白を塗る

イジン伝~桃太朗の場合~まとめ(I-VII)

 朗(あきら)は今、「最高」に人生を謳歌している。
 十四年の生涯で今日は絶対に忘れられない一日になるだろう。
 なぜなら、こんな遊びは彼にとって「最悪」だからだ。
 数メートルの距離に追手を背負い、薄暗い路地を右へ左へ駆け抜ける。「彼ら」の足音と追手の硬質な接地音が静寂の中で虚しく聞こえている。
 火照る肌と悲鳴をあげる内臓の外側で、彼の意識は不気味なほど明晰であった。彼の脳内にはあの「針金人形」を振り切るための意地悪い発想が炭酸飲料の気泡のように次々と浮かび上がってきていた。突破口を探して絶え間なくサッケード運動を繰り返すその目には人を嘲る冷たさが染み付いている。ふと喉の乾きに気づいて彼は喉を鳴らす。
 世界の外れ。ここは生涯日の目を見ない存在の住む場所だ。朗たちはここ数回の冒険でそれを知っていた。
 窓と窓の間に架け渡された竿には干された生乾きの派手な衣装や下着。昨夜ビルに入ったきり出てこなかった人々、いつの間に干したのだろう。
 それを手当り次第ばらまいて、入り組んだ路地を右へ、突き当りを左に曲がった時、朗はすぐ先の路地、右側から飛び出してきた白い影とニアミスして倒れ込みそうになった。反射的に朗はそちらを睨む。影の方は壁につんのめるようにして体を立て直した。
「おっと」朗の胸を支えて体勢を戻してやった白い影はそのままランデブーする。そのフードが外れる。つんとやや上を向いた小さな鼻が真っ赤だ。彼は赤いラベルの瓶を持って走っていた。「飲むか」突き出された瓶は追手の一撃で粉々になる。
「残念だったな。木地川と犬村はどうした」
 朗は飲料で汚れた顔を袖で拭いながら尋ねた。動じている様子はない。
「どうせあいつらは――」赤鼻の少年は指についた飲料の飛沫を舐めて
「とっくに逃げて物陰で震えてるんだろうさ。ひと仕事後の炭酸は格別だってな」彼は窓際から掴み取った青いブラジャーで腕を拭き、投げ捨てた。「常温じゃ、やっぱりぬるいな」
 朗は同意して後ろを振り返る。そう、針金人形は間を置かず追って来るものの、決して彼らに触れることはない。現実に戻された虚脱感が彼の動きを鈍くした。
 二人は徐々に速度を落としとうとう立ち止まる。朗は懐から例の瓶を取り出して瓶口を割る。中身が吹きこぼれ彼の足元で薄茶色に広がった。
「猿野、台無しだな」
 赤鼻を一擦りした猿野は朗から瓶を奪い取って残りを飲み干す。
「もういい加減わかっただろ」しゃっくりを一つ、それから笑った。
「初めからそうだったのさ」
 そう言って猿野は瓶を後ろへ放った。「またなんか面白いこと探そうぜ」
 瓶は宙で二度回転し針金人形に当たって砕けた。
 二人を追ってきた二体はもう微動だにしない。数十本の金属繊維が編み紐状に組まれた人型。細いが大きな体躯に突起付きの小さな頭部を備えた不格好な棒人間。それが今、数メートルおきに並び腕を広げて立っている。人々はそれらを「鬼」と呼んでいる。
 二人はその場に腰を下ろし、明けつつある空を見上げる。天球面、東西に等間隔で配置された九つの太陽が輪郭をなくしていく。下方四つの太陽はビルの陰に入って見えないが、裏から差し込む光束でその位置が知れる。
 路地は少しずつ白けていく。隠れていたものが見えるようになってモノから艶が、湿り気が失われる。
「なあ猿野。俺たちはこの狭い世界であとどのくらい生きていけばいいんだろうな」
 猿野は目をすがめて応えた。「さあな、でも」
「徒歩で踏破しちまえる世界なら、獲っちまおうぜ、俺たちで」赤鼻が膨らむ。
「そうだな、そしたらまずは太陽を一つに絞ってしまおう。どうも太陽が多いと影も多くなる」
 朗が伸びをして立ち上がろうとした時、彼は眩しさに目をつむった。動きを止めていた鬼たちが激しく揺れて太陽光を乱反射させたのだ。
「おい朗、なんかやばいんじゃねえか」
 二人が慌てて立つと同時に悲鳴が上がった。少女の叫び、それから少年の嗚咽混じりの声。「朗、猿野、どこにいるんだよう」
 鬼は声の発せられた方向へ殺到する。針金状の体がぎらぎらと、なにやら殺気立っているように見える。束ねられた金属繊維がねじれながら収縮伸長して鬼たちは形を複雑に変え、お互いに絡まったり衝突しながら前進しようとする。普段の整然とした隊列行動は見る影もなく制御不能に陥っている。金属摩擦で火花が飛び散り耳をつんざく高音が鳴り止まない。
「朗、猿野、助けて。犬村が血を出しているんだよ」
 二人は走り出していた。鬼たちの合間を縫って路地を移動する。鬼は既に人型を逸脱して四足歩行や多肢類、尺取り虫型など異形と変じているモノが多い。数体が融合して歪な球型となっているものもある。
 壁や路面が彼らの巨体で破壊され、大小様々な礫が辺りに飛び散る。その一つが朗の腕をかすめて切り傷を作っていた。振り回された腕が猿野のすぐ後方を通過すると、フードが切り離された。鬼に踏みつけられたフードは貫かれて穴だらけになる。「まじかよ。お気に入りだったのに」
「広場の方だ」
 朗は青ざめた猿野の腕を引き、肩幅程度しかない建物間の隙間に飛び込んだ。
 そこには太陽の一つからまっすぐ光が差し込んでいた。ビルの白い外壁と外壁の間に続く狭い道。煙草や錠剤、アルミ缶が所々に落ちている。
「きたね。噂通り外縁っていうのは管理が行き届いてないみたいだな」
 猿野は触れることすら御免こうむるというようにゴミの無いところを選んで歩いた。朗はひたすらに前進を続ける。猿野が離れないように彼の腕を掴んだままだ。自然、猿野は引っ張られる形で落ちていた缶を蹴り飛ばしてしまう。
「いって。朗引っ張り過ぎだよ。でもなんでこの缶こんなに重いんだ」
 蹴られた缶は立ち止まった朗の足に当たった。彼はそれを拾い上げ、道の端に立てて置いた。「開いてないからだよ」
「ここの住人、煙草も薬も缶ジュースも飲んじゃいないんだ。今まで気づいてなかったのか」
「それって」
「さあ行こう」
 猿野を無視して朗は出口に向けて走った。手つかずのゴミが彼らの足元ではらはらと舞った。猿野はもう朗から離れまいと必死でその袖を掴んで走った。
 犬村は長い両手足をだらんとぶら下げて宙に浮いていた。美しい白肌は透明感を失って濁りつつあった。眩しさを堪えるように半ば開き半ば閉じられた瞼は細かい痙攣を繰り返している。横向いた顔、口からは赤い血が雫になって落ちている。雫は彼女の下に小さな水溜りを作っていて、早くも端の方から赤黒く凝りつつあった。
 血溜まりの側には木地川が泣きながら掴み縋っていた。四角縁眼鏡の奥に切実な形相があり、目は一点を睨み、歯を食いしばって口の形は歪んでいる。その視線の先にあるのは、鬼だった。先細りする鬼の右脚に両腕で取りつき、体全体を使って揺すりをかけている。鬼は意に介さず、目的を遂げようとゆっくり動き続ける。
 鬼の片腕が上に持ち上げられ、もう片方の腕が針金の編成を解き丸い網状に変化していく。銀色の体が日光を弾いて燦然と輝く。それは鬼の腕に囚われた犬村が贄として天に捧げられているように朗たちには見えた。その光景に彼らは一瞬陶然とその場に立ち尽くした。
 木地川が朗たちに気づいて叫び、二人は再び走り出す。朗たちは何か言おうと口を大きく開けているが木地川に聞いている余裕はなかった。彼は更に大きな危険が背後へ迫っていることに気づけなかった。
「助けてくれ。犬川が急に血を吐いたんだ。そしたら鬼が。ああ」
 彼の見上げる先で犬川が鬼の腕に、針金の中に包み込まれようとしていた。網状に変化した腕が大きく広がって犬川の周りを覆い少しづつ収縮しつつあったのだ。木地川は悲鳴を上げたままそれを阻止しようと懐にあるものを投げた。ペン、メモ帳、飴玉、棒状の携行食糧、中身の入ったガラス瓶……。とにかくあるものを尽く全て。
 金属質の体はそれらを防ぎ、弾き、割った。どれも鬼を止めることは出来なかった。木地川は飛び散った炭酸飲料を被り崩れ落ちた。甘ったるい雫が彼の髪と顎から滴り落ちる。もう諦めるしかなかった。だっていくら考えたってなす術がない。犬村を救う力も知恵も僕にはない。朗たちもまだとどかない。
 そこへ声だけがやっと彼の元へ辿り着いた。朗たちがそこまで来ている。「木地川、後ろ」
 振り向くと、援軍だった。木地川は目を見張り反射的に立ち上がった。体が震えていた。ひとりでに笑みがこぼれてしまう。圧巻の迫力でこちらへ進んでくる。百鬼夜行。これで、終わりだ。
 数十体の鬼が甲高い不協和音を轟かせてすぐそこまで迫っていたのだった。見てくれまで化け物となった鬼たちが我先にとやって来る。絶体絶命という表現さえ、とっくに振り切っていた。
「へらへら笑ってないで私を助けなさいよ」
 唐突に、犬村の棘のある口調が聞こえた気がして木地川は自分の正気を疑った。とうとう僕は気が触れたらしい。今なら鬼を蹴り飛ばす犬村の幻が見えるかもしれない。それはちょっと見てみたかったかも。彼はつと上を見て、不意に溺れそうになった。大量の生温い液体を何者かにかけられたのだ。「目、覚ましなさいよ」
「あんたのせいで私、起こされたんだから。久しぶりに気持ちよく寝てたのよ。炭酸、顔にかかったじゃないの。お返しよ、せいぜい肺いっぱいまで飲むことね」
 木地川には滲んでその姿がはっきりとは見えなかった。しかしもう彼はそれを幻や幻聴だと思えなかった。「さあ、反撃開始よ」
 そんなセリフ、木地川には想像すらできなかったからだ。

連載企画は毎日読んでいただける方は問題ないと思うのですが、そうでない方は何度もページを行き来しなくてはならなく大変ですよね。今後一週間分をまとめたものも投稿しますのでご利用下さい。

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