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北海道・釧路の少し長すぎるエゾシカの物語


長い話になりそうだから少しずつ、
ゆっくり読んでいただければありがたい。
エゾの地に生きた人びとの物語として、ともに生きてきたエゾシカの物語として、新しい産業が生まれる瞬間の目撃者として、いろんな読み方を楽しんでいただければ幸甚のかぎりです。

空港から市内に向かう真っ直ぐな道路、途中に出くわす野生の鳥や動物。夕焼けの港に出入りする小さな漁船。そして空がいっぱいに広がる街並み。ぼくはすっかり釧路が気に入った。そして、そこで出会った石材業の親子から聞いた長い話をもとにこの物語を書き始めた。


第一話 なにかご用ですか

  釧路を初めて訪ねたのは7、8年も前になるだろうか。札幌は何度か来たことがあるの だが、釧路についてはまるっきり初心者だった。
以前、私の事務所(小さな出版業)で一緒に仕事をしていたО君がこの街の出身で、30代半ばになって東京を離れ、この地で仕事をやることになりました、いいところだから一度おいで下さいとお誘いがあり、それで飛行機に乗ったわけなのだが、私はたちまち釧路の熱烈なファンになってしまった。その感激をあるところで書いたらそれを読んだサラリーマン時代の同僚2人が隠れ釧路ファンを名乗ってきたものだから驚いた。2人が2人、私と定宿も同じで世間はなんと狭いものか。

 空港から市内へつながる緑の野を走る真っ直ぐな道路、途中で出くわす野生の鳥、動物。市内の、これまた広々とした道路と、空がいっぱいに広がる街並み。北大通りにある古書店と二階のカフェ、夕焼けの港に出入りする漁船。どれもエキゾチックな風景に思えた。気候もよい。北海道の中では雪が少なく、凍てつく夜はあっても、晴天が多く、太平洋の沖合に発生した霧が市内に漂ってくるという独特の気候も含めてなにもかもが心地よい。美味しい海のものが魅力的なのは言うまでもない。

           北大通りのカフェ。一階は古書店

 すっかり釧路が気に入って何度か訪ねるうち、『苫小牧市の人口、釧路抜いて北海道内で4位に』というという新聞記事にふれた。4位と5位が入れ替わったのだが、地元の釧路新聞社(かつて歌人・石川啄木が働いていた職場)を訪ねたおりに、人口減で、市内のいくつかの大手チェーン店が閉店したことを聞いていた私にはまことに寂しいニュースだった。しかし、そうした空気を追っ払ってしまうような痛快な出来事に間もなく出会うことになったのは幸運としか言いようがない。

 あるとき釧路空港から市内に向かう途中、阿寒町に入ったあたりで風変わりな建物を見かけた。大きなログハウス風のクリームと茶色の建物。近くに車を停めて同行のO君としばらく建物を眺めていると、ご用ですか、と声がかかった。その日は土曜日で出先から戻ってきた、この建物の主、北東開発の曽我社長(当時) だった。穏やかな風情で私は応接室に招かれ、O君は近くの散歩で時間をつぶすことにした。
こうしてかれこれ小一時間も話したのが、この物語のテーマであるエゾシカ産業に挑戦するひとたちとの初めての出会いになった。話をしているうちに、ぼくはもう、単なるビジネスの自慢話ではない、新産業、地方創生につながる、この壮大なビジネスに挑戦する男たちの話を書こうとワクワクする思いを抑えようがなかった。
 東京に戻るや、私は『北海道ジビエ物語』という本のプロットを固め、メールで曽我社長の承諾を得て、そこから私の苦闘が始まった。

 それは北海道がエゾであった時代から生き続けてきた主人公、エゾシカの物語。北海道という土壌において生き続ける動物であり、保 護と駆除を繰り返しながら、最近では食害や交通事故で問題にもなる複雑な存在だ。それゆえ、どうしても北海道そのものにふれながら、この新しい産業、ジビエという食文化を語っていかなければならなかった。私がいまだかつて扱ったことのない素材、専門分野を扱うことになるため食品分野に強い市岡充重(いちおか・みつえ)さんという女性ライターに応援を借りることになった。こうして北海道と、エゾシカと、それらを取り巻く釧路、阿寒の人びとの物語が始まることとなった。 

第二話 北海道には「弥生時代」がない

 北海道の生徒たちは本州の学校とは少し違った教科書で日本の古代の暮らしを学ぶ。本州では縄文時代が終わると大陸から渡来人がやってきて稲作中心の弥生時代が始まったと教わるが、北海道にはこの弥生時代がなかった。
稲作文化を取り入れず、縄文と変わらない自然の中で狩猟や採集によって食べ物を手に入れる暮らしを続けた。
つまり弥生時代の代わりに「続縄文(ゾクジョウモン)」時代が続くという特有の歴史を学ぶのだ。弥生文化が始まらなかったのは北海道の厳しい寒さからだった。コメは本来、また稲作で暮らさなくてもサケ漁やシカ狩りによって安定して冬を越す食料を手に入れることがでたということもある。
そうした歴史を通じて人間と動物、とくにエゾシカとのかかわりは深く、縄文から続縄文にかけて遺跡からはシカの絵の土器やシカの骨がおびただしく出土する。この食習慣、つまりエゾシカを食べるという習慣はアイヌの人びとや数少ない和人(本土日本人)の間で伝わっていく。アイヌの社会では低脂肪で栄養価の高いエゾシカがきわめて身近な食料だったのだ。

   日本の総面積のおよそ5分の1を占める北海道は江戸期まで「蝦夷(エゾ)」と呼ばれてきた。エゾは北に住む異民族の意である。明治時代に入って廃藩置県が進められ、このときに蝦夷も、方角の「キタ」、蝦夷を音読した「カイ」、東海道の名称を拝借して「道(ドウ)」、こんな具合に「北海道」が誕生した。

 明治の新政府にとってこの広大な土地の開拓、有効利用は最重要課題となった。課題解決の策として設けられたのが「開拓使」だった。開拓使は人物を指すのではなく、実は官庁の名称だ。函館に現地の役所が置かれ、中央政府のある東京に出張所が置かれた。
開拓使は2つの政策を並行して進めた。一つはロシアに対する北方警備、そのための開拓も兼ねる屯田兵制度であり、もう一つは本州からの移民政策を果敢に進めた。移民は当初、東北地方の士族の応募が多かったが、やがて北陸に広がり、他の地域出身者まで及んだ。出身地の名前や地域の名前が北海道の地名として当たり前に残っているのはそうした名残りである。例えば北海道の東、釧路には明治初期に鳥取地方から数百人の士族が移り住んだことで市内の大通りには「鳥取」の名前が付けられている。本書に登場する曽我部一族も、この前後の時期に四国の徳島から移住してきたと聞いた。このようにして明治の初めに2万人にすぎなかった北海道の人口は明治半ばには30万人、そして明治の終わりには200万人と、その後も急ピッチで人々が海峡を渡ってきた。
  ※2024年4月現在、北海道の人口は約506万人。都道府県別で全国8位。

 開拓使の仕事の一つに産業振興があったた。開拓使は「お雇い外国人」の指導で製糸、ワイン、ビール工場などの官営事業を各地で稼働させた。これら外国人の半数がアメリカ人であったのは北海道の風土や環境条件がアメリカに似て馴染みやすかったためだ。最初の工場は1869(明治2)年に開設されたという記録が残る。
当時、日本の産業振興の柱とされたのは貿易であり、輸出増進には各国で催される万国博が注目された。1851年に世界初のロンドン万国博が好評を博するや、その後の万国博には世界中から名産、物品が出品され、そこへ政府関係者や商工業者や一般の市民が大挙して集まるものだから、開拓使には産品を売り込むのに絶好の機会と見えたはずだ。当然のことに開拓使のマーケティングは万国博重視となった。
1876年、アメリカは合衆国独立100周年を記念して国際博覧会を催した。独立宣言の地、ペンシルベニア州フィラデルフィアが会場に選ばれ、米国で初めての大規模な万国博とあって米国政府は大変な意気込みでこれに取り組んだ。明治政府は米国フィラデルフィア万国博への出展を真っ先に決定する。輸出振興と外貨獲得が目的だった。政府は大勢の大工を現地に送り出して日本家屋のパビリオンを建て、ここに将来の戦略輸出商品を出展することにした。政府は万博参加にあたって「本邦商品の紹介たると同時に又主催国及び賛同国の出品物に対し周到なる調査研究を遂げ以て我が国殖産興業の直接の利益たらしめんとせり」と、号令をかけた。
当時のまぎれもない後進国、日本にとって未来へのキックオフの瞬間だった。日本中から特産品が集まり、フィラデルフィアに続々と運ばれた。陶磁器、漆器、生糸、絹織物、着物、木具、醤油、味噌、玩具、扇子、伝統工芸品として葉巻入れ、飾り棚、裁縫箱、文机、屏風…。数えきれないほどの出品の数々が完成した日本館に運び込まれた。
日本館の中の一区画には農業館があり、タバコ、茶、水産物、養蚕、木材、穀物が並べられた。そして、通路をへだてた反対側には開拓使の出品物があった。
 燻製サケ52尾、燻製シカ腿50股。
それぞれに博覧会出品の丸い刻印が押されていた。
これが北海道ジビエの世界デビューとなった。

 開拓使がフィラデルフィア万国博の出展に当たって英語でつくった日本品目録が残っている。そこでは日本の農業と工業について生産地や製造方法を詳しく解説してある。日本人が古来より丁寧なものづくりに努めてきたこと、日本には優れた技術と製品、豊かな自然と産物があることが強調され、現代につながる「ものづくり」のことが簡潔に説明されていた。
翌々年、パリ万博に石狩や札幌の工場でつくられたサケの缶詰製品が出展された。同じ年、シカ肉缶詰をつくる美々鹿肉缶詰製造所が現在の苫小牧市美々地区に開設された。だが、折悪しくその暮れから翌年春にかけて大雪が襲い、10万頭を超えるエゾシカが餓死して製造が困難となった。この冬には人間にも死者が出るという惨事となった。エゾシカの災害が食糧難を招き、それがエゾシカの乱獲につながり、美々鹿肉缶詰製造所は製造を中止した。1882(明治15)年、北海道開拓を成功させた開拓使は役割を終えて廃止となった。

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