国際ビル

【事業部解散 商社で何があったのか】

~新規事業参入から事業撤退まで大手総合商社で何が起きていたのか~

時代背景

2005年ニュース 郵政解散選挙、耐震偽装問題             ヒット曲 青春アミーゴ(修二と彰)、さくら(ケツメイシ)

2006年ニュース ライブドア事件で堀江貴文社長ら逮捕、ハンカチ王子  ヒット曲 粉雪(レミオロメン) アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士(DJ OZMA)

2005年夏
当時フリーランスの営業として様々な仕事に関わっていましたが私は自分で自分のマネジメントすることに限界を感じ転職活動を行なっていました。
希望した仕事は2つ
1つは球団買収などで世間の注目を集めたライブドアを通じて興味を持った金融業界。証券アドバイザーなど具体的イメージはなかったですが、お金でお金を産む仕事をやってみたいと考えていました。
2つ目は自動車関連の新規ビジネスに進出していた双日株式会社と言う総合商社です。

6月ぐらいから履歴書を送付し人事の方と面談に臨みました。4年間フリーランスとしての営業実績があったので、成果は残せる自信はありました。重要なのは本気で打ち込める仕事を見つけることができるかどうかでした。金融系の会社は2社受けましたが1社は面接で落ち、もう1社は合格しました。
合格した会社は世間でも有名な会社です。初夏の蒸し暑さが残る季節に第一ボタンまでピシッとしめて新宿まで面接に行った記憶は今でも鮮明に覚えています。通された応接室は簡素なパーテンションがある程度だっため面接中に隣のフロアから聞こえてくるゴリゴリのテレアポをしている声と社内の殺風景な雰囲気が忘れられません。面接官は課長の肩書だったと記憶していますが見た目がイカつくパンチパーマ風で髪型がバッチリ決まった人でした。
こちらの面接はトントン拍子に進み(おそらく成長期だったので少しでも人が欲しかったと思います)1か月後には採用通知をいただくことができました。

転職先を探している時は双日の仕事に対してそれ程興味があった訳ではなかったのですが、採用サイトを何度も見直して見ていると大きな会社をバックにして自分の力を試してみたいと思うようになってきました。フリーランスの営業として成果を残すために努力した経験と大きな会社のバックがあればきっと何かを成し遂げることができるはずと確信していました。当時読んでいたサラリーマン金太郎の影響もあったと思います。サラリーマンを極める!プロとしてやってやるって思っていました。
意気込んで面接当日を迎えますが、結果は不採用でした。
3人の面接官と対峙して自分のアピールをするのですが、商社の社風とは異なる異色のタイプと思われたようです。旧帝大や早慶大の多い総合商社にとって中途採用の採用ハードルは下げていますが、どう見ても異色な存在で、私のような現場叩き上げのようなタイプは扱いづらい人材のようです。
自分ではアピールできたと思っても願った結果を得ることはできませんでした。
普通ならここで終わりだと思うのですが私は「絶対に私を採用した方が良い!」と伝え再度、面接の機会を頂きました。
が2度目の結果も不採用。
不採用理由をダイレクトに聞くと課長から「時期がね〜」と曖昧な返事。私は間に受けて時期が来ればOKになるかな?と都合よく解釈し次のタイミングを待つことにしました。


次のタイミングは意外にも早く来ました。
残暑厳しい夏も終わり秋に入ろうかと言うタイミングで先に選考が進んでいた金融系の会社から採用通知が届き入社式の案内が届いたのです。
内容を見ると翌週月曜日に新幹線に乗って京都本社へ来るようにとのお達しです。通知をもらったのは前の週の火曜日です。
このまま京都に行くか、もう一度双日に聞いてみるか?
私が選んだ答えは双日に聞くでした。
水曜日の朝一で双日に連絡をすると1時間後に電話が来ました。
「明日会社に来ていただけますか?」もちろん「はい」と答え全ての予定をキャンセルして赤坂の本社へ向かいました。地下鉄赤坂駅を降りると一番目立つのがTBSのビル。その反対側に位置する2本の大きなビルこそ双日が入居している赤坂国際ビル東館と西館でした。
会議室に通され、内容はいたってシンプル。
告げられた内容は「上から稟議が降りたので来週月曜日から来てください」でした。


プロサラリーマンのスタート
こうして私の商社キャリアがスタートしました。当時は神奈川県の相模原市に住んでいましたので通勤時間が1.5時間。帰りは2.5時間かかることもありました。満員電車に揺られながら頭の中で仕事の手順や業務改善案のたたきを作りながら通勤しました。途中からは日経新聞や読書に充てる時間とし通勤時間も有効活用します。日経新聞を読む自分を客観的に創造して、商社勤めの一員になれたことに喜びを感じていました。
「せっかく入社したし、やってやるぞ」と思い初日を迎えます。早めにフロアに着いたのですがセキュリティカードを持っていないためオフィス入れず、随分と待った記憶があります。プロパ社員の皆さんはギリギリ出社の人がほとんどで、業務前の挨拶も無しに初日の仕事が始まりました。


2005年施行の自動車リサイクル法に合わせて新規ビジネスとして双日が参入する業界背景を教えてもらいすぐに納得できました。なぜなら法改正に伴って大幅な市場活性化に繋がった業界を知っていたからです。
人材派遣や大規模小売店法、一地域一店舗の薬局なども規制緩和で市場競争の原理が働き大きく市場が成長した事実を知っていました。国が法律を変更するというのは強力な後押しになると実感していたのです。
私が入社した直後からメンバーがドンドン増えて行きます。1か月で2.3人のペースで増員され、中途採用のメンバーや双日の他部門から異動してきた人、プラスして派遣社員も加わり、半年後にはオフィス内で引っ越しをしてチームとしての気運が高まります。


上場成功に向けてスタート
新規事業開発グループは新しいビジネスの成功モデルを作り、部署から子会社へステップアップし最後は株式上場すると言うのがマネタイズフローです。すでにリスクモンスター(現:東証二部上場)などが上場に成功しており、その他にも子会社化独立を果たした会社が多数あると聞きました。
私達に課せられたミッションは
「出来るだけ早く成功モデルを構築すること」
でした。収益をいち早く上げると言うよりは、どこに何を投資すると成功するのかと言う方程式を見つけ出すことが求められていました。当時の雰囲気は「お金と人はいくらかけても良い。早く方程式を見つけろ!」でした。
BtoBが基本の商社ビジネスの中で私たちの部門はよりBtoCに近く、同じフロアにいる他部門の人からも不思議な目で見られていました。金額の大きい手数料ビジネスを得意とする商社の中で1点単価3,000円の商材もあるようなビジネスは異色と言うよりは物珍しいと言う存在でした。
チームリーダーの課長は、同期の中で最も課長昇進が早く雑誌プレジデントからはMVP社員として特集されるような目覚ましい活躍するタイプの人です。戦略に長けたタイプの人で良くも悪くもできる商社マンです。アニメキャラクターのような存在は社内外からも注目され、常に話題の中心に上がるような人です。商社を知らない人が商社の人をイメージしたときに最も想像しやすい人です。話は面白く、他人を引き付ける魅力があり、大柄の体系は冬でも扇風機が必要なほどでした。

組織体制が確立された会社で行う新規事業の難しさ           商社の雰囲気は決められた仕事を一人一人が淡々と行う物静かな雰囲気で議論やコミュニケーションを取ることは極めて少ない。指示は全てメールで送られてきます。例え隣の席でも!全体ミーティングなどは行ったことがなく情報共有や課題の確認などの時間は取ったことがありませんでした。だからなのか?たばこ部屋会議(喫煙者向けにフロアの中心部分に6畳程の喫煙所が設置されている)か仕事が終わると飲みニケーションが多いのです。飲みニケーションも悪くはないのですが、結局参加するメンバーはいつも同じで、意見として採用されない。今思えば無駄の象徴のような時間でしたが、これも商社文化と割り切れば仕方ないのかもしれません。
新規事業なのにチームとしてのディスカッションやミーティングもありませんので当然、意思統一ができません。同じ仕事をしているけど、誰がどんな仕事をしているのか同じフロアにいながら知らないのが普通でした。案の定チーム内に不協和音が生じて、私も随分槍玉に挙げられました。理由は良い顧客の案件だけを私がやっていると言う妬みです。「プロとして成果を残す。自分も、株式上場メンバーの一員になる」と覚悟を決めて仕事に取り組む自分と、大会社にぶら下がって給料をもらう発想のメンバーでは意識レベルに差があって当然。質と行動量が大きく違いましたので成果も当然ですが大きく違いました。直属の上司は不満や愚痴の言う人の意見を聞き、何度もやり方を変えましたが結果はいつも同じでした。また転職入社組とプロパー組(新卒で入社したメンバーのこと)の社内格差もありました。プロパー組はエリート意識が高く、実行レベルの仕事をやりたがらない。相互理解の欠けたチームは表面上まとまっているような雰囲気を出していますが実際はチーム内の愚痴や影で相手の足を引っ張るようなチームでした。チームを育成する概念が無かったのも大きく影響したでしょう。

美しいものを作れ!
それでも売り上げが伸びていくのが凄い所です。資金を惜しみなく使う営業戦略の元、毎月過去最高記録を更新して行くのです。
利益は後から。売上げ最優先!
良く言われました。「美しいものを作れ」と。
美しいものとは役員会議で使用する見栄えの良い成果資料のことです。大きな会社になると上を説得するのも大切な仕事です。味方の役員を何人作るか?最後は多数決ですから社内ネゴは必須です。戦略家タイプの課長は魅せるプレゼンに定評があり私達の部署は双日全体の中でも注目される存在でした。専務取締役の役員がわざわざフロアを覗きに来た時は「きみが長倉君か〜頑張ってくれ」なんて声をかけていただいたこともありました。
役員会議が近くなると課長たちのミーティングが増え中心メンバーで資料作成している姿がとても印象的でした。

取引先が増え顧客が増え、徐々に力が付いてきた実感があります。利益率は後から改善すれば良い方針でしたので入社して1年半で見事な美しい右肩上がりの売り上げグラフが出来上がりました。私が入社した時と比べると売り上げは20倍近くになっており成長の軌跡は誰もが感じることができました。
課長の動きが少しずつ変化します。当初は役員向け資料作成の指示でしたが徐々に投資会社向けの資料作成指示へ変わり、直接交渉しているなんて噂もメンバー内で出ました。(社内共有がないため課長の行動は推測)課長不在の飲みにケーションの場では、いよいよ今後の分社化へ向けた動きが加速すると勝手に盛りあがり、新しいオフィスはどこが良いか?1年後はどんな役割になるのか?今思えばありもしない話をして何であんなに盛り上がれたのか?不思議で仕方ありません。
課長から情報がブレイクダウンすることはないため、課長やシニアバイスプレジデント(事業部長)の漏れた会話を盗み聞きし、今後の展開を確認することなく勝手に予測するしかありませんでした。

テレビで見たことある!
2007年2月14日。すでに30名を超す大所帯となったチームが会議室に呼ばれました。


「ノーティス」つまり何らかの告知があるとのことでした。高まる期待を胸に会議室に入り全員が揃うのを待ちます。なにせチーム全員が集まるのは初めてですから。全員が大事な発表があるなと感じていました。赤坂を見下す位置にある会議室はメンバー全員か揃うと熱気で包まれ、この後の発表に期待するなと言われても勝手に期待値が上がってしまいます。
次に向けた発表だと思っていたメンバー全員がこの後、頭をブン殴られるような衝撃を受けます。課長は全員が揃ったのを確認すると躊躇なくノーティスするのでした。
「来月この事業部は解散します。役員会議で既に決定していますので覆ることはありません。皆さんは明日より転職活動をしていただいて結構です。」
「おっー」
会議室の1/4は女性陣でしたが人生で聞いたことないような低い声が皆の口から出ました。大会社の悲しさか理由が明かされることはありませんでした。事業部解散の理由は「役員会議で決定したから」なのです。
世間は「首切り、倒産、リストラ」が流行り言葉になり、明るい経済ニュースが一つも無いような社会情勢の中に自分達も否応無しに明日から放り込まれるのだと理解しました。
「テレビのニュースでこう言う話の特集を見たことある」まさか自分が当事者になるとは考えたこともありませんでした。
質疑応答もなく決定事項の伝達としてメンバー全員が集められ、予想した結果と大きく異なる役員会議の伝達を突きつけられ、会議室を後にするのでした。ここまで引っ張ってきた課長はもちろん悔しいでしょう。そのあと一度も話しをする機会は設けられませんでした。
他のメンバーはみな「行く場所無いよ〜」と嘆き、「なぜこのような結果になったのか?」と犯人探しのような議論がしばらく続きました。

「新規事業」聞こえは良いが「成功させる」ことは、とても大変なことだ。成功させる上で最も重要なのは「斬新さ」や「資金力」「ビジネスモデル」ではなく「人」だと言うことです。人がプロダクトやサービスを生み出し、課題を解決します。企業同士の交渉も人が行い、支援していただける会社を見つけるのも人です。新しいビジネスをチームとして成功させるには世間的に言われるような良い人の集まりはなく、ゴールに対して幅広い視野を持ち、長期短期で物事を見ることができ、変わることのない情熱を常に持ち続けることができる人。自分の意見を発信し他人の意見も認めることができる。当事者意識を持ち具体的に行動できること。また、リーダーは風通しの良い組織を構築できるよう皆を引っ張り、支えることが必要です。リーダーの動きが見えないと言うことは羅針盤の無い船に乗るようなものでゴールにたどり着くことはできないでしょう。


解散の理由
私は発表から2日後に会議室に呼ばれ直属の上司から「3月一杯は給料を支払うので会社に来なくて良い」「鞄はこの後、この部屋に持ってくるからこのまま帰ってくれ」と言われました。コンプライアンス重視、問題を起こすことなく事業を撤退するのがベストだと考えた上司は、この事業に最も熱を入れ意見を発信し、事業が成功できるよう真剣に仕事に臨んでいた自分が、会社の方針で事業部解散と決定すると、最もリスクの高い人物と判断したようです。
私はメンバーと挨拶することなく双日を去ることになりました。

大手志向の父
「そうか双日に入ったのか」転職先が決まった時に父にこう言われました。いつになくやさしさのある口調は私を認める言動でした。昭和の高度経済成長期の中で戦った父にとって、大きくて有名な会社は安心で安全な会社と言う図式が成り立っています。小さい頃から父の臨むことを何一つやらなかった自分にとって初めて恩返しができたような気分でした。その商社生活も意外な形で幕が下りるのです。現代のような情報化が進み、社会背景が目まぐるしく変わる時代の中では大手もベンチャーもリスクは同じ(もちろん資本によるバックアップの違いはありますが)なんだと実感しました。

18か月で掴んだもの
「商社が新規ビジネスを行う」大きな期待をし、自分でも沢山のチャレンジをした時間はあっけなく終了のホイッスルが鳴り自分の意志ではどうすることもできないまま心の整理をしなければなりません。ただ私の心の中は穏やかでした。やるだけのことはやったのだから、どこかの会社に入ることはできるはずだ。
この時に解ったのです。「安心や安全は企業ブランドにあるのではなく、人の心の中にあるのだ。何かの成果を残そうと考えた時間と行動した量だけが自分に安心をもたらしてくれる。自信も不安も人や企業から与えられるのではなく自分自身で生み出すものなのだ」と気づきました。

数ヶ月後に元上司からこんな話しを聞きました。双日は日商岩井とニチメンが合併してできた総合商社で私が入社した時は合併して数年しか経過していませんでした。私達が所属していた新規事業部は旧日商岩井の事業部で、9割が旧日商岩井の社員でした。私が転職入社した2005年は旧日商岩井出身の社長で役員の過半数も旧日商岩井でした。2007年の役員改訂で旧ニチメン出身の社長が誕生し過半数の役員も旧ニチメン出身で占められるよになりました。新規事業部は子会社化して、株式上場しなければキャッシュが入りません。上場に成功すれば大きなキャピタルゲインになりますが、計算のしにくいビジネスです。経済的背景も余裕のある時代ではなく、時間をかけて事業を育成するような雰囲気は無くなっていたのです。コストカッターや首切り役なんて言葉が一般化した時代でもあります。
社長交代のタイミングで事業部を無くすという決断をしたのだと。

時代背景や会社の置かれているポジションによって、必ずしも誰にでも良い選択をするわけでは無いと言うことを自身の体験を通して知りました。これは中小企業やベンチャー企業に限られることではなく、大手企業も市場の原理というモノサシで計れば同じ条件と言うことが言えます。
大手は潰れない、大手は安泰と言う受動的で他人の言動に依存した理由を軸に企業選びをするのではなく、自分のやりたいことの追求が仕事の質を向上させ新しい自分に出会える唯一の方法だと思います。
私が大勢の商社で働く人を見た印象は、戦略的思考の人が多く、実行部分の仕事はあまりしない(やや下に見ている)仕事に対する熱があると言うよりは所属価値を大切にしている。意見は言わない会議では。飲み屋なら言う。本音と建て前が徹底しており、何が本心かわからない。
情報収集スキルが高い。日経新聞の情報や社内人事の精通した人が多く、あの課長は誰々派なんて会話を良く聞きました。また良くスタバに買い出しに行く。そして購入する飲み物のサイズがデカイ。


既に長い歴史があり、何かを生み出さなくても生き残って行ける。そう言う企業風土が前述のような人を育てたのではないかと思います。もちろん私が交流したメンバーの印象ですから、もっと違う人がいるとは思います。ただ私が所属した時間の中で前述以外の人と出会うことはありませんでした。

自分自身が自分以外の人や会社に対して勝手な印象を持ち、自分の意志や判断も任せてしまうと自分で行動すると言うことができなくなります。自分で考えて行動する。人が生まれ持って育った当たり前の能力すら失くしてしまうのです。企業に所属しながら自分で意思決定して行くことこそが価値ある社会人経験に繋がるのだと思います。
その後一部のメンバーはグループ子会社へ転籍となり、多くのメンバーが退職しました。自分の意志で仕事に望んでいた数名が起業やステップアップの転職に成功したと聞いています。

想像もしなかった結末を転機に私は新しい道を進む決断をし、株式会社パーツワンを創業することになります。

まとめ
・大きな会社でも事業撤退、事業失敗はありリスクは社員も背負う。
・安心や安全は企業ブランドではなく自分を成長させて自分でつかみ取るもので企業に依存するものでない。
・今いる環境でベストを尽くすことが次へのステップになる

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