子の大切にするもの
これまでの結論を再掲すると
・霧子は、この世界が自分を愛してくれる優しい世界であることや、そんな世界を嬉しく思っていることを、いつか知ってもらえると信じているアイドルである
・霧子は、物理的な死も記憶の死も避けられないとしても、その先には生まれ変わりがあると願っている
であった。
私はこの二つの考えは、霧子がつながりを大切にしたいと想っており、その上に存在するものであると感じた。
前者の歌に込める想いについては、つながりが深くなることへの期待であると言える。難しくとも伝わると信じて伝え続けるのは、いつか来るその日を期待しているからであろう。
一方、後者の死に対する想いについては、失われたつながりへの祈りであると言える。いつか記憶というつながりすら失われてしまうことが確実な我々への、せめてもの祈りなのではないだろうか。
4.2 アンティーカとつながり
だが、これだけの情報で霧子について語るのは不十分だ。なぜなら、アンティーカ自体が人を救おうとするつながりを大切にするユニットであり、アンティーカは「違った優しさや勇気を持」つ5人であるからであるからだ。
【犬・猿・雉・霧】では現実に手が届く範囲には限りがあると知りつつも、手の届く範囲は全員助けようとするアンティーカが描かれる。
彼女たちが人を救おうとするコミュは数多ある。それは「霧子が絵本を作るのを手伝いたい」や「エレベーターに乗りたい人を出来るだけ乗せたい」といった人助けをしたいといっただけのものではない。
例えば感謝祭では当たり前のように孤独を押し殺していた咲耶に手を差し伸べており、【かいぶつのうた】ではまだ自分で助かろうと出来ない人に対しても、いつでも助けられるようにと手を伸ばしている。越境コミュでは【バイ・スパイラル】で摩美々がルカに絡みに行き続ける様子が描かれるが、これも差し伸べられた手を掴めなかったルカを、それでも諦めまいという想いから来るものもあるだろう。
私はこれらの誰かを救う行為は、誰にも孤独であってほしくないという想いから来ているものであり、人と人とのつながりを重視しているからだと感じた。
そしてアンティーカは違った優しさや勇気を持った5人だから組まれたユニットである。であれば、つながりを大切にすると一言で言っても、5人それぞれの理由と方法があると考えられるだろう。
4.3 4人の優しさ
そこで霧子以外のアンティーカ4人の優しさがどのようなものであるかを考える。尚、霧子ほどコミュを読み直していないため、共通コミュとイベントから読み取ったものであること、そして尺の都合で霧子のそれより短くなってしまうことについてはご容赦頂きたい。
①恋鐘
恋鐘の優しさは、絶対に信じる優しさである。
これが最も分かりやすく描かれるのが【アイムベリーベリーソーリー】である。恋鐘は寡婦役に抜擢されるが、これは寡婦が幸せになることを信じて疑わないからであると語られている。他にもLPでは本人からなんと言われようと夢追いガールの夢が叶うことを疑わず背中を押し続けている。
また、彼女の信じる先は何も自分以外に限ったことではない。彼女の自信が自分を信じるところから来ているのはSTEPを中心に様々なコミュから読み取れることであろう。
②咲耶
咲耶の優しさは、自分の目の届く皆を喜ばせたいと思う優しさである。
元々彼女がモデルであったのは、誰かを喜ばせることで一緒に居ることができれば寂しく感じずに済むからであることがSTEPなどで描かれており、幼い頃からこの優しさを持っていたことが読み取れる。
そしてGRADとLPではモデルからアイドルになったことで切り捨ててしまったファン達に対する申し訳なさと、切り捨ててしまったファン達も喜ばせたいという想いとの向き合いが描かれる。一度でも目に入ったファンや一人ぼっちの女の子を喜ばせたい、悲しませたくないという想いは確実に誰かを喜ばせている。
そして勿論、悲しみたくないのは咲耶自身もそうだ。彼女は彼女自身をも喜ばせたいからアイドルになったのである。
③摩美々
摩美々の優しさは、傷つかないように手助けする優しさである。
【見て見ぬふりをすくって】では「あまりメンバーのことを知らないのでは」と感じた咲耶の悩みを聞いて、咲耶の名を出さずにその不安を解消しようと行動している。この時、悩んでいるのは自分であるかのように話すことで咲耶を傷つけまいとしている(咲耶自身がそこまで大きな問題だと考えていなさそうだったから、というのもあるだろうが)。また前述の【バイ・スパイラル】でも、誰もいないところでルカに声をかけ続けることで、他の子に悟らせることなくルカに対して手を差し伸べ続けている。
そして傷つけない対象には自分も含まれる。注目を浴びたりカテゴライズされることを好まない様子の伺える摩美々は、【見て見ぬふりをすくって】では後押しする際に咲耶しか気づかないような形での後押しをすることで、「摩美々は優しい」というカテゴライズをされることを避けていた(その後で咲耶に暴露されてしまうのだが…)。また、【廻る歯車、運命の瞬間】では皆が心を一つにできるようにと衣装に着けるアクセサリーを内緒で買いに行っていたが、これも「本当はメンバーを良く見ている」とカテゴライズされたくないからだろう。
④結華
結華の優しさは、必要な時には踏み込む優しさである。
また感謝祭の話にはなってしまうが、咲耶の言動に違和感を感じたというプロデューサーの話を聞いた結華は、その次の話には咲耶の不安を聞き出そうとしている。また、このまま放っておくのは良くないと判断し、押し殺した寂しさに気付かせようとまず踏み込んだのも結華である。このように傷つけないようにという配慮はしつつも、摩美々と対称に踏み込んでいく点は特徴的である。
また、自称するほどには踏み込まれることに臆病な結華だが、少しずつ距離を縮めることを受け入れようとする様子や、隠していた部分も見せようと踏み出す様子が【NOT≠EQUAL】やGRAD、LPでは見られる。つまりこの優しさは他人に踏み込むだけではなく、自分から踏み出すというのも含むし、勇気でもあるのだ。
4.4 優しさの共通点
以上で見た4人の優しさは、つながりを大切にすることに繋がっている点で共通していると言える。
恋鐘の誰もを信じる優しさと自信からくる明るさが、周りの人を助けているのは知るところであろう。また、摩美々と結華の察しが良く、それでいて異なるアプローチで問題を解決しようとする在り方は相手の助けとなっている。咲耶については最早言うまでもないだろう。
更に、これらの優しさは自他の両方に向かうものであることにも気付ける。恋鐘は自分も信じているし、咲耶は自分も喜ばせたいし、摩美々は自分も傷つけまいとするし、結華は自分も踏み出す或いは踏み込まれようとしている。
このことから、霧子の優しさも自他に向かい、かつつながりを大切にする上で重要なものであると言えそうだ。
5.霧子の優しさ
ここまでを踏まえ私は、霧子の優しさは「誰もの傍に誰かがいて欲しい」という人の存在を信じる優しさであると考えた。
5.1 誰かの傍には誰かが居る
「4.1 考察:霧子の大切にするもの」では歌にはつながりが深くなることへの期待が、死には失われたつながりへの祈りが籠ると考えた。
まず歌について。
霧子にとっての歌は受け取った想いについて伝えるものであった。「3.3 その先の"物語"」でも少し触れたことだが、この「受け取る」「伝える」という行為には自分と相手の存在が必要不可欠である。
とすれば歌は、歌う者の周りに誰かがいなければ成立し得ない。相手を知って、つながりを深めていくにも、まずそこに人がいると信じていなければ始まらないのだ。
これを示したかのようなフレーズが、アンティーカの曲の霧子パートに存在する。この歌詞は「相手がいなければ伝えたい想いもどこにも行けない」と読むこともでき、霧子にとって人の存在は当たり前に信じていたいものであるかのように感じた。
次に死について。
霧子にとって人の存在が当たり前に信じていたいものであるならば、死とは残酷なものである。死んだものが少しずつ忘れられていき、そうやっていつの日か全てから忘れられてしまえば、死んだものの周りに最早人はおらず、孤独となってしまう。こんな救いのない話は無いだろう。
それでも、また新しく人が傍にいてくれるような救いがあって欲しい、そんな霧子の想いが輪廻転生があって欲しいと思わせているのではないだろうか。お別れした花やベールは、生まれ変わって赤ちゃんの母や霧子と出会っているのだ。
5.2 私の傍にも誰かが要る
だが、この人の存在を信じる優しさは初めの内は霧子自身にはあまり向けられていなかったように感じられる。そして、この転換点となったのがGRADである。
これを考える上で、まず霧子の自己認識を振り返る。
WINGに『見えない献身』というコミュでこっそり掃除をしていたり、ボランティアで病院の手伝いをする様子が描かれるくらいには初期の霧子は献身性を強調されているが、その背景に謙遜や自身の無さがある様子が伺える。
そしてGRADではこれがより詳細に描かれる。前十字靭帯を損傷したアイドルという外的要因は確かにあったものの、自身の無さは、アイドルとして人の助けになることが出来ないばかりか人の希望も奪ってしまうなら、確実に人を助けられる医者になるべきなのではないか、という迷いを呼んでしまう。
そしてGRAD優勝後コミュでは、人に助けられたり譲られたりしたのに何も人助けを出来ないかもしれないことへの不安が語られていた。
だがそんな霧子はアイドルとして、前十字靭帯を損傷したアイドルに希望を見せることが出来た。これを実際に霧子が確認したこと、そしてプロデューサーの言葉は、霧子がその優しさを自分にも向けられるようになるきっかけとなる。
霧子の優しさが人の存在を信じる優しさであるからこそ、この言葉は霧子の価値観を大きく変える言葉となったと言えるだろう。
差し伸べられた手や勝ち取った権利に対し、自分はそれを受け取るに値しないと考えることは、霧子を助けたい、霧子に仕事を任せたい、霧子が優勝に相応しい、といった想いを受け取らないことでもある。これは、想いはいつか伝えられると信じている霧子が相手の信じる想いを受け取らない、という自己矛盾を起こしているとも言える。
プロデューサーの言葉はこの矛盾を解消するものであり、霧子がGRADで優勝したことがアイドルとしての人助けに繋がったからこそ、「仮にそうできなくても良い」という言葉も霧子が受け入れ易い言葉となっている。
こうして霧子は、自分の傍にも誰かがいて、その人が自分に想いを向けてくれることを素直に受け取れるようになったのではないだろうか。そして、自分の傍に誰かがいてくれるからこそ、彼らに想いが伝わると信じたい、という結論にLPでたどり着くことが出来たのだろう。
5.4 人が広げる世界
では霧子が「人の傍には誰かがいて欲しい」と考えているのは何故だろうか。私は、霧子が人の想いにより世界を広げていることがその背景にあるのではないか、と考えている。
「2.4 伝えることに込められた想い」では霧子が歌う時に歌を聴くことに夢中になっているのは、誰かが自分の世界を伝えようとした歌を聴き逃さないためだろう、と述べた。これと同じように、霧子は誰かに見えている世界や、それを構築している要素を知りたがっている、と読み取れる描写が存在する。
そうして知った誰かの世界は、霧子の世界を広げている。つまり霧子は、人が伝えようとした想いを知ることで世界を広げたい、と考えているのではないだろうか。
自分の中に存在しない考え方や経験を知っていくことは、自分の世界に無かった世界を知っていくこととも言える。実際に霧子が、一人では知ることのなかったであろう考え方や思いつきもしなかった物の捉え方を知っていったり、そうすることで、一人では十分な解決を得られなかった問題への解を出す様子は、前述のGRAD以外にもいくつか存在する。
また、霧子に対して向けられる想いには、別のルートで霧子の世界を広げているものも存在する。
例えば、献身性の一例として出した病院でのボランティアもこれに当てはまる。STEPとWINGで霧子がお手伝いをしていた病院のスタッフ、患者さん、そして両親がアイドルになる後押しをしていたり、初めてのステージを見に来ている様子が描かれている。そして、プロデューサー自身もその様子をみて励まされ、霧子の背中を押す一人であることが示唆されている。
霧子の人を助けたい、という想いは霧子の背中を押したいという想いとなり、霧子をアイドルの道へと導いた。アイドルとなることで霧子の歌が届く世界が増えたり、霧子だけでは見えなかった世界を知る機会も増えたことを考えると、これらの想いは霧子が新しい世界を知るための、直接的な要因ではなくともきっかけや後押しとなっていると言える。
このように、人の想いを通じて世界を広げていくのは霧子に限った話ではない。1人の人間の人生には多くの人が絡み合っているという事実は万人に間違いなくあり、例えばそれがアイドル活動を通じて世界が広がっていく様子は他のアイドルでも見られることである。
そして人によって世界が広がることを重視する霧子だからこそ、皆の世界が一人ぼっちの閉じたものではないよう「人の傍には誰かがいて欲しい」と願っているのだと私は考えている。
5.5 私ではなくても
もう一つ、霧子の優しさには、「今傍にいるのは、必ずしも自分である必要はない」と考えているところがあるのではないかと私は思う。そして、霧子は今この時に全ての人に手を伸ばすよりも、自分の想いを必要とする人の傍にいられることを重視しているのではないだろうか。
「4.1 考察:霧子の大切にするもの」で述べた通り、つながりは流動性を持ち、その形も大きさも変化していくものである。であれば、霧子とのつながりを必要とする人がいれば、必要としない人や必要としなくなる人もいるのではないだろうか。
【縷・縷・屡・来】では死の文脈に絡めて、幼い頃から使っていたブランケットが傷んでいくように、幼い頃に受けた両親の想いを少しずつ忘れていく様子が描かれる。
死が一つのテーマのように描かれた本コミュの中で、霧子が傷んだブランケットと別れること、それと同時にそのブランケットに込められた両親の不安という愛を忘れていくことは、記憶との別れであると言えるだろう。(無論、今でも霧子が両親に愛されていることは言うまでもないだろう。単にその一つを忘れただけである。)
だが、そんな両親の愛と別れた一方で、新しくプロデューサーの不安という愛と出会っている。このことは、人が人の存在を必要とする一方で、必要とする相手が変化することもある事実を示しているだろう。
であれば、常に誰もの特別であることは不可能といっても過言ではない。例え霧子がアイドルとして誰かの背中を押していても、霧子のことを知ってすぐ忘れる人もいれば、そもそも出会わない人もいるはずである。仮に今霧子が特別なアイドルだと感じている人がいたとしても、いつの日にかは忘れているかもしれないのは、記憶の死の存在から明らかである。
また、「5.4 人が広げる世界」では霧子の世界を広げていく要因として霧子に向けられた想いを上げたが、必ずしもそれのみが広げているわけではない。いくつかのコミュでは、霧子に向けられたわけではない想いが霧子の世界を広げている。
【窓・送・巡・歌】では画家のスケッチブックを通じて、失われた画家の記憶に触れていく様子が描かれる。
このスケッチブックは戦地に赴いた画家の平和な家庭に帰りたいという想いが反映されたものである。しかしこの想いは画家自身やキリコちゃんなどの家族に向けられるものであり、霧子に向けられた想いではないことは明白だ。だが霧子はこの経験を通じ、「例え死を迎えたとしても、生まれ変わらず帰りたい場所があるかもしれない」ということを知り、また、自分にとってはそれが人の存在を感じられる283プロやアンティーカであることを再認識している。
また、【奏・奏・綺・羅】では誰かのピアノの練習に励まされる霧子が登場する。このピアノの練習に関しては、誰かに向けられた想いですらない可能性もあるはずだ。
だが、このピアノはランニングをする樹里の頑張りと共にレッスンをする霧子の背中を押しているし、霧子が、少しずつにちかと話ができるようになっていきたいと思うことの支えにもなっているだろう。
このように意図しない想いや動作が、場合によっては時間や空間すら超えて、今は傍にいない誰かの世界を広げていくこともある。
ならば霧子の人の存在を信じる優しさは、それが今この瞬間や自分の目の届く範囲に限られたものではないだろう。
自分の想いが今この瞬間アイドルとして誰かに届くことを霧子は勿論認識している。だが、画家の想いのようにいつの日か誰かに届いたり、ピアノのように自分のことを知りもしない人にも届いて、その時その想いに助けられる人がいればそれでもよい、と考えているのではないだろうか。
人は今も未来も数多いる。その数多の何人かには霧子の想いが届くだろう。だが届かない人もいるし、届かなくなる人、まだ届いていない人もいる。
そうした人達の周りにも常に当たり前に人がいて、想いを届けあっている、そんな世界を霧子は願っているのではないかと私は思うのだ。
6.あとがき
以下敬体。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
まず内容について。
これで内容全部解決するらしい む…むごい…
最後とか大分客観視無いですからね、自分の想いの全力です。全力込めたら2か月かかったっす!
自分の想いの話に絡めて一つ。
本noteは霧子の様々あるテーマをなるだけ一本の筋に集約することを目標として書いています。
Twitterなどを見ると歌、死生観、物語、優しさの話が別個で語られていることが多いです。ただ、これらの話が一つの筋に乗っていない、というのは個人的には違和感があります。
勿論、人間の行動に常に一貫性があるわけではないですし、上に記した霧子コミュのパーツが全て一貫性を持った思考のもとに展開されている保証もありません。
それでも彼女が一人の人として生きてきた中で何かしらの思考の基盤を築いてきたはずです。それがどういった形をしているかを少しでも知りたい、という想いからこのnoteは始まりました。
こんな感じですかね。これで少しでも霧子に興味を持つ人が増えたら嬉しいです。
それでは~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?