杜野凛世と物語 ~少女は檻を破る~
どうも、TK(@TK_HoCliP)です。
本日2024/10/19は283プロ所属杜野凛世の誕生日です。おめでとう、凛世。
ということでこれにかこつけて、本noteでは凛世と物語の関係についての自分の考えを記そうと思います。
多くの凛世コミュで登場する物語ですが、それ単体で読むことも勿論面白く、凛世についてより知る上で重要なことは間違いありません。ですが、これをより抽象化して「物語は凛世にどのような影響を与えているのか」という点に着目するのが本noteになります。
解釈というよりは感じたことや自分の向き合い方に近い話になるため、どっかの引用と論理のオンパレードnote達と違って、引用もそこそこに短めにするつもりです。
相変わらずネタバレを含みます。ネタバレされたくない人は回れ右でお願いします。
そして今回は3章目の思想が強いです。「自分とあわないな~」って思っても喧嘩しに来ないでください。
以下常体。
1.「世界」を知る
凛世の物語の引き出しは非常に多い。私は、これが単に凛世が幼くして芸事などを教養として教えられていたからだけではなく、広い世界を夢見ていたからだと考えている。
幼い頃に姉から「ここでは見られない景色」や「ここでは出会えない人たち」の話を聞いた凛世は、広い世界を夢見るようになる。だが凛世は高校の夏になるまで、一人で遠くへ行ったことが無いように見える。
彼女にとって、手近に広い世界を知る方法は物語を知ることだったのではないだろうか。それぞれが異なる世界を内包する本や演劇は魅力的であり、それに没頭していったに違いない。
2.「世界」と世界
上京しアイドルとなった彼女は、その『運命の出会い』からプロデューサーを慕うようになり、その想いはいつしかプロデューサーへの恋心を含むものへとなった。
だが、プロデューサーの「知りたい」という想いと凛世の「知って欲しい」の想いはなかなか噛み合わなかった。【十二月短篇】では、プロデューサーを呼び止められなかった凛世が、「(我儘な)カルメンであれば呼び止められたのだろうか」と考えているが、これは凛世の「知って欲しい」という欲がこの時点では出せなかったからであろう。
そしてこのすれ違いへ二人が向き合ったのがGRADである。
本コミュにはオリジナルの物語が登場し、凛世が少女α,βとして、プロデューサーが博士として描かれる。
大まかに二人のすれ違いを示すように進む物語だが、結末は物語と現実で全く異なるものとなる。
物語ではαとβはひとつに戻れず、博士に直接「あいたい」を伝えられることなく3人はその終わりを迎える。しかし現実では、プロデューサーに「あいたい」を伝えることができたことで、別れたまま終わることはなく、その後LPでアイドルの凛世と少女の凛世が同様の目的を見つけることに繋がっている。
ここで、凛世が自らの力で物語と違う結末に辿り着いたことは、彼女の在り方を考える上で非常に重要だと私は考える。
最初に凛世が物語に自分たちを重ねた描写が描かれるのは、【杜野凛世の印象派】『たちきれぬ』である。ここでは『たちぎれ線香』が線香が消えることで男と女が分かたれるのに対し、「自分の線香はたちきれることはない」と語っている。
この構造は非常にGRADの在り方と似ている。というのも、どちらも物語の結末に対し抗っているのだ。
凛世にとって物語が世界を知る手段だった、というのは前章で述べた通りである。
そうして長い間世界を知ってきた彼女だからこそ、GRADのように物語に入り込みがちになってしまう、というのは至極納得のいくことでもある。例えば、【凛世花伝】では役に入り込み、人形が歩き続ける理由に自分を重ねている様子が描かれている。【十二月短篇】では、我儘なカルメンへの憧れを示している。GRADではアイドルの自分を少女βに重ね、「あ」が無いという状況を強く想い悩むことになったのだろう。(【硝子少女】などにも同様の描写が存在する。)
だが彼女は決して物語の中に生きる存在ではない。物語よりも広く、要素が付かない世界を、自分の足で生きているのだ。
であれば、世界を知る手段であり入り込みがちな物語は、同時に凛世にとって世界を生きるために打ち破り、飛び去って行く檻でもあると私は思う。人形でない彼女は人を想い笑うし、我儘になった凛世はカルメンと異なりプロデューサーと良い関係を築いていくし、αとβは同じ目的を手にできるのだ。
そしてこれが顕著に描かれるのが【ロー・ポジション】『濡れて参ろう』だ。
本コミュでは雨宿りをする図書館で、凛世が『月形半平太』を読んでおり、作中の侍にプロデューサーが、女性に凛世が重ねられるかのような描写も存在する。
その中でプロデューサーに「……ふたりはどうなるんだ?」と問われ凛世は、途中で読むのをやめて「知らなくて構わない」と返答する。
GRADや『たちぎれ線香』、【凛世花伝】と異なり、この物語についてはエンディングを凛世は知らない。確認すれば二人が結ばれるエンディングだった可能性もある。それでも凛世は確認をしなかったのは、今後【さよならごつこ】や【染光満月】などで頻繁に登場する「今を楽しみたい」という想いからそうしたのは勿論として、「物語のように決められたゴールへ向かうのではなく、自分でよい結末を掴んで見せる」という彼女の強さ故であろう。
3.杜野凛世の未来
ここまでを踏まえて、私が凛世の未来をどう考えているかについて記す。
LPでは凛世が、ステージの上でプロデューサーを魅了し、恋させるという欲を得たと私は考えている。彼女にとって「プロデューサーを魅了し、結ばれることがハッピーエンドである」ことは間違いない事実であり、このエンディングを願うことは、アイドルの幸せを願う形として正しいことだと私も思う。
その上で、では我々(プロデューサーとしてか、第三者としてかを問わない)はこのハッピーエンドを祈ることだけが絶対に正しいのだろうか。
前章で述べたように、凛世にとって物語とは打ち破る檻であり、また、凛世は自分でよい結末を掴む強さを持っている。そんな彼女に「これは絶対にハッピーエンドだから」とその可能性だけを祈ることは、彼女に物語を付与することに近く、彼女にとって狭いものであるように私は思う。
例えば、凛世が満足せずにアイドルや舞踏家として現役であり続けるという向上心ある未来は、結ばれないから良いエンディングではないのだろうか。何か新しく見つけた可能性に進んでいく未来もそうなのだろうか。
私は、幾つもある未来を祝福できるようにすることが、我々のするべきことではないだろうかと思う。
だから私は、彼女が結ばれるかどうかを重視していない。一つの結末を絶対的に良しとすることより、彼女が自分で納得できることが何よりも優先されるべきことであり、その時を待つために隣に居続けることがプロデューサーの私がすべきことだと考えている。
4.おわりに
以下敬体。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
普段と異なり、ちょっと論理や因果から外した方向の内容であり分かりにくいかもしれませんが、自分が凛世に感じていることが伝わればいいなと思います。
当たり前のことですが、この解釈だけが正しいわけありません。アイドルに対する向き合い方・考え方は人の数だけ存在していて当然です。「こういう人もいるんだなあ」程度に思ってもらえればそれでいいです。
それでは~