自意識を拗らせたオタク、3年目の推しに会いに行く
※特定の個人を誹謗にする意図はありません。
※都合良い解釈は含まれます。
はじめに
私には推しがいる。
しかし、推し活という言葉がオタクの自意識を激しく揺さぶる令和では、それが正しく「推し」であるかはわからない。「あわれ」や「エモい」の懐の深さが日本語の包容力であると感じ、それを愛している私だが、Twitter(新X)を観ていると、そんな自信がなくなるときもある。
そもそも、私はオタクですらないのかもしれない。
元来、満足中枢が貧弱であるために、「配信でコメントを読まれた」「かわいい写真をSNSにアップしてくれた」などと小さな供給で生きてきた。正直推しから甘やかされて育てられた自覚も(勝手に)ある。そして、そこに満足して、布団の中から画面を見続ける日々であった。
私には「推し」はいても、推すことはできていなかった。劣等感はないけど憧れはあって、行動はしないのに感情ばかりが先行していた。
ただ私はかわいい推しを遠くから覗き、こちらは対価を支払うこともどんな人間かを明かすこともなく、醜悪なnmmn二次創作者のようなドヤ顔で、あちらからのアクションを期待せず、楽しく過ごしていた。
なにせ楽なのだ、この立場は。
ライブにも行かないオタクなんて認知される訳がないし、必要もない。
元々「広島飛ばし」で有名な野球くるいんちゅタウンで育ち、鞘師里保の高校生金無しオタクをしていた私にとって、認知の喜びなど烏滸がましいものであった。対面イベントも苦手なんだ。あまり回数行く余裕もないし、容姿にも自信がない。
いや、容姿なんて関係ないだろうけど、そういうのを気にしちゃうタイプなんだ。
ただ、あまりお金も時間もかけず、出演番組を観ながら、勝手に二次創作まがいの(一方的な)愛に溢れた怪文書を作成する。とっても楽な「推し活」である。これは末尾に(笑)を付けられ、「ごっこ遊び」などと冷笑されても仕方がない。
お茶の間のテレビでしか観ない相葉くんに「カッコいい〜!!王子様みたい」とか言いながら、「そうだわ、明日のカレーはバーモントにしましょう」などと考える主婦たちと大差ないわけだ。
まぁ、平たく言うなら「在宅」だろう。
だが、そんな言葉を投げつけてくる人も私にはいない。ファンコミュニティに属していないからだ。
被害者意識全開の言い分で申し訳ないが、私はコミュニティに属することで、自分を変えられてしまうかもしれないことが怖いのだ。
「私の好きな彼女も、嫌いな彼女もすべて私の中にしかない感情でそれを大切にしたい」というと聞こえはいいが、実際には人間関係のために解釈違いを肯定したくないし、単純に先ほどのような私の中の感情を、私の話し下手な口から出力したくない。
恥ずかしい、こわい、自信がない。
勿論、オタクさんたちは良い人がたくさんいて、これはメタ認知が狂った小心者の戯言であって、実際にそんなことないことは私も知っている。
余計に戯言を補強するが、学生の頃は…
まぁ、現場に多く行くわけでもないからね。
それでも、仲良くしたり、その先の共感の嬉しさや期待よりも、否定への恐怖が上回っているくらいに、好きなものや感情を否定されたくない。そんな気持ちになるのは、そこそこの年齢なのにモラトリアムを引きずっているか、翻って彼女が私にとってたしかに「推し」と呼べる存在だからなのであろう。後者であってほしいなぁ。かっこつけたいし。
卒業
そんな私にも変化があった。
推しが卒業することを発表したのだ。
これまでも経験はあることではあったが、とても久しぶりだった。里保ちゃんが最後で、それ以降もあるにはあったが、私の興味がフェードアウトしていくことの方が早かった気がする。
だから、本当に実感はなかった。食卓の相葉ちゃんファンだったからそりゃそうだ。
発表の際に「アイドルを続けていく」と書いてくれていたからというのもあった。
でも、さすがに卒業公演くらいは行こうかと思い、大阪へ向かった。
結論から言うと、良いライブだった。
私は彼女を、石橋を叩き割るかのごとく、自分の気持ちを何度も何度も口にして、硬度を上げるというか、描きたいものに一番合う色を探しあてるまで塗り重ねないと気がすまない人だと思っているが、そのとおりに、いつも言ってることをいつものように言って、泣くわけでもなく、ニコニコしながらステージから去っていった。
ラストライブにそんな立ち方をした彼女を反芻しながら帰宅したのを覚えてる。
普通にいいライブだったなぁと思いながら、ソロアイドルとしての彼女の新章に胸を膨らませてながら歩いていた。
画面の向こうの「推し」の実在を確認しつつも、遠くから低い視力で、知ってる彼女を観ているだけで、私の中のバーモント根性はあまり変わることはないだろうなと思っていた。そう、あの日までは。
きっかけ
そんな自意識は過剰なくせに、甘えきっており、怠惰で小心者の私にもきっかけがあったから、会いに行くことを決めたのであった。
勝手にくらった
メタ認知が狂っているオタクである私にとっては、自分に対して向けているわけではないであろう情報や発信をいかにして、自分事であるかのように認識するか──私信認定が、とかく需要な推し活の一つである。そんな少女漫画の1話で出てくる、台詞の8割が「キャー」しかないモブのような楽しみ方をしています。\絶対、私信じゃ〜ん/
さすがに令和の世といえども、モブはそんなこと言わないし、以下は戯言なので本気にしないでほしい。
ある日、暇だった私はネットサイン会の配信終盤から視聴していた。他のオタクさんたちへのサインが終わったあと、軽い雑談のような感じになるのですが、その際に私は「観てるだけだったけど、かわいかったし楽しかった〜」などと軽い気持ちで送ったところ、推しに「観てるだけね(乾いた笑い)」をいただきました。
イーロン・マスクの神采配によるバタフライエフェクトで、語るのも烏滸がましかった「推しからの認知」の可能性にキャッキャしていた当時の私は、元々生粋のメタ認知くるいんちゅだったこともあり、「はよ参加しろ」と言われていると(勝手に)認定し、とりあえず次回のネットサイン会に参加することにしたのでした。
長いので要約すると、「とりあえず次回のネットサイン会に参加することにしたのでした。」となります。
はじめてのネットサイン会
といっても作法すらわかりませんから、とりあえず指示に従って買ってみたのです。
回線勝負だ!とサイゼリアで小エビのサラダを食べながら、スタンバってました。
そして、肝心のサイン会は────もう何も覚えていません。なんか、備考欄の虚無ぶりに、話を広げようとしてくれたことだけは覚えています。
ツイ廃を自認する私がサイン会後、まさかの2ツイートのみ!!不覚!!
リベンジを期すことにしました。
お手紙を送ろう
そして、ときは2024年12月に差し掛かるくらい。
いろんな難しさもあって推しが元気なさそうに見えました。常に元気でなくてもいいけど、落ち込みすぎるのは良くないですからね。心配でした。
かくいう私は、見知らぬ地での長期出張中。楽しみもなく、プラベートはいつも一人。映画を観ていたのでアウトプット欲だけは持て余す日々。誰も私の呟きなんて観ていないのに、Twitter(新X)で他者批判的になっているなと(勝手に)気にしては、推しへのツイートを書き消し書き消し。
こんなことするくらいなら、素直に励ましの言葉を送ろうと。メモに下書きを書いていたら、2500字ほどの分量となり、かわいいレターセットを断念して原稿用紙4枚分に推敲して書き書き。サイズの関係で茶封筒で送ることとなり、プレゼントだと勘違いされて廃棄されるかなぁと思いながら投函。
無事に届いたか今も知りません。
届いた?って聞くの、押し付けがましいようでできないんですよね。ここまで付き合ってくれた、メタ認知くるいんちゅオタクなら分かってくれるはずです。
出来ですか?どうなんでしょう。
読んだ人が決めるんですよ。
推しに会いに行くことを決める
その後のネットサイン会などでリベンジを果たし、手紙は届いたか知らないけど少なくとも自己満をした私は年末、浮名の代わりに弾みまくっていた承認欲求の高まりを感じていました。
公共のオタク広場でありながらも、ネットサイン会は一人一人結構長い時間お話できるんですよ。
私も2回目は前より少し話せて、そこから少し仲良くなれたような気がして嬉しかったです。
そして年末のネットサイン会、私の年末年始おセンチポエムで乱れるであろう空気を破るべく、お茶を濁すように「文フリ京都たのしみ〜」とメッセージを書き足しました。住んでいる場所に比較的近いという地理的条件、そして高まる承認欲求!それ込みで、割と50-50、つまり行けたら行くくらいの気持ちでいたんですが、話の流れで「お前のことは少なくとも1年前から監視している」とテレパシーを受信してしまい、あの日のネットサイン会の乾いた笑いを想起しちゃったんだ。
「ここで行かなきゃいつ行くんだ!3年目だぞ!3年目!!」と!!
ここで頑張らなければ!!!
そうやって、その後現れるであろう怠惰な自分に負けないため、己を奮い立たせる私であった。。。
つづきを書きました、読んでやってください。