分かり合えないことから
こんにちは!YOSHIKIです。今日は僕が学生時代から考えていることについて書こうと思います。なかなかにひねくれている内容かもしれません(笑)
フォローしてくれる人たち
僕が落ち込んでいたり、怒られた後、愚痴をぶちまけた後に友人、家族、先輩などなど僕をフォローしようとしてくれる方々が多数いました。非常にありがたい限りです。
フォローの中で多くの方はこんな言葉をかけてくれます。
「お前の気持ちはよくわかる」
気持ちはありがたいのですが、正直、この言葉は非常に嫌いでした。予め断っておきますが言葉をかけてくれた人たちのことを悪く言うつもりはありません。むしろフォローしてもらい、感謝しているくらいです。ただ、この「気持ちがわかる」ということについて非常に違和感を覚えているのは僕だけなのでしょうか?
違和感の原因
違和感を覚える理由としてその人の育ってきた環境、立場、生活背景が異なるからであると考えています。異なる立場なのに自分の実情が分かるはずがない、僕はそう思ってしまいます。その立場や状況を経験してきたからこそ出てくる言葉なのかもしれませんが、その時と100%状況が同じであるはずがないし、その状況によって考えていること、気持ちも違うわけです。そのため、僕は「お前の気持ちはよくわかる」という言葉を全く信用できないです。
極端な話、ホームレスの人に大企業の会社役員が「大変ですね」と話しかけてもホームレスの人は「こいつ、小馬鹿にしてるな」くらいにしか思わないはずです。それは、会社役員はホームレス生活をしたことがなく、それまでの生活環境が全く異なる人たちのやり取りだからです。
以前、教員をしていた際にも提出物を出さない生徒に対してなぜ提出物を出さないのか聞いたことがありました。その生徒は適当な理由を見つけて話すのですが、教員という枠にカッチリはめられていた僕には理解できないような理由ばかりでした。その生徒に期限を守って提出することの重要性を説いたつもりだったのですが改善されず。「お互い理解しあえないんだな」と虚無感に苛まれたのを覚えています。(僕の指導が不十分な可能性もありますが)
お互いに「分かり合えない」字面だけ見るととても哀しい。しかし、もしかしたらこれは1つの事実なのかもしれない。僕はそう思っています。
分かり合えないから
分かり合えないから排除する、話をしない。これってもっと哀しいことですよね。昨今の誹謗中傷、SNSでのいじめ、ハラスメント。これらは「分かり合えない」をそのままネガティブな方に、自分が楽なようにもっていっているだけで。本当に「分かり合えない」まま終わってしまう。
僕は「分かり合えない」という前提で話をするということをしています。もちろん、話をしていく中で共感できる部分は少なからずありますが、物事の捉え方はズレがあって当然。だからその考えを否定するのではなくて「そういう考え方する人なんだ」というような個の尊重を大事にしています。「分かり合えない」という前提があると物事やその人に対して寛容になれる気がします。
まとめ
・わかりあえないという事実がある
・分かり合えないために人を攻撃するのは哀しい
・分かり合えないけど個人を尊重する
これらが大事なことのような気がします。長々と書きましたがまた考えが変われば何か書こうと思います。ではまた!