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日向さんの1p

先日のMリーグでの日向選手の打1pが麻雀TLの話題を大いに浚った。このnoteに、該当する局面の画像を貼るのも野暮なほどに、TLをスクロールする度に嫌でも目に入ってきた。(本当は画像利用の権利関係が不明な為)

下手すぎ、ありえない、マジでリャンメンカンチャン知らないんじゃないの?w、安牌持たないと死ぬ病かよ(笑)等々。

日向選手がTwitterで、新津pに「麻雀なんて人それぞれだから面白いんだろ」などと励まされたエピソードを紹介したことも火に油を注いだらしく、虎の威を借るなんとやら、卑怯、ろくに勉強もしてないくせに、等々まさに非難轟々であった。(いつからネトマオタクや雀ゴロの方々は、人様の人格にケチを付けられるほどの身分におなりになったのであろうか。最早、あのルックスの日向さんにだからこその、パワハラセクハラDV臭すら覚える。正直に言って、普段はまともそうな方々ですら、異様なまでに粘着的なツイートを繰り返してたのには、幻滅した。これは今noteの本筋ではないのでここでストップ)

麻雀界の一部では、最高位戦の鈴木pが本当に打1pはそこまで疑問手なのか?という趣旨のブログをアップし、あのMリーガー園田pも打1pを支持したのだが、麻雀TLの大勢に特に影響は与えなかったようである。

そして、ツイ廃の我らは、さすがにそろそろこの話題に飽きたのか、あるいは叩きすぎてフォロワーに引かれてると気づいたのか、若しくはいいから四の五の言わず打てよと冷ややかに眺められてるかもしれないことに不安になってきたのか何なのか、タイムラインが急に涼やかになってきた。新たな炎上ネタへの小休止、凪期間である。

私があの打1pを見た時に真っ先に思った事を率直に書くと、「これを批判している人々は、関連している知識が著しく不足してるか、あるいは感覚が狂っているのでは?」ということだった。ミスとはとても思えなかったのである。あの局面でのpt収支は勿論、平場での局収支ですら怪しいと思った。ただ、あまりにもTLの反応が批判一色だったので、トーンは抑えた。所詮は自分の感覚に依るものなので、ヒートアップしている方々にぶつける度胸も自信もない。

そこでふと、この局面に関する統計的データは何かないものかと思いついた。

あのイスラエルの若き哲学者ユヴァル・ノア・ハラリがその世界的ベストセラーである『ホモ・デウス』において、人類の宗教は、キリスト教・イスラム教・仏教→資本主義→ファシズム→共産主義→社会主義などと変遷を繰り返した後に、現代は「データ教」が猛威を奮っている、といったことを書いていたが(色々かなり適当なんで原著を是非読んで下さい)、麻雀オタク達にぐうの音も言わさない為にもやはりデータしかない。何か無いものか。

件の打1pは、2pの受け入れ4枚を減らし、安全度の高い9mを持つというのが主な趣旨なので、「完全イーシャンテンを拒否しリャンメントイツを先切りする」選択に極めて似ていると気付いた。そういった統計やシミュレーションを見つけようと思った。「完全イーシャンテン 先切り 安牌」検索。見つけた。

http://epsilon69399.blog20.fc2.com/blog-entry-992.html?sp

『完全一向聴VS安牌残し両面両面一向聴(自分親)』。現在、麻雀数理研究会で活動されているnisi氏によるシミュレーションである。


だそうである。このグラフを見て素人の私がまず思うのは、「大して変わらないのね」である。恐らくこのnoteを殊勝にもここまでお読み頂いてるあなたも同様の感想であろう。しかし、もう少し慎重に読むと、無筋37と無筋456では意味合いが異なるのだなということに改めて注意を促される。

37と456を実戦で区別できているプレイヤーがどれほどいるのであろうか。

さて、このシミュレーションを踏まえた上で、我々は件の打1pをどう考えれば良いのか。このシミュレーションをどのように応用できるのか。

あのMリーグでの実戦の局面との違いは、オーラスのトップ目、素点稼ぎで王様ならぬ女王様リーチをするとしてリーチ平和のみでは勿論無く倍マンまである、鳴いてもマンガン、打9mツモ2pだとタンヤオとドラの2ハンが消える、5pはドラなので通常時での無筋5より放縦率が上がっている、3着目とラス目のリーチの一発目にはドラ5pは(多分)打てない、一発目以外でも打つべきではない局面も想定される、といった具合であろうか。(他にもチー出しが日向選手が既に切っている1pだと、134556pや135pといったピンズの形が看破されうるといった指摘も多くされていた)

諸々考えると、結論としては、やはり打1pは非常に有力であり、打1pに対して否定的なプレイヤーは概して、

「テンパイ打牌を無筋5にすることと、安牌にすることとを、適切に比較できていない」

と考えるが、この件に関する私の話はここでストップである。更に真理を求める方は、麻雀数理研究会に有償で依頼するとか、天鳳トッププレイヤーにDMで伺ってみるとか、あるいは己の内心に虚心坦懐に尋ねてみるとか、するとよろしい。

今回のシミュレーションを無理に敷衍・適用しようとすると学問的にまず間違いなく歪む。統計データを表面的には扱っているようで、その実は、非学問の極み、曲学阿世の徒である、などということは昨今の世上に蔓延している。

最近、麻雀TLでも放縦率や局収支等に統計データを引用する方が増えているが、むずむずしたものを覚えることが少なくない。いわば、ほんまでっかTVに出てくる専門家?がやたら示す統計データと其の説明に対する胡散臭さと同じである。そのデータが正しいとして、果たして、その数字の解釈は妥当なのか?と。麻雀のデータを数理的に解釈できる人材は現状では極々一部なのでは?と。

「現代の学問やスポーツやエンタメと同様に、統計データなくして麻雀の発展はないのだから、不完全でも言及するのに意義がある」、と主張する方もいるかもしれない。しかし、果たしてそれも本当に自明なのか。人間がプレイヤーとしての技術を向上させる為に麻雀の統計データはどうしても必須なのか。現状の麻雀プレイヤーの技術は、近い将来アップデートされていくプレイヤーの技術と比べて、それほど有意に劣っているのか。未来の麻雀AIの技術は現在の人類の技術とは比べ物にならないほど進化洗練されるのか。

AIといえば、先日、お知らせ本part2の近日中の出版が発表された。あの最強麻雀AI「Suphx」を解析した内容である。楽しみ極まりないが、アプローチの仕方はどうなるのか。

諸家絶賛の嵐であった、お知らせ本part1は私も拝読したが、読了後の第一印象は、「数理的アプローチをほとんど用いずに、旧来のアナログ的手法の記述で埋まってたな」ということだった。非常に意外だった。お知らせ氏は東大工学部卒と伺っていたので、そのキャリアから誰しも連想する理系的な論証になっているのかと思っていた。麻雀の数理的アプローチはお知らせ氏の関心には遠いのかもしれない。いや、自身や読者のプレイスキル向上には寄与しないとみなしていたのかもしれない。

昭和のアナログ的アプローチと完全に決別し、現代的な数理的アプローチに完全に傾倒し始めた麻雀プレイヤーは、Mリーガーのようなトッププロにはまず聞かないし、天鳳位や十段にも未だ全然多くない。太くないお氏ぐらいであろうか。氏にしても、そのアプローチによって成績が向上したかどうかは傍目からは定かではない。氏は最初期のアカウントから卓抜した成績であったので(男冥利の鳳南500戦ランキングで私のちょい上にある)。ラグ読みや統計的アプローチで更に進化を欲する姿勢には感服するしかないのだが。

麻雀の数理的アプローチが麻雀界に浸透しない理由には、様々なものが挙げられる。

麻雀界の人材には高度な数学を理解するに足る知的水準が備わっていない、極一部の高度な知的水準を有する人間にふさわしい対価が支払われていない、支払える対価がそもそもない、麻雀の真理への知的欲求が無い、等々。

これらの侮蔑的な考察を私は否定するものではない。むしろそれぞれとても妥当な側面があると思う。

しかし、今回この機会に指摘しておきたいのは、別の見方である。

そもそも、

「麻雀への数理的アプローチによるプレイスキル改善を絶対的に必要とするほど、現在の麻雀プレイヤーのプレイスキルは低レベルなものなのか?」

ということだ。もしそうだとして、あるいはそうじゃないとして、それは誰がどのように決めるのか、決めているのか。また、もう一つの見方として、

「旧態依然の麻雀界は、他業界と比べて非学問的で、競争原理も不十分で、今後抜本的な改革が求められると頻繁に揶揄されるが、果たしてそれは本当に自明なのか?」

ということも書いておきたい。

段々ダラダラとした、まとまりのない、文章に陥ってきたので、さっさと結論を書く。

「現代の麻雀界に依然として数理的アプローチが浸透しないのは、それは麻雀界の知的水準どうのこうのが主因なのではなく、結局のところはpracticalな問題なのではないか?その導入が非効率的で、大してプレイスキル向上に寄与しないとみなされているから、本能的に感じられているから、ではないのか?あるいは、各々のプレイヤーの膨大な時間を費やした対局の反復は、人間の経験による感覚なんてアテにならないよ、などという定番のシニカルな批判を消し去るほどの、強固で精密で柔軟なパターン認識を、既にその各々の脳に埋め込んでいるのではないか?数理的アプローチによる論理を必要としないほどに最早トッププレイヤーの選択は真理に近づいているのではないか?」

(誤解されないように付記するが、この仮説は、麻雀に対する数理的アプローチを批判するものでは断じてない。あくまで、人間のプレイスキル向上に寄与するかどうかの視点である。当然、人間とは全く比べ物にならない麻雀AIの思考の向上への寄与や、麻雀の真理の解明とは別問題だ。もっと言うと、非実用的な研究は無意味だ、などという姿勢こそ、典型的な「選択と集中」的、財務省的発想である。基礎研究はそれ自体が尊いのである)

仮にこの仮説を妥当だとすると、プレイヤーに求められるのは、経験の質と量である(この辺りカントだとか哲学に詳しい方ならもう少し学のある文章を書けるのであろう)

現在の麻雀界で最も良質で膨大な経験を費やしているプレイヤーはどこに存在するであろうか。

それはネット麻雀じゃないんですかね…つーか天鳳…ただのアマチュアが文字通り狂ったように連日連夜、つーかひねもす、パソコン越しにかくも闘いを繰り広げる場って、どう考えても異常極まりないでしょう…

麻雀プロやメンバーの方と比べて単純に麻雀の対局に費やしてきた時間がまるで違う。ネトマは、特に天鳳は、余計な演出も洗牌も点棒のやり取りも何も無いために、対局消化効率が抜群である。東南10000戦↑打ってるやつはこの世にそうはいないだろう。天鳳界には掃いて捨てるほどにいる。そんな奴らが争うのが鳳凰卓で、そのトップに君臨してるのが、アサピン氏やお知らせ氏や太くないお氏などであり、彼らは余りにも膨大な膨大な対局をこれまでにネット上でこなしている。

なんか天鳳アゲの気持ち悪い文章になりつつある。別にそういうことを書きたいわけではない。いくら沢山打っても上手くなれなかったプレイヤーも当然掃いて捨てるほどにいる。天鳳最強水準と同等、若しくは凌駕する麻雀プロもいるかもしれない(しかし、この辺りの比較は、実は論じられるほどには既にデータ自体は揃っていると考えられる。協会の元雀王位である木原p、最高位戦Aリーガーの醍醐pなどの鳳南長期成績、天鳳名人戦、天鳳勢のプロ参入後の成績等々。私見を言えば、トップクラス同士の雀力は互角、というのが素直な捉え方だと思うのだか、脱線するのでこの話題はここで止め)

真摯な対局を果てしなく積み上げてきたプレイヤーの経験に基づく「選択」自体の価値を過小評価すべきではないのでは?と言いたいのである。

しかし、そのプレイヤーの経験を言語化してくれなければそのプレイヤーの選択を信用できない、とする立場の方も沢山いらっしゃるだろう。言語化に励まれている天鳳民といえばZERO氏やゆうせー氏やわせりん氏が挙げられる。

先日、わせりん氏がnoteで多井pの打牌選択を批判したのに対して、多井pが反論した其のやり取りを読んだ。(両氏のTwitter参照して頂ければ)

ざっくり言えば、わせりん氏は打点を求めて三色目を残すべきだと主張したのに対して、多井pは先制立直や和了率を重視してアガリ易い待ちは逃したくなかった、という論争だった。正直言って凡庸なやり取りだった。

わせりん氏のnoteには場況やドラ字ということへの読みや評価がまるでないし、多井pの反論にもそれらへの言及が全く無いのに加えて、御自身のYouTubeで説明されていた「待ちの強さなんて大して変わらないんだから打点で勝負したほうが得」というロジックとの矛盾が露で、いかにも取って付けたようで、読むに耐えなかった。多井pはまず麻雀の技術を本気で書いてくれない。隠しているのか?それもあるだろうが、本質はそうではない。恐らく書くのが無駄だとみなしているのだ。

余談だが、私はアサピン氏をフォローしてない。メンヘラが嫌だとか嫁との惚気が鼻につくとかそういう話ではない。麻雀に関する本音を呟いてくれないと感じてきたからだ。それどころか、少しずつずらしたようなことを呟かれるように思う。意図的ではないのかもしれないが、それで私自身の麻雀がおかしくなったら嫌だからフォローを外した。アサピン氏の麻雀は牌譜やMリーグで直接見るに限る。

多井pの麻雀に関しても、いやお知らせ氏や誰に関してもそうだ。私達プレイヤーは他人は勿論、自身の麻雀すら説明できないのだ。説明できないのは非論理的でも非学問的でもない。麻雀の真理に背を向けた態度でもない。

自身の膨大な経験から産み出された選択への過程を、脳の認知や理解や実行を、自身ですら完全には説明はできないのだ。これはむしろ自明だろう。あなたは今この文章を読んでいるあなたの脳のメカニズムを殆ど理解できていない。

ここで閑話休題。https://japan.cnet.com/blog/maruyama/2019/05/01/entry_30022958/ とても面白い論文なので是非読んで頂きたい。

といった具合に文系のあなたでも興味深く読み進められる内容である。

私は、こういった理系の専門家が書く機械学習の文章を読むたびに、麻雀のプレイヤーというのは、とにかく打つしかないのだなと、つくづく思うのである。

別に男は黙って背中で語れとか、黙々とひたすら打っているプレイヤーこそがかっこいい、などと言っているのではない。

麻雀のプレイヤーが示せる確かなものは、やはり成績しかないのである。どんなに高度な技術を有したプレイヤーであってもその技術を十分に言語化はできない。また、麻雀の真理を麻雀AIが示してきたとしても、其のロジックを我々人間が理解できることもない。

少し話変わって、麻雀界の後進性を揶揄する際に、格好の比較対象として頻繁に持ち出されるのが将棋界であるが、その棋士にしても、将棋AIの内部のロジックを理解してるわけでは勿論無い。将棋AIを1分ほど動かすだけで想定局面が1億を軽々突破するのだが、人間はそのAIの1億の思考の上っ面に過ぎない最善手のみを利用しているだけである。数理的アプローチとはとてもいえない。

AIによる将棋界の激変も一段落した感が大いにあって、当初は苦戦していた羽生世代も遂に逆襲してきている。羽生善治は竜王戦1組で優勝し、佐藤康光はA級順位戦で広瀬に勝ち、森内俊之はアベマトーナメントで若手の高見を圧倒した。逆に若手全体が、豊島名人竜王や藤井君や永瀬2冠を除いて、パッとしない感じである。再び、結局は才能のある者が勝つ時代に戻った気配すらある。

佐藤康光が若手時代、ベテラン棋士の「身体で覚えた将棋を教えてやる」という軽い恫喝に、「身体で覚えた将棋とは我々の世代だと思うのですが」と言い返したと何かで読んだことがある。我ら羽生世代のほうが若手ながらにして上の世代よりも対局数をこなしているという自負があったのだ。

麻雀打ちにとっても、最も大切なことは、座学ではなく、対局による経験である。しかし、ただやみくもに打てば良いというものでも勿論無い。真摯な姿勢が必要である。

あなたがあの1pに否定的な感想しか抱けなかったとしたら、それは、あなたのこれまでの麻雀の経験が、不誠実なものだったからかもしれない。

こんなクソゲーに莫大な時間を費やすのであれば、どうせなら真面目に費やしたいものである。最後に必ず残る長期成績にしかあなたの麻雀を物語るものはない。

以上が日向さんの1pを見た雑感である。雀魂でクソラスを引いた悲しみで一気に書き上げました。麻雀は短期。

ちなみに、最近とある人に、「十段も遠くはないこのptで何故天鳳を打つのを止めたんですか?」と聞かれたんですが、理由は色々あるんですが、主因は天鳳アプリの操作性です。手出しツモ切りが見にく過ぎますし、鳴きのオンオフの切り替えも困難です。ノーパソの前で日々鬼打ちしているプレイヤーとスマホでは闘えません。雀魂の操作性で天鳳打ちたい。角田さん本気で何とかしてください。

あと、書き忘れましたが、麻雀の数理的アプローチがプレイヤーのスキル向上に全く寄与しないなどとも勿論言ってはいません。それどころか明らかに有益なものが沢山ありますのであしからず。それから、天鳳界や天鳳民が、麻雀界において、どの程度異常なのか、それとも大して異常ではないのか、といったことは色々議論あるでしょう。

また、私はプレイヤーによる文系的な言語化が無駄だとも思ってはいません。が、この辺りはまた別の機会に。雀魂が一段落したら。天鳳高段者の参入が活発になってきました。鳳凰卓のようなしんどい麻雀が増えていくのでしょう。

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