山の神

バケモノの“母”

 私の町で私の母のことを知らない人間は少ない(と思う)。母は誰かと尋ねられ私が答えると大抵「ああ、〇〇ちゃんの」と笑いかけてくれることが多いからだ。(もちろんこれはオウム返しが可能で、そうでも言わないと気まずくなるからかもしれない。田舎で気まずい雰囲気を作るのはご法度だ。狭いコミュニティで暮らしていくには角を立てないことが肝要なのだ)

 特段偉業を成し遂げたわけでもない母が少しばかり有名なのは恐らく「子供を五人も育てるシングルマザー」だからではないかと私は邪推している。

 邪推、とは言ったものの私はしばしば「あんたのお母さんは五人も育ててすごい人だよ」とか「五人も育てたお母さんに感謝しないとなあ」などと言われるので故なきことではない。タイトルの「バケモノの」というのも決して私たち兄弟妹がバケモノであるということではなく、母の強靭さをバケモノに喩えたのである。(一度母の知り合いに良い意味でだと思うが「あんたの母ちゃんはバケモノだよ」と言われたことも影響はしている。もちろん細田守氏の某映画タイトルも)

母の生い立ちを探る

 さて、母はいかにしてバケモノになったのか、母の生い立ちからそれを探ってみようと思う。だが、母の生い立ちに関する情報は非常に少ない。母は基本的に多くを語らない人間である。無口であるというわけではないが、殊自分のこととなると話を逸らそうとするところがある気がする。

 母が生まれたのはおおよそ半世紀前、1970年代というと長嶋茂雄氏や王貞治氏らが活躍した日本プロ野球黄金期でありマクドナルドが日本出店、ビートルズ解散など日本が戦後世界の文化を受容し安定期に入った頃、経済的に見れば60年代の高度成長期が落ち着いてオイルショックの影響を受けながら低成長期に入った時代のようだ。80年代後半からバブル崩壊頃に母は高校、短大の“お年頃”であったと思われる。どうやらバブルの恩恵は地方にまで届かなかったらしいのだが。

 母には看護師である秀才の姉と、勉強は苦手だがスポーツ、特にスキーが得意で人好きする弟がいる。短大へ進学しバレーや短距離走をしていた母は丁度その中間をとった人のようだ。昔(今は違う)「女の人はあまり頭がいいと貰い手がいなくなる」などと私たちに時折呟いていた母は祖父母の価値観を信じ無意識に出る杭を自ら打ってきたのかもしれない。口喧嘩は強いが本質的に輪郭通りの丸い人である。

本当の友達なんていない

 短大で調理師免許をとったこと、みかんの食べすぎで黄疸になったことくらいしか母の過去について知ることはもうない。短大を卒業して数年後に元父と結婚し私たちを産むまで何をしていたのか、彼との馴れ初め(一回りも違う彼と母はどのようにして出会ったのかは大きな謎である)など母はもとより祖父母からも聞いたことがない。離婚してそのうえ本人がこの世にいない今、なんとなく聞くのも憚られる。

 このように私たちからすると浮世離れて見えていた母にも当然友人はいた。私が幼い頃友人から届いたという桃を食べることがあったし、母の実家に移ってからは母が私の同級生の両親と親しげに話している姿も見ている。しかし母が友人とご飯を食べに行ったり旅行に行ったという記憶は離婚以前の経済的に余裕があった頃でさえないのである。

 私が多感な中学生の頃「俺って本当にみんなと友達なのかな」と苦しい胸の内を母にこぼした時「本当の友達なんていないんじゃない。お母さんもそういう人は……思いつかないな」と言った時、妙な納得感があったのはそういう記憶があったからなのだろう。
 もしかしたら母は私たち兄弟妹の世話でいっぱいいっぱいだったのかもしれない。ただ、母の言葉が真実であろうとなかろうと、あの頃母はただ母であって、友達や趣味のある一人の女性ではなくなっていた。

離婚して

 両親が離婚したのは末の子が生まれて間もなくの頃だったと記憶している。だから元父の顔を覚えているのは当時保育園に通っていた三番目より年長の兄弟だけだと思う。まだまだ幼い子供を育てながら生きていくために母が頼ったのは実家の両親だった。当時学校給食センターで働き現在は介護士として働く母だが、自分一人の収入と元夫の送る養育費だけで五人を育てるのは不可能だったのではないかと思う。

 父親がいないという環境に同情と危機感を持っていた祖父母は手探りで私たちに歩み寄り、私たちも幾ばくかの余所者感を抱えながら少しずつ祖父母にすり寄っていったような思い出がある。その頃母はまだ30代前半、まだまだ女盛りだったはずだが離婚以前のように着飾ることはなくなっていたし、化粧も最低限だった気がする。華やかさと引き換えに質素と強さを母が身につけていっているのを子供ながらに私は感じた。

 引き取った私たちに母が元父を敵視するよう教え込んだことは一度もなかったと思う。しかし少なくとも私は元の生活を奪った原因は父にあると気づいていたし(離婚前、両親の不仲は自分に原因があるのだと泣きじゃくった私は空の彼方に消えていた)彼と暮らした期間が短い兄弟妹も彼の訪問を楽しみにしているものはいないようだった。いわんや離婚を突きつけた母をや。

 だから数年後彼が交通事故でこの世を去ったと聞かされた時、母が目を真っ赤に泣き腫らしているのを見て私は驚いた、というより動揺した、あるいは不審感を抱いた。母と一緒に泣いている弟を見ても私は黙って仏頂面をするしかなかった。母とともにあの男を憎んでいると思っていた私は裏切られたような気持ちになったのだった。母が泣いている姿を見たのは離婚のときとこの時、そしてもう一度だけである。あの涙の理由は愛とかいうものだったのだろうか。

これから母は

 贅沢な暮らしは出来なかったが、祖父母はもちろん、たくさんの素敵な大人たちと友人たち(彼らについては今後このシリーズで取り上げることになると思う)のお陰で私たちは無事に成長し、現在末の子も大学生となって母の元を離れた。かなり苦しい毎日だったと思うのだがここまでやり遂げた母はたしかにバケモノだと今私は実感させられている。

 一年ほど前だろうか、老眼が始まったと言う母に「これまでお疲れ様」と言うと「お前たちがいたからこれまで幸せだったよ」という答えが返ってきた。薄情者で疑り深い私はその言葉を真に受けるわけがない。仕事から帰ってきて祖母の夕食を食べ風呂に入ると日が変わる頃まで韓国ドラマを見続ける母、それもまた幸せであることは否定しない。しかしそれで一生を終えるのは少しばかり淋しすぎる気がする。

 母はたしかにバケモノだ。バケモノ的な母親だと思う。だがそれ以前に一人の女性であって、一度きりの生を自由に楽しんでいい一人の人間ではないか。

 今度は私たちの番だ。だけれども彼女を解き放つのにはもっと力がいる。そう思わなければならない、情けない今日この頃である。

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