名大文芸サークル 『泡』感想(2024)


はじめに

お久しぶりです。皆様いかがお過ごしでしょうか。
僕は就職して、マジでnoteなんか書いてる暇がないような生活を送っていますが、どうにか生きています。

この世界は狂っている。

さて、そんな状況の僕がこうしてこの場に戻ってきたのは、名大祭があったからです。名大祭があると『泡』が売り出される。『泡』が売り出されると僕が買いに行って、noteを書く。生産と消費、そしてまた別の生産。それが、世の摂理だから。
↑6月の僕はこんなことを書いていたようですが、あれから中々『泡』を読むことができず、えげつない大遅刻をしてしまいました。部署異動があって仕事がかなり楽になったにもかかわらずこの体たらく。しかし、僕がこんな絶大な空白期間を勝手に設けても感想用タグ「#泡2024」を使ってツイートする人間は現れていませんでした。この世界は狂っている。
そういや『泡』、以前は300円ぐらいだった記憶がある(記憶違いかも)んですが、今年は500円でした。物価高の波がこんなところにも……などと思っていたら、普通にページ数がヤバすぎるだけだった。248ページって、もう武器じゃん。文芸サークルは武器商人としての性質も併せ持っています(偽計業務妨害)。製本作業のことを想像するだけで鳥肌ものです。僕が卒業する直前の部内誌が200ページを超えて、皆で「今回すごいねー」っつってたのに早速それをさらに上回ってきた。部内誌はメンバーの数だけ刷れば良いのでせいぜい2,30部程度ですが、今回の『泡』は広く売り出すものなのでワケが違う。刷った部数を聞いたら(そんなもん聞くな)、なんと160部もあるという。正気の沙汰でない。
そういうわけで、想像を絶する熱量で世に送り出された2024年版『泡』の感想、書いていきます。
例によって改善点みたいなのが思い当たったら指摘していますが、今となっては外野の一意見に過ぎないので、この記事を書き手の方が読む時にはその辺は「大遅刻した身で良い態度だな」って思いながら読み飛ばしてください。

『ねえ、はるがきたよ』

主人公、ちふゆが突然透明人間になってしまった親友の遥と一緒に何気ない休日を過ごす物語。
文章が上手い。結構地の文が多めだったけど、すらすら読めました。そう感じた要因は文章力だけじゃなくて、構成にもあると思います。特に最初が良かった。書き出しってつい文章が説明的になってしまいがちなんですけど、その前にワンシーン入れておくことによって自然に説明に入りやすくなっています。インターネットでは時折「一番初めの文はセリフにすると良い」という言説を耳にしますが、それもこういうことなんでしょう。ちなみに僕はこれを知っていながらあんまり守れていません。愚か。
ストーリーラインも良かったです。終盤の展開を受けて改めて前のシーンを振り返ってみると、読んでいる中で点々と覚えていた違和感が納得に変わってゆく。僕はある程度色々な物語に触れてきてるので先の展開が何となく見える感じではありましたが、物語を読み慣れてない人にとってはもちろん驚きだろうし、もっとしっかり読んでいる人はその違和感からちゃんと推察できたんだろうなって感じ。なんか僕が一番損をしている気がするな。
改善点を挙げるとしたら、終盤の文章は若干読みづらかったかなって感じです。かなり短いスパンで視点が何度も切り替わるので、空白を使って読みやすいように工夫はしてあるものの、読み慣れていない人にとってはちょっと大変かも。途中で一回今まで一度も出てきていなかった三人称の視点に切り替わった部分があって、多分こいつが悪さをしています。他はもう「『というのも』じゃなくて『と言っても』とか『とはいえ』じゃない?」みたいなクレームと大差ないような点しかないので、わざわざここで挙げることもないです。目立った欠点は本当にないと思います。
色々言いましたが、棘の少ない穏やかな雰囲気と飽きさせないスピーディーな展開を併せ持つ、『泡』のトップバッターにふさわしい秀作だったと思います。

『群青色の君に捧ぐ』

卒業式に花開く恋模様を描いたお話。
前の『葡萄』に掲載されていた作品とは打って変わって、物語としてすごく素直で真っ直ぐな印象がありました。「青春」を描こうとしたらよそ見はすべきでないって判断なのかもしれない。
そんなわけで展開としてはまさしく王道なわけですが、その中には感情の揺れ動きが多分に描かれています。この作品、ひいては恋愛ものの真髄はそこにあると思う。僕は恋愛もの書いたことないけど。
改善点らしい改善点も思い当たりませんが、セリフ回しの自然さにやや欠けるかなあって感じはしました。芝居がかっているというか、「作られた言葉」って雰囲気がある。小説なんだからそりゃそうだろって話なんだけど、感情の描写が丁寧な分、セリフとの乖離がちょっと引っかかった次第です。もしやっていなければ、セリフを声に出して読んでみると「これちょっと長いな」とか「こんな言い回しするか?」って引っかかるポイントに気付きやすいのでおすすめです。
あとがきを見るとこのセリフ回しも意図的なのかもという気がしないでもないですが、その辺は僕の与り知るところではないので深く考えないことにします。
題材選びも含めて『泡』の作品としてすごく良かったと思います。万人が読みやすいと思う。

『午前零時の微笑』

大学一年生の主人公が、或る風変わりな女性と学内で出会うお話。
うま……
毎度の事ながら、とにかく比喩がキレッキレです。僕はマトモに村上春樹の作品を読んだことがないんだけど、文章の端々から村上春樹の影響を受けているんだろうなと感じる。鋭い比喩と、理屈っぽくもコミカルな会話が独特の雰囲気を出しています。
一方、物語としては恐ろしいほど進展がないです。いくら時が流れても、主人公のことも女性のこともろくに分からない。女性と接する中で主人公の考えが変わるわけでもなく、もちろんその逆も起こらない。
会話に関しても、テンポや雰囲気が魅力的である一方で、誰もいない洞穴に向かって淡々と声を投げかけ続けているような空虚さを感じます。
ただし、言うまでもありませんが、これらは決して作品の欠陥ではありません。先に挙げたそんなこんなの点によって、凍りついた時を生き続けるような矛盾をはらんだ不思議な雰囲気が醸成されているように感じました。大学生というモラトリアムの時期。「大人になる」という漠然とした使命を抱えつつ、実際は時が止まったように何も変わる感覚がない。酒を呑んでも、ピアスを開けても、自分自身は何も変わった気がしない。凍りついた時が解けて再び動き出すその瞬間まで、僕たちはそこから抜け出す術を持たないのでしょう。そんなほのかな絶望をも感じさせる、非常に良い味のある作品でした。

『我らが循環論』

オカルトに目がない少年と、呪術の世界に詳しい先生が怪奇事件を追う物語。
以前の同シリーズの作品より丁寧に作られているように思いました。そう思った直接的な要因はちょっと分かりませんが、登場人物の掘り下げが以前の作品より上手くできていたように感じたのでそこが大きかったかもしれません。
そう、神だの呪いだの、和風ファンタジーみたいな世界観につい目が行きがちだけど、やっぱりこの作品の主軸は"人間"なんだろうなと思います。不可思議な現象に直面した人間がどう反応するのか。そして、それに対して人ならざるものたちはどのような形で彼らに報いを与えるのか。物語がそういう形式を取っているものだから、登場人物の人となりがはっきり分かればこそ、物語全体の動きも明確に伝わる。今回は「勧善懲悪」の構図が分かりやすかったということもあり、読者に内容が伝わりやすかったのかなと。
正直なところ、改善点らしい改善点は見当たらなかったですね……情けない話で。そりゃこの話単体で見れば最初にちょっとだけ出た先生の必要性とかは気になりますけど、シリーズ作品である以上今後何かしらの機会に登場してくるわけだろうし。特にここをちょっと変えてみると良いかもってところはなかったかも。
あとこれは余談なんですけど、この感じでよく戦闘シーン無しで話収められるよなーって毎回思います。僕だったら絶対大呪術バトルして、犬夜叉とか呪術廻戦とのネタ被りに苦しみまくっているだろうから……

『こじつけオカルティズム 一:泡瀬桜』

学校の七不思議を題材とした、ミステリーチックな学園ドラマ……で良いのか?
面白!!!!!!!!!!

ウィットに富んだテンポの良い会話、個性的なキャラの造形、分かりやすい七不思議の設定と、それに乗せて描かれる様々な人間模様……魅力を挙げればキリがありません。なんか舞台設定とか話の雰囲気も相まって、明白に『ライアー』の"上"を見せられたような感じでした(被害妄想)。前の『銘文』の作品も加味すると、多分「面白そうな長編の、面白い第一話」を書く能力がズバ抜けているんだと思う。僕に最も足りないものだ。
今年の『泡』の中ではこれが一番読んでて「グギギギ……!!」ってなった。実際僕はこの感想noteを書くためにプラスになるような改善点を探しながら読んでいるんですが、序盤に恐らく意図しない形で繰り返されている一文がある(これ『魔女ツバキの復讐譚』でも同じ現象が起こってたので編集時に何か不具合があったのかも)とか、そんないちゃもんレベルのことしか見つからなくて、俺は––––––––————

とはいえ、こんないちゃもんが本当にただのいちゃもんだったら僕は胸の内にしまっています。ほんとだよ。
僕がこれをわざわざ指摘したのは、どうやらこの作品が長編で書かれるっぽいからです。こういう些細なミスを今後に活かせるのが長編の強みだから。本当に読めたもんじゃないのも含めれば曲がりなりにも長編を3本書いた人間として言うと、こういうミスとか最初の方に勢いで作っちゃった適当な設定を逆手に取れた時の満足感はヤバすぎるので是非活かしてほしい。題材も七不思議だから比較的やりやすそうだし。一回自身で読み返してみて、「やっちまった〜!!」と思ったポイントを書き留めておくことをおすすめします。後で「実はこれ、伏線だったんだよなァ〜!!」っつって高笑いできるから。ちなみに僕の場合は筆遅すぎてそういうシーンを書く頃には序盤からの読者がもうほぼ全員消えてる。胸中で勝手に作り出した藁人形に行きどころのない空虚な復讐心をぶつけて孤独に笑っているだけの哀れな怪物。
あとこれは持論なんですけど、こういうのを考える時には「そもそもどうして〇〇なんですか?」という疑問から辿っていくと良いと思います。僕がやってきた例で行くと、「そもそも何で言葉が通じるんですか?」とか、「そもそも何で毎回こんなに事が上手く運ぶんですか?」とか……そんな具合。
今回みたいに部誌に載せていくのか、ネットに投稿していくのか、今後どういう形で続くのかは分かりませんが、本当に長編として続くなら流石に多分そのうち『泡』を持たざる者たちのもとにも届くようになるかなと思いますので、このnoteを読んでいる皆さんも他人事だと思わず楽しみにしておいてください。僕も楽しみにしています。あと『丑と行雲』の方も待ってるからな!!!!

『雪女の解』

ある男を待つ雪女のモノローグ。
2ページという異例の短さで導入から結末まで完璧にこなしています。元々短編を中心に書いている作者ですが、今作は特にその強みを存分に発揮しているのではないでしょうか。いや、マジですごい。小説書かない人には何となく分かりづらいかもしれないけど、2ページで作品締めるってとんでもないからね。僕が書いた『ライアー』だったらコート着た来亜が子ども博士みたいって言われて拗ねてるぐらいのところで物語が一つ終わってるわけだから。書き手だからこそよく分かる技量というのは確かにあって、「短い尺で物語をちゃんとまとめている」ということはその一つだと思います。
ここからはほぼ余談なんですけど、雪女の死って解釈分かれますよね。僕は「雪女は人間と相容れないから、人間から離れて暮らさなければならない。そして、人間の前に姿を見せることでその神秘を破った者は罰せられる(ので、雪女はそうならないように出会った人間を基本的に全員殺している)」という解釈を取っていますが、この作品における雪女はそれとはまたちょっと違っているように思う。生きている人間の温かみに触れ続けていると、雪女の凍りついた命は解けて消えてしまう。"温度"に着目した見方には今まで触れたことがなかったので、その点も新鮮でした。

『その実、実れども』

精霊を信仰する少女が、その身に背負った運命を知る物語。
魔法の設定とか、そういう世界観がよく練られていたと思います。諸々の描写も前の『葡萄』より分かりやすくなっていたと思うし、シンプルに技量の向上を感じました。
そういうわけで指摘する点も細かいところにはなるんですけど、せっかく魔法のファンタジー世界を上手に作っているので、「リビング」とか「グループ」みたいな固有名詞ではない横文字を頑張って排するとよりファンタジーの雰囲気が出やすいんじゃないかなあと思いました。これは僕も次に書く長編でやろうと思ってるんですけど、こういうカタカナの言葉ってなまじ現実の生活に馴染んでる分、ファンタジー世界の幻想感を薄れさせてしまう可能性があるんですよね。曖昧な言い方で申し訳ないですが。
そうだな……例えば「カフェ」と「喫茶店」、「ステージ」と「舞台」ではそれぞれ前者の方が現代的な感じがしませんか? 横文字にすると、その言葉に現代的な雰囲気が生まれてしまって、それがファンタジーの世界観とミスマッチを起こしてしまうというか……そんな具合です。
一応例を挙げておくと、『ファイアーエムブレム 風花雪月』ってゲームがこれを実践しているので、これやってもらったら僕の言いたいことが分かってもらえるかなと思います。全ルートやろうと思ったら100時間ぐらいかかるけど。
あとめちゃくちゃ野暮なこと言うと、子どもに自分と全く同じ音の名前つけるのヤバ親すぎるな……と思っちゃった。
以前の作品にも似た傾向があると思うんだけれども、その作品において「やりたいこと」が明確にあって、それに集中しすぎているような感じがします。確かに、やりたいことが明確にあるというは作家として確固たる強みだと思う。そして、作品を書く以上は自分がやりたいことを全て叶えたいというのも分かるし、それを諦めることを勧めるような話ではないです。
ただ、それを全く知らない読者にいかにうまく伝え、違和感なく受け入れてもらえるかというところ。例えばそれは動きのあるシーン(戦闘シーンなど)を客観的に見て分かるように描写し、読者を置いてけぼりにしないようにするとか、固有名詞を極力減らして混乱を招かないようにするとか、あるいは今回のケースで言えば、どうしても同じ名前にしたいのであれば襲名制で考えてみるとか、工夫の仕方は色々あると思います。一括りに言えば、「物語の没入」。これがキーポイントでしょうね。
これは自戒も込めて言いますが、読者が作者の「やりたいこと」を読み取って、初めて作者の「やりたいこと」は成立します。だから、そのために作者はちゃんと読者が物語に没入する手助けをした方が良いわけです。ファンタジーだからこそ許されることというのはたくさんありますが、それがどこまで許されるのかというラインは自分なりに見極める必要があります。そのあたりの点に改善の余地があるように感じました。

『魔女ツバキの復讐譚』

無実の罪を着せられて"魔女狩り"に遭い、復讐を誓いながら非業の死を遂げた魔女ツバキ。五百年の時を経て転生した彼女の復讐の行く末を描く物語。
タイトルも含めた導入が非常に良かったと思います。この導入をしているからこそ、読者が主人公に近い気持ちになることができるし、その気持ちで読むからこそ物語が一層輝いているように感じる。具体的なことを言おうとすると話の本筋に触れてしまうからこんな回りくどい言い方しかできないんだけど、読者の「物語を読む姿勢」を上手く作っているというか、そんな感じです。
去年の『泡』の「世界が埋没する前に」の時も思ったけど、広義のポスト・アポカリプスというか、"悲劇のあと"の描き方が良いですね。似たものを感じる一方で、前作は「破滅の中で、たった一つが満たされる」って感じだけど、今作は「何もかも満たされているはずなのに、大切な一つが欠けている」ようで、対照的に感じるところもあります。
あと何か指摘するとしたら「食指」は伸ばすものではなく動かすものであるとかそういう細かい部分になってきてしまうんですけど、今作(に限らず、この作者の作品)は使う語彙のレベルが非常に高い分そういう細かいところまで目が行ってしまいがちなところはあるので、細部まで突き詰められるともっと良くなると思います。普段の生活で使わない言葉を使うときは自分を疑い、調べてみることが大事。ほんとに。

『とっくに腹はくくっている』

見知らぬ場所で目覚めた青年が、失くしたものを取り戻す物語。
状況や世界観の説明から目的の提示、そして結末に繋がる"転"の部分にタイトル回収……やることがとても多かったと思うけれども、見事に短編の尺にしっかり収めている秀作です。
そういうわけで、明確に改善できる点として思い当たったような点とかは全然ない。結構文量ありましたが、仕事の休憩時間中でもすらすら読めました。

『ファッション? リバース!』

「らしさ」に悩む高校生の少年少女。真逆だけれど似たもの同士、それでもやはり違う部分はあって……そんな不思議な関係性を描いたお話。
形式としてはすっげえ読み辛い(これは作者の技量の問題ではなく、単に小説という媒体の弱点だと思う)んだけど、一人称やキャラの特徴がハッキリ分かれているので個人的にはそれほど読みにくさは感じなかったです。逆にキャラ付けがハッキリしているからこそこういう形式を取るという選択をしたのかもしれないけど、まあこれをどっちが先かとか話したって仕方ないので良いでしょう。経路としてはめっちゃ難しい道を選んでるけど車の性能とテクニックで事故らず切り抜けたみたいな、そんな感じです。これ伝わる?
話の中身としては、テーマが分かりやすく伝えられていて良かったと思います。今回の『泡』は例年より素直な作品が多いかもしれない。分かりやすいのは良いことです。本当に。書き手としてはついメッセージを作品の裏側や奥底に隠してしまいたくなるところなんだけど、そこまで辿り着こうとしてくれる読者は稀なので。
一方、これは好みの問題だと思いますが、テーマに対して真っ直ぐすぎるが故に引っかかる部分もありました。こういうテーマだからってのもあるけど、授業でのワンシーンとかは良くない時のピクサーみたいになってて個人的にはちょっとなと思った。主人公たちが浮世離れしているとかそういう「空気が読めない」キャラ作り、あるいは自身と他者の思想や感情の違いに折り合いをつけられない青少年の未熟さの描写として意図的なシーンであるなら問題はないと思うんだけど、彼らがあの局面で我を通したことでもたらしたものを考えると、これを(恐らく主人公たちが認識しているような)勧善懲悪のシーンとは思えないなと感じました。主人公たちが、自らの受けた「被害」を盾に、「彼らの思う正しさ」を公共の場に押し付けている。悪い言い方をすれば、そういうシーンとして捉えてしまった。社会には現実としてそうなっている部分がないとは言い切れないわけですが、それに対する皮肉……というわけでは恐らくないでしょう。キャラクターの性格や他のシーンの描き方からしても。
作品として発表する以上、作者はテーマに対する自身の考えをそこで表現しなくてはならなくて、さらに言えば作者はそれを「正解」であると主張しなくてはならない。だから、よく言われているかもしれませんが、広い意味で言えば「創作」とは「作者の正しさの押し付け」と呼ぶことができます。そして、普段から創作に触れる僕たちのような人間はそれを不思議なほど自然なものとして受け入れている。しかし、これが社会的なテーマ(いわゆるポリコレ的な問題?)になると、少々話が変わる。というのも、各人に異なる思想があるから。
例えばそれこそ上に述べた「雪女」についての解釈の分かれ方とか、根本的な話はこれと同じだと思うんですよ。僕には僕の解釈があって、作者がそれとは別の解釈を作品における「正解」として提示している。でも、こういう社会的なテーマだと何故か「説教っぽさ」を感じてしまう。
それは恐らく、こういったテーマは「思想」ひいては「生き方」という、その人の本質的な問題に切り込んでしまうからなのかなと考えています。別に雪女の死に方について解釈が変わったって生活が変わることはありませんが、思想に関して自分とは違うものを突きつけられると、これまでの生き方を否定されているような気がしてしまう。「今ってこういうのもハラスメントになるの!?」と困惑する人の声を最近ニュースなどでちらほら見かけますが、それもこういう心理な気がします。これまで「あって当然の日常茶飯事」としてきたものが、「他者を傷つける悪辣な存在」として突きつけられる。それなら、その存在を許容してきたこれまでの自分は悪の側にいたことになるのではないか、と。
難しい問題ですよね。こちらが相手に繊細になるように訴えている以上、こういう心理に対して逆に「考えすぎ」と一蹴することはできない。難しい。難しいからこそ、僕は小説を書く時にこういうテーマについて一切取り扱わないようにしています。沈黙することもまた、一つの答えだと信じているから。
色々言いましたが、作品としては良かったと思います。ファッションやインターネットというキャッチーな要素も取り入れつつ、現代社会における問題にもしっかりと切り込んでいる。僕がこうしたテーマを好まないというだけで、そこを排してフラットな評価をすればハッキリとメッセージを伝えられている良い作品だったと思います。

『藍町高等学校一年四組の荒井カコについて』

良いキャラ!!!!
『ライアー』を読めば一発でわかる通り、僕も割とパワー系の女の子が好きなので、ちょっと毛色は違うけどこちらも例に漏れず非常に好(ハオ)。このまま全てを破壊していってくれ。
文体は淡々としていますが、カコの暴挙による爽快感もあり、静と動のバランスがとても良いと思いました。
あとカコの内心が全く見えないのも良いですね。僕ら読者も語り手の女の子と同じで、非凡な人物たる荒井カコの真意を知り得ない「普通の人」にすぎないんだと感じる。こういうキャラってどうしても絵に描いたような猟奇性というか、作者が頑張って「異常者」を描いたんだろうなあと感じるようなわざとらしさというか、そういう部分が出てしまいがちになると思うんですけど、荒井カコには驚くほどそれがない。それらしい予兆を全く見せずにいきなり最高速までカッ飛ばした暴挙が飛んできて、刃牙のゴキブリダッシュみたい(伝える気のない喩え)。
ところで、僕はカコの一連の行動に一種の「カッコ良さ」を覚えたんですけど、これはどこから来てるんでしょうね。
まず考えられるのは、「外から見ているからカッコ良く見える」という可能性。僕は「読者」という安全圏から彼女のことを見ているから、スマホやら何やらでロックな演出の動画を見ているのと同じような印象を受けたのかもしれません。実際高校のクラスとかに彼女のような何をしでかすか分からない人間がいたらと思うと、怖くて仕方ないだろうし。
あるいは、普段の生活において抑圧されている暴力性をことごとく解き放っているところにカッコ良さを覚えているのかもしれない。自分が想起しつつも実行できずにいることを実行している人は、自然とカッコ良く見えるものだから。
例えば皆さんも、人と話している時に「今いきなりコイツのこと殴ったらどうなるんだろう……」って思ったり、車の助手席に乗ってる時に「いま隣の人に掴みかかったら、いつでも人生終われるんだな〜」って思ったりすることがあると思うんですけど……ない?

あるだろ。

荒井カコは、僕らが心の奥底で押し留めているそんな思いを、行動という表層の部分まで引きずり出している。引きずり出せてしまう、とも言えるかもしれませんが、そういう部分に僕らはカッコ良さを覚えているのではないでしょうか。そうだとすれば、荒井カコは僕ら読者にとっても檻の中の猛獣ではない。スマホの画面の中のロックバンドではないのです。僕ら一人一人の中に、荒井カコは潜んでいるのかもしれません。怖い話?

『光暈』

映画監督を務める男の、仄暗い日常と色鮮やかな回想の物語。
物語……なんですけど、どちらかといえば人間のスケッチに近い印象を受けました。「一人の人間の人生」に迫るような作品というのかな。シナリオがあって、その中で人物たちが動いて、みたいなのはあんまりなくて、ただ主人公という一個人がそこに生きている様子を描き出している。そんな感じです。だから、登場人物のリアリティは『泡』の作品全体でも随一だったと思います。
リアリティといえば、以前のnoteで「生活を丁寧に切り出す」文体が強みなんじゃないかと言ったことがあるんですけど、今回はそこにさらに磨きがかかっているように感じました。そうして現在の主人公の生活をちゃんと一つ一つ描いているからこそ、彼の抱く懐旧の念にも納得感がある。文体と物語のテイストが非常に良くマッチしていたと思います。
あと僕は適当に物書きをやっているので「光暈」という言葉を知らなかったんだけど、調べてみると「光の周りにかかっているかさ」という意味らしい。鮮やかだった在りし日を思うあまり、現在の生活がぼやけて見えている主人公のことを言っているのかもしれないし、写真を見てみると映画のDVDみたいにも見えるのでそういうのも表しているのかもなあ、などと考えていました。
取り留めのない感想になってしまいましたが、大体そんな感じ。改善点として思い当たるような節は特になかったです。僕が普段書くようなのとは全く違う角度の話だったので、そういう意味でも面白かったです。

『全単射』

ここからは詩ですね。詩の感想って難しいんだわ、これが。
当然のごとく僕は「全単射」と聞いて全くピンと来なかったので調べてみましたが、どうやら「全射」と「単射」なるものが両立している状態らしいです。その全射と単射も分からないので、何の解決にもなっていませんが……
二つの写像(正直言うと写像がまず分からん、集合の一種って理解でいいの?)X,Yがあって、Xにおける全ての要素がYにおいてもそれぞれ一つに定まること。例えばXにおいて「a」という要素がある時、それがそのままYにおいては「1」という数を示す。「b」は「2」、「c」は「3」……という調子で、XとY双方が持っている全ての要素を互いに一つずつ対応させることができる……そんな感じの状態らしいです。まあ詩の読解するだけだからこれぐらいの理解で良いだろ、多分。
そういう全単射の写像とは違い、均質ではない人間の「わかりにくさ」を問う。気持ちも価値観も、何もかもが違っている。そのせいで伝わらない言葉がある。そのせいで伝わらない心がある。僕と同じように「全単射」の概念を知らん人間にはピンと来ないかもしれませんが、つまりは自分が抱えているものが相手のポケットにもちゃんと入っていてほしいということなんでしょう。
人それぞれ違うところが人間の面白さだという考え方もあると思うし、体感で言えばそっちの方がマジョリティな気はする。ただ、特定の相手に本当に伝えたい気持ちがある時、人間の持つその非対称性は大きな妨げになってしまう。だからこそ、この詩では「人間」が全単射であることではなく、「わたしとあなた」が全単射であることを願っているのではないかと思います。
「すべて」という言葉に引っ張られて、ついスケール感の大きな解釈をしてしまいそうになりますが、もっと素朴で真っ直ぐな感情の吐露。それがこの詩の真の姿なんじゃないかと思いました。

『限界の先へ』

「ワタシ」が「アナタ」を導き、限界を超えてゆくという詩。
「お前を信じる俺を信じろ」という有名なセリフがありますが、この詩からもそういう発想を感じます。僕らには、どうしても自分を信じ切れない時がある。そういう時に、自分を信じてくれる他人がいると前に進むことができる。そんな経験をしたことがある人は少なくないと思います。
表面的な文字情報を追う限りではそんなところですが、僕は「ワタシ」と「アナタ」という表記が気になりました。今述べたように単純に二人の人間がいるのなら、あえてカタカナにする理由は今ひとつ見えてこない。
僕がこの点について考えて、可能性として思い当たったのは「自己の対外化」です。これは僕に限らないと信じたいところなんですけど、僕は自分の中に「客観視」の自分が棲んでいるとはっきり認識しています。だから物事に対する反応も大抵薄いし、「今、自分がここに生きている」という感覚がすごく希薄です。一方で、そういう性分だから多少しんどいことがあっても半分ぐらいは他人事だという認識でいるから、余裕で耐えることができる。
そういう「自己の中にある自己」が、自分の手を引いているのではないか。あるいはその視点に立って、自分を一人の他人(「アナタ」)として客観的に見ると、限界の先が見えてくるのではないか。そんな発想も含んでいるのかなあなどと考えていました。

『岐路にて』

気さくな語り口が印象的です。詩の世界でこんなに気さくな奴って「かまきり りゅうじ」ぐらいと思ってた。
しかし、この語り手は相手の抱える事情に同情すると言いつつ地獄行きを言い渡す冷たさを持っています。その事情が何なのかはもちろん明記されていないけれども、僕はいわゆる「ハインツのジレンマ」みたいな、「仕方なく罪を犯したんです」って感じの内容なのかなあと思っています。それを聞いて、語り手は同情しつつも裁きを下したんじゃないかと。
現実の世界でもそういう場面ってちらほらありますよね。事件を起こした犯罪者の境遇が報じられると、それに同情する声も少なからず上がってくる。しかし、社会的な合意としては然るべき裁きを下すことがほとんどでしょう。そういう「審判者」特有の冷たさというか、あるいは社会というものが持つ二面性というか……そんなものを感じる作品でした。

『キョウコのこと』

都々逸のように七・七・七・五のリズムで、淡々と或る女性の悲運が語られる詩。
読んで、僕は「物語の遠近」を感じました。ややこしい言い方だこと。
この詩に語られるキョウコの悲惨な運命は、あくまでそれを読んでいる者にとっては他人事にすぎません。何しろ、それが物語というものだから。友達のエピソードトークを聞くのと同じように、僕らはこの詩を「自分以外の身に起こったこと」として消費する。もっと冷めた見方をすれば、「自分以外の誰かが作った話」として消費するとまで言えるかもしれません。
しかし、物語はその一方で「語られる」ものでもあります。不慮の事故で命を落としたキョウコの無念、帰らぬ娘のために零したかかあの涙、その場に渦巻いた恨み辛みが、きっとそこから遠い未来であろう現代になっても語られている。初めはこんな定型詩ではなくて、村の噂話だったのかもしれない。しかし、それがだんだん形を変えて、とうとうつい口に出してしまうようなリズムの良い詩になった。そして、こうして大学祭の部誌にまで掲載されるようになった……本来ならばただの個人のエピソードに過ぎなかった出来事が、「物語」になることでずっと遠くの存在にも届くようになる。それって、すごいことであると同時に恐ろしいことでもあるような気がしてならない。
この物語に触れた時点で、僕を含む読者はこの物語が巻き起こしてきた渦に呑み込まれてしまった。キョウコに対して、「他人」ではいられなくなってしまったのです。まあ、そんなことを引っくるめて僕は「物語の遠近」を感じたと言ったわけです。他人の事だけれども、他人事では済ませられない。それが、「物語」というものなのかもしれません。

『葬式の人々』

葬式に出ている、色々な人々の話。
僕は物心ついてから葬式に出たことがない(機会はないこともなかったんだけど行かなかった)ので、葬式の空気みたいなのがはっきりとは分からないんだけど、同じ葬式に出ていても「その人の死」に対する捉え方は人によってまちまちなんだろうな、というのは何となく察しがつきます。
そうしたまちまちの反応をする人々を差し置いて、「死人の遺り香」は遺影を大事そうに抱える女性のもとに漂っているという。この女性の年齢も、ここで亡くなった人との関係性もこの詩においては語られませんが、僕はこの女性が他の人々と違って「死を整理できていない」のかなと思っています。
葬式は亡くなった人のためではなく、生きている人が気持ちの整理をするために行われるものだという話をよく聞きます。そんな葬式では、それぞれの人が「記憶の中の亡くなった人」を思い起こすから、それぞれ違った反応をするんだと思います。しかし、遺影を抱える女性は亡くなった人をまだ「記憶の中の存在」にしていない。だからこそ、確かに姿が見える遺影をずっと抱えているし、「死人の遺り香」がそこにあるというのは、この女性だけが亡くなった人を「この世から消せていない」からなんじゃないかなあ……と思いました。なんか全然整理できてない気がするけどこれでいいのか?
いい!!!!!!!!!!!!!!(強行突破)

『死んだように』

「死」という一つの概念に対する解釈の広がりを捉えた作品。
「死んだように」といえば、その後によく続くのは「眠っている」だと思います。そういう場面に出会うと、つい安らかな死を連想してしまいますが、その死は果たして安らかなものだったのでしょうか。
「どの死を頭に仕舞っているのだろう」という表現が良いですね。「どういう」ではなく「どの」。「頭に思い浮かべる」のではなく、「頭に仕舞っている」。まさしく固定観念と言うべきか。いくつかパターンがある「死」の中から一つを選び取って、頭に仕舞う。この表現が妙にしっくり来るのは、言葉を使う人間はほとんど(予防線)死を経験したことがないからなのかもしれません。経験したことがないものを、正しく「思い浮かべる」ことはできない。人間は生きている限り、自分の頭の中で「死」を作り上げることはできないのでしょう。
一方で、死に対する認識はある程度共通しているというのも興味深い話です。先述した通り、「死んだように眠っている」という表現を見ると、恐らく大抵の人は安らかな死を連想するでしょう。逆に「死ぬほど〜」と言うと苦しみや痛みを伴う死を連想する人が多いはずです。
誰も一から正しく思い浮かべることはできないのに、その各種のイメージ自体は違う人間同士の間でもかなり似た形で共有されている。つくづく不思議な概念ですね、「死」って(激浅コメント)

『Abstract』

物には「イメージ」という(抽象的な)ものがあって、それに反するものはすごく奇妙に見える。そして、その一部は皮肉にも詩的に見えます。理由はちゃんと考えていないのでよく分かりませんが、イメージに反するものが「そうなるまで」の過程はきっと常軌を逸しているという期待感がそうさせているのかもしれません。例えば……身近な例で言えば「大きな古時計」が分かりやすいかな。この大きな古時計はすなわち「今はもう動かない時計」ですが、時計が動かなくなるまでには「おじいさんと共に人生を歩んできて、おじいさんの死とともにその動きを止めた」というドラマがありますよね。童謡ではちゃんとその内実を語っているわけですが、詩においては大抵それが語られない。この「大きな古時計」も、「針の動かない時計」という情報だけが断片的に伝えられるはずです。この語られない部分に詩的な雰囲気というか、言いようのない魅力のようなものを感じているのかもしれません。
これは逆に言えば、ものに対してそのイメージに反する言葉を加えると詩的に見えてしまうということでもある。ちょっとやってみましょうか。

真昼の焚き火。
眩しい曇天。
冬の朝に咲く花。
沈黙する赤子。

ほら!!!!
証明終了。まあ長々と書いちゃいましたが、要は「錯覚」の一種と言えるのかもしれません。本当はドラマとか何とかは一つも描かれていないのに、人はこういう文字列を見ると詩的に捉えてしまう。そういう曖昧な(抽象的な)感性のことも言っているのかなーと思いました。
あと最後のアルファベット、これはマジで何一つ分かんなかった。こっそりヒントだけでも教えてくださいませんか?(成人男性の情けない懇願)
この表現自体がまさしく抽象的ですが、「これも何らかの対になっているんだろうな」と考えてしまうというのも今述べた「曖昧な感性」の一つなのかもしれないですね。

『消費』

様々なものを「消費」して生きてゆく者達の情景を描いた詩……なんだと思います。四段に分かれているので、一つずつ解釈を話していきましょう。
第一段では、口にしたくもない「孤独味のガム」なるものを噛んでいる。口にしたいわけでもないのに噛み続けるのは、「人体はシステム」だからだという。単純に文字情報だけ捉えると、一人だろうと何だろうと人は生き続けるしかないという内容なのかなあという気もしますが、『消費』というタイトルになぞらえて考えてみると、何かを消費する上で孤独というのは致命的に味を損ねるものだというメッセージなんじゃないかと思います。良い作品を見たら、同じものを見た誰かと感想を話したくなる。しかし、その相手がいない孤独な状況であれば、その感想を誰にも伝えることなく独りで噛み潰し続けなければならない。そしてそれこそガムのように、ほどほどのところでどこともつかないところに吐き出して、次の消費へ進んでいくしかない。そういう話なんじゃないかと。
第二段では、吹いたシャボン玉が弾けて消える。すると、「美は収束する」という。作品は消えてこそ(完結してこそ?)収束するものであるという考え方かな。ミロのヴィーナスみたいな「未完の美」というものはあるんだろうけれども、それは無限の想像によって補われるものであって「収束した美」ではないからまた別の話ってことなんでしょう。あるいは、あるものが発揮しうる美には結論が存在しうるという主張なのかもしれない。そのものが終わりを迎えた時、初めて「ピーク」を取ることができる。すると、そのピークにあたる時期の美こそが、そのものが美を発揮する上での最適解としての「結論」と言えるのかもしれません。「美が収束すること」を、結論が得られるというプラスなことと捉えるか、それ以上の発展を望めないというマイナスなこととして捉えるか……解釈が分かれそうな部分です。
第三段では、「モダニズムの風」がページをさらい、麦わらは遠く彼方へ……もうほぼ原文ママになっちゃった。
これ本当に何なんだ、全然分からなかった。「モダニズム」、すなわち近代主義的な、先進的なものが入り込むことで「麦わら」のようなノスタルジーが彼方に消えていくということなのでしょうか。大量生産・大量消費の世界が訪れ、手で一つ一つめくっていたページも風がさらうように速く消費されるようになってゆく……そんなお話なのかもしれません。
そして第四段。様々な形の「消費」を繰り返し、獣道は果てしなく続いてゆく。作品を消費し続け、時代を前に進め続け、そうして人は生きてゆく。この旅路がどこへ向かっているのかも分からず、道だけがずっと続いている。単純な解釈ですが、実際ここは多分メッセージとしてもシンプルでしょう。
大体こんな感じか。ほぼ一通りの読解になってしまって、僕の感想とかを挟む余地が全然なかったな。ただ漠然と「消費」できないほど、ハードで奥行きのある作品だったということで、ここは一つ……

『ティピカル』

言葉が意味を持つということは、その「意味」が指すところのものを「言葉」が独占するという考えを表した詩。
その概念は本来一つの言葉で全てを含有することができたはずなのに、それをさらに別の言葉によって区別することで、その広がりは途絶えてしまう。そして、その言葉が元の概念から切り取った"典型的なイメージ"を人が共有する。それこそ、さっきの『死んだように』の話にも通ずる部分があるかもしれません。
例えば「風」があったとする。本来は「風」という一言だけで全て言い表せたはずだけれども、「突風」とか「熱風」とか「そよ風」などといった様々な"仕切り"の役割を果たす言葉が生まれてきた。そうして、本来一つであった「風」が、無数の言葉によって分割されてしまった……そういう感じの話なんだと思います。
そして、最後に出てくる「北極星」という言葉。北極星といえば、動かないように見える唯一の星ですよね。果てしない広がりを見せる一つの概念に対して、その全体の指標となる唯一の存在。すなわち、その概念全体を含有する言葉(上記の例においては「風」)こそが、「北極星」と言えるのでしょう。
ある概念に対し、一つの言葉を当てはめることは然るべき営みです。どこからともなく吹いてくるものを「風」と呼べなければ、風に関する話は何も始まりません。だから、その概念における「北極星」たる言葉は、誰にとっても必要なものです。しかし、本当はそれだけで十分なのに、人間は必要以上に言葉を生み出して、概念を切り分けてきた。『消費』と同じようなスタンスで捉えるなら、この詩の語り手が本当に嫌っているのは「言葉」ではなく、そうした人間の姿勢なのかもしれません。

『月光』

月光に対する種々の反応のように見える言葉が集められた作品。
一見すれば分かる通り、「月」という言葉が出てくるのは題名だけで、詩の中には一切出てきません。しかし、僕を含むほとんどの読者はそれらの言葉が月光に向けられた言葉であると理解するでしょう。
作品を見るより前に「月光」という題名を見ているからこそ、バラバラに見える言葉にまとまりができているような感じがしました。
この本来まとまりのない言葉たちは、いくら眺めていても答えに辿り着くことのできない、いわば混沌たる闇であったのかもしれない。そして、それらを一筋にまとめているこの題名こそが、その闇を照らす「月光」のメタファーと言えるのではないでしょうか。
こうして題名の導きを受け、僕は無事に読解を行うことができましたが、その一方で題名に導かれた通り、「これは月光に対する種々の反応を集めた詩である」という前提を捨てた上で解釈することができなくなりました。
真に月のあり方をなぞっているのは、題名という「分かりやすさ」の光を受け、各々の独自の解釈を捨てた僕たち読者の方なのかもしれないですね。

『思慮』

「模倣」の意を表す複数の言葉を並べ、その差を問う詩。
まず目を引くのが配置ですよね。ざっと見たところだと、言葉の配置が上にあるほど褒め言葉として、下に行くほど悪口として言われることが多いような気がする。これもさっきの『ティピカル』で話していた、言葉が概念を切り分けるというお話かもしれないですね。便宜上、ここに並べられている言葉が共通して指す概念の"北極星"に、「模倣」という作中にない言葉を据えておきますか。
本来、「模倣」という概念には良い面も悪い面もあったと思います。しかし、この概念を切り分けている複数の言葉は、良い面を背負う言葉と悪い面を背負う言葉に分かれている。そうして見ると、僕はやっぱり実際こうして言葉で概念を切り分けることには意味があるんじゃないかなと思います。
「どれも同じ意味」だけど、「どれも違う伝わり方」をする。これらの言葉を「同じ意味」で括るのは、少々機械的な考えというか、そんな感じがする。例えば、これも「機械的な考え」じゃなくて「人の心に欠ける意見」と言っていたら、きっと受け取り方も違ったでしょう。やっぱり「〇〇をパクってるね」と「〇〇をリスペクトしているね」では言葉の伝わり方が違うわけだし、そこに区別があるのは悪いことではないように思います。人間本位なのは否定しないけれども。
作品の本筋からは脱線しちゃうかもしれないけど、こうして見ると「言葉は生き物」なんて考え方もありますが、結局のところ「言葉は道具」なんだろうなと思いますね。他者の影響を受けつつも自分なりの表現をした人を傷つけないために「リスペクト」という言葉は丸くなったし、悪意のある盗作を糾弾するために「パクリ」という言葉は棘を失わなかった。時代とともに、言葉は変化してきたのではなく、改良されてきた……もしくは洗練されてきたのかもしれない。そんなことを考えました。

終わりに

まずは遅くなって本当にすみませんでした……
書いてる途中に次の『泡』が出かねないペースでしたが、どうにかそれまでには間に合ったということで……
全体を通したお話をすると、今回の『泡』は素直な作品が多かったと思います。もちろん一概には言えないし、考察必須の深遠な作品はいくつも見られたけれども、あくまで傾向として。
伝えたいことを真っ直ぐに伝えていて、それは読者層が幅広い『泡』においてはとても重要なことであるように感じました。
それぞれの作品を見ても、シンプルにクオリティが高かったです。前まではどれもだいたい何かしら言えることがあったんだけど、粗探ししても見つからないものも複数あって、すげ~って感じ。読んでからnote書くまでに結構期間が空いちゃってるのもあるかもしれないけど。
ネタバレを避けていることもあって、僕はシナリオの中身の部分にはあんまり触れていない(僕の好みの押しつけになりかねないから)ので、余地があるとしたらそこかもしれないですね。でもこれは僕より友達とかにフィードバックもらった方が良いと思う。ちゃんと友達に読んでもらおう。そんで「#泡2024」を使ってツイートしてもらおう。
それと、詩がかなり増えましたね。まだ一定数が頑張っている感じは否めませんが、コンテンツとして着実に大きくなっているのを感じます。僕は結局在学中に詩を出すことはありませんでしたが、以前よりもずっと挑戦しやすくなっているのではないでしょうか。
あとめちゃくちゃ内情に首突っ込んじゃうけど、感想用のタグってあれ実際どうするのが正解なんだろうな……
多分(僕みたいな人間は特に)買ってから読むまでに時間がかかっちゃうし、巻末ってあんまり目を通さない人が多いから、広がっていかないのかもしれない。
あと今年は最初にツイートしてくれる人が中々現れなかったのがデカかったかなーという気はしますね。そう思うと、僕はnote書くよりツイートした方が良いのかもしれん。
来年まで顔出すかどうかはまだ決めてないけど、まあ行くことになったとしたら今度は逐一ツイートして、後からnoteで清書するような感じでやってみようかなと思っています。インターネットの人間を信じるな。


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