おいてけぼりになるまで(『ライアー』 スピンオフ)

 日曜日の夕方、神土スポーツセンターの第一競技場。剣道の大会がいよいよ大詰めとなり、各部門の決勝戦が始まっていた。会場は熱気に包まれ、あちこちで応援の声が響いている————のだと、思う。
 「霧江、頑張れ!」
 今の私に聞こえるのは、目の前でそう言った同級生の声だけだ。せっかくの夏休みに、剣道部員でもないのにわざわざ試合を見に来たらしい。物好きな人だ。正確には、彼女の声も聞こえているわけではない。唇の動きを見て、発している言葉を判断しただけにすぎない。
 この世界は、なんと静かなものだろう。他の何にも妨げられることなく剣を振れる、私だけの世界。それは、理想の世界と言っても過言ではない。決勝戦を前にして、気分が高揚している。防具を着け、審判の合図を見て前に出た。
「始め!」
 試合開始の合図と同時に、相手は甲高く叫びながら果敢に攻めかかってくる。間合いを見る隙さえ与えず、いきなり打ち合いに持ち込もうとしているようだ。一撃目を弾くと、竹刀がぐっと重くなるのを感じた。これまでの相手とは威力がまるで違う。これほど前のめりな戦法で決勝まで上がって来ているということは、相応の実力があるのだろう。あるいは、何か別の手を隠し持っているのかもしれない。いずれにしても、まずはこのひっきりなしに続いている攻撃を止めなければならない。一歩踏み込み、竹刀を強く弾き返す。よろけた相手に追撃を叩き込もうとするが、それは避けられてしまった。しかし、これで攻撃が止まった。相手はすぐさまさっきと同じように攻撃を再開しようとするが、もうそれは通用しない。踏み込まれる前にこちらから迫り、声を上げながら面を叩く。それと同時に、周囲が一斉にこちらを向いた。よくあることだ。剣道は元々声を張り上げる必要のある競技だが、私の声はその中でも突出して大きい。これでも抑えてはいるのだが、間近で聞けばしばらく聴力が麻痺するぐらいのことはあるようだ。
「やめ!」
 審判は耳を押さえながら、試合を止めた。一本目の有効打が認められる。もう一本入れば勝利だ。だが、これほど激しく打ち合える相手は珍しい。すぐに試合を終わらせるのはもったいないと思った。
「二本目!」
 試合再開。今度は、流石に相手も一度退がって様子を見ている。だから、私の方から間合いを詰め、誘うように何度か竹刀を振った。相手も私の意図を察し、さっき以上に激しく攻勢に出た。速い。流星群のように、竹刀が様々な方向から続けざまに振り下ろされる。少しでも気を抜けば、たちまち数え切れないほどの有効打が入るだろう。身体の奥底の部分から何かが湧き上がってくるような、心躍る打ち合いだ。誰にも見えないのを良いことに、つい笑みをこぼしてしまった。しかし、楽しい時間はそう長くは続かない。
「勝負あり!」
 無慈悲にも、審判は試合終了を告げた。時間切れになってしまったのだ。だが、満足はしている。防具を脱いだ後の表情を見るに、どうやら相手も同じようだった。
「霧江、おめでとう!」
 試合を見ていた同級生が駆け寄ってくる。
「……ああ、ありがとう」
 そんな風に言ってくれるのは、君ぐらいだ。だが、もちろん彼女に対してそんなことは言わなかった。



 閉会式を終え、一通りの挨拶を済ませた後は、黙々と帰る支度を進める。他の部員と言葉を交わすことはない。皆、私が戻るまでに帰ってしまっていた。
「……」
 私は、おいてけぼりだ。私が皆を置いていってしまったから、私も皆に置いていかれた。だが、別にそれで苦しい思いをしているわけではない。むしろ、苦しいのは彼女たちの方だろう。素朴な見方をすれば、自分が早々に敗退しても私が最後まで勝ち残っているせいで早く帰れないから。そしてまた別の観点から言えば、自分より強い人間が間近にいることを何度も見せつけられているのだから。私は強い。だが、それゆえに孤独だ。
 夜道を独りで歩いて帰る。何だかいつもより荷物が重く感じる。決勝戦の相手が強かったからだろうか。自分で思っているより、疲れているのかもしれない。夜道は少しばかり危険だ。そこら中を目が眩むような街明かりが照らしているし、そうでない場所はひどく暗い。私にとっては、昼よりも夜の方がよっぽど騒がしい。
 ふと、すぐそばの物陰に気配を感じた。酔った大人が倒れているのだろうか。そうだとしたら私には関係ないが、だからといってこのまま見捨てるのも忍びない。念のため、近寄って確かめてみた。そこで、私は予想だにしないものを見た。
「人……魚……!?」
 倒れていたのは、疑いようもなく人魚だった。この辺りに水場はないから、どこから来たのかも見当がつかない。しかも、ひどい怪我を負っている。何かを恐れているように荒い息を立てながら、人魚は苦しげに倒れ伏していた。
「……」
 予想外の事態に、思わず固まってしまった。一刻も早く手当てをするか、あるいは少なくとも水場に戻してあげなければ、どうなってしまうかわからない。だが、このまま抱えて運んだら、多くの人の目に触れてしまう。彼女は人間とは違う。できることなら、人に知られない方が良いだろう。
「……そうだ!」
 荷物を開き、急いで人魚に道着を着せる。人魚だと分からないようにすれば良いのだから、これだけでもどうにかなるはずだ。幸いにも、袴なら下半身が鰭でも問題なく入る。こんな形で、着替えを用意しておいて良かったと思うことになるとは予想もしていなかった。
 人魚を抱きかかえ、人通りの少ない場所を選び、急いで運んだ。どうにか誰にも気付かれずに家まで辿り着き、浴室に水を張って人魚を寝かせたところで、糸が切れたように全身の力が抜けた。
 彼女を見つけたのが私で良かった。これが普通の家庭なら、まず間違いなく親に文句を言われていただろう。私の親は家にいない。費用はちゃんと出すから自分のことは自分でやれ、という方針で、私が高校に入学してからは家を空けているのだ。同級生にこの話をするとすごく心配されるのだが、子どもに関心がないからこうしているわけではないと私もわかっている。それに、私が三年生になって忙しくなったら両親はちゃんと帰ってくることになっている。確かに時間的な余裕は少ないが、特にそれ以外の問題はない。
 しばらく経ってから浴室の様子を見ると、人魚が意識を取り戻していた。浴槽の水は血に塗れている。やはり、傷はかなり深いようだ。水を換え、声をかける。
「目を覚ましたか。怪我の様子は?」
「οπο' ενθαδε;」
「……え?」
 人魚が唇を動かした。何か言っているようだが、唇の動きからは全く意味が分からなかった。何かの外国語のようにも見えたが、少なくとも英語ではないことは明らかだ。
「τις ει;」
「……そ、その……私は、霧江。霧江だ」
 全く意味が分からないが、何かを聞かれているようなので、ひとまず当てずっぽうで返事をする。言葉が伝わっていないことが分かれば、何か彼女も手立てを考えてくれるかもしれない。
「κιριεδα;」
 人魚は首を傾げながら、私の言葉を繰り返す。どうやら、言葉に関しては本当に打つ手がないらしい。怪我の具合次第ではこんなことをしている場合ではないのに、一向に埒があかない。仕方ないので、まずは私の名前から覚えてもらうことにした。
「違う、霧江」
「κιριε」
「そうだ。それで……怪我は大丈夫なのか?」
 私が人魚の身体に触れようとすると、人魚はいきなり激しく抵抗し、声を上げた。
「μ' ηκε!」
「メーケ……何だ?」
 そう叫んだ直後、人魚は続けて何かを唱え始めた。何だか、嫌な予感がする。相変わらず唇の動きを目で追っても何を言っているのかは分からなかったが、まるで何かの呪文のような雰囲気があった。その場から離れるわけにもいかず、かといって怪我をした相手を妨害するわけにもいかず、立ち往生している間に、とうとう人魚は呪文を唱え終えてしまった。
「……何も、起こらない?」
「……;」
 人魚は明らかに狼狽していた。考えてみれば、さっきまで怪我を負って倒れていたのだから、気が立っていても不思議ではない。さっきの呪文は私への攻撃なのだろうか。さっきから、分からないことだらけだ。捨てられた犬や猫を拾うのとはわけが違う。そもそも人魚自体が未知の存在だ。ともかく、敵意がないことだけは伝えなくてはならない。
「……そうだ、食べ物!」
 食べ物なら、言葉が分からなくてもある程度共通しているだろう。そう思い立って、冷蔵庫を開ける。魚や野菜を適当に持ち出して、人魚の前に並べた。人魚は怪訝そうな表情を浮かべながら、食べ物を順番に指でつつく。
「欲しいものはあるか?」
「ηοσι……;」
 人魚は欲しい、と呟いた。また私の言葉をなぞったのだろう。それを見て、ようやく意思の疎通をする方法を思いついた。
「欲しい?」
「……」
「欲しい?」
「……」
 私が食べ物を順番に指さしながらそう聞いていくと、魚の切り身を指さしたところで人魚は再び欲しいと呟いた。それを渡すと、人魚は一口に呑み込んだ。
「お、おい……骨は大丈夫なのか?」
「……νοστιμος ιχθυς!」
 人魚は嬉しそうな顔をしていた。どうやら気に入ったようだ。彼女は残っていた魚も全部欲しがったので、そのまま食べさせた。
「さて……どうしたものか」
 幸い夏休みなので学校はないが、ずっとこうして世話をしているわけにもいかない。人魚も多少は元気になったようなので、ひとまず今日はこのまま浴室で眠ってもらって、明日の朝に家の近くの獣医に診てもらうことにした。本当に獣医に診せて良いものかと悩んだが、生憎他に当てがあるわけでもない。
 眠る時、いつもより身体に疲れが溜まっているのを感じた。思いがけず忙しくなったので当然と言えば当然なのだが、この瞬間に改めて自分の疲れを実感した。自分の体力は常に把握しておかなければならないのに、こんなことではいけない。だが、精神的にはすごく満ち足りていた。いってきますもただいまもないこの生活に、寂しさを感じていなかったと言えば嘘になる。まだ言葉はほとんど伝わらないけれど、こうして人魚と過ごしていれば、いつか彼女は私と一緒に歩んでくれるかけがえのない存在になってくれるかもしれない。それがあまりにも過度な期待だということはわかっている。だが、そういう夢を見るのも悪くないと思う。何しろ、私が相手にしているのは人魚なのだから。そんな相手に現実的な期待を抱いたって、つまらないだろう。浴室で眠る人魚を見守りながら、私もその傍で眠りについた。



「……なんて、ことだ……!」
 翌朝、十時二十分に起床。近くにあった小さな置き時計を握り潰さんばかりの勢いで掴む。私は、自分の身に起こったことを信じられなかった。ともすれば、私はまだ夢を見ているのかもしれないとさえ思った。普段は日の出と同時に起きるのに、こんな事態に陥ったのは初めてだ。はっと浴室の方を振り返ると、やはりそこには私と同じくらいの大きさの人魚がいた。夢では、ない。一度息をついて、急いで支度を済ませた。
「急いで動物病院に行くぞ!」
「τις!?」
 困惑する人魚に、昨日と同じように緩く服を着せ、彼女を抱えて家を飛び出した。不幸中の幸いと言うべきか、もう通勤する人の多い時間帯は過ぎているので人通りは少ない。恐らく、誰の目にも触れることなく獣医のもとに辿りつけたはずだ。私たちが入ってきたことに気付き、受付の女性が声をかける。
「はーい、今日は……どうなさいました!?」
 当然の反応だ。ここは動物病院なのに、服を着崩した女性を抱えた人間が入ってきたのだから、困惑しない方がおかしい。
「その……説明が、難しいのですが……」
「ま、まあ、とりあえず診察スペースの方にどうぞ……」
 幸い他に人がいなかったので、人魚を抱えたまま案内された。なんだか、申し訳ない。部屋に入り、診察台に人魚を寝かせた。
「初めての方ですね、お名前は?」
「堀川霧江です」
「堀川さんね。今日はどうされました?」
「見てもらった方が早いと思いますが……昨日の夜、人魚を拾ったんです」
 私がそう言うと、獣医は訝しげな表情を浮かべながら、人魚に着せた服を少しめくった。勢いよく跳ねる鰭を見た途端、彼は大きく後ろに退がる。
「これは、驚いた……!」
「怪我をしているようなのですが、治療……できますか?」
 恐る恐る聞くと、獣医は再び人魚の服をめくって、傷の様子を注意深く見た。それから、にこやかに微笑んでこちらに向き直った。
「はい、見たところ外傷だけですから、何とかなるでしょう」
「本当ですか!?」
 つい声を上げてしまった。近くの医療器具がガタガタと音を立てて揺れる。獣医は耳を強く押さえていた。
「あ……すみません」
「い、いえ。では、一旦消毒をして経過観察をしましょう」
「はい……ありがとうございます」
 治療を済ませて人魚を家に連れ帰る。ひとまず、怪我については当面の間は問題なさそうだ。そこで、次の問題に取りかかることにした。
「言葉を……教えなければ」
今のところ、人魚は私の名前と、欲しいという言葉しか知らない。私には人魚が話している言葉が分からないから、彼女の言葉に対応させながら教えることはできない。だが、絵だったらそれができるかもしれない。そう思って、図書室の奥の方から私が幼い頃に読んでいた絵本を引っ張り出し、人魚の前で開いて見せた。
「ιχθυς!」
「これが、魚」
「σακανα;」
「ああ、魚」
 どうやら、一応は成功したようだ。しかし、こうして一つ一つ単語を教えていくのかと思うと気が遠くなりそうだった。私の親はどうやって私に言葉を教えたのだろう。考えたこともなかったが、不思議で仕方がない。しばらく言葉を教えていると、唐突に人魚が口を開いた。
「σακανα, ηοσι」
「魚が欲しい?」
「τις γα;」
 私が聞き返すと、人魚は首を傾げた。今のは何となくわかる。彼女の言葉にはなくて、私の言葉には入っていた「が」の意味が分からなかったのだろう。だが、助詞の説明が私には上手くできなかった。
「勉強不足だな……」
「……;」
「いや、何でもない。続きを始めよう」
人魚は、驚くべき早さで言葉を覚えていった。今日一日だけで、五冊の絵本に書かれていた言葉を全て覚えてしまった。発音については耳が聞こえない私にはどうにもできないが、少なくとも今は私と意思疎通が取れれば問題はない。最初はどうなることかと思ったが、思いのほか順調だ。
「ο……α,συμι」
「ああ、おやすみ」
 人魚もいきなり多くの言葉を覚えたから、疲れてしまったのだろう。まだ日が落ちて間もない頃だったが、早々に眠ってしまった。軽くシャワーを浴びて、私も就寝の準備を済ませた。
 一年と数ヶ月ぶりに、誰かとおやすみを言い合った。私の望みは、思ったよりも早く叶ってしまった。やはり、言葉が心に与える影響は大きい。そして、心が身体に与える影響もまた大きなものだと感じる。間違いなく疲れているのだが、全く嫌な気持ちにならない。全力で打ち合いをした後のような、心地良い充足感がある。明日が来るのが待ち遠しくて、すぐに寝入ってしまった。



 今度は日の出と同時に起きた。人魚はまだ眠っている。ふと、彼女の正体が気になった。彼女は一体何者で、どうして傷を負って倒れていたのか。彼女がもっと言葉を話せるようになれば、それも教えてくれるかもしれない。しかし、今日は部活があるので学校まで行かなければならない。稽古は私より人望のある副将に仕切ってもらっているものの、一応私も主将ではあるので、易々と稽古を休むわけにはいかないのだ。言葉を教えるのはまた明日以降になるだろう。長時間家を空けることになるが、誰かに人魚の世話を任せるわけにもいかないので、留守番をしていてもらうしかない。
「よし、それじゃあ行ってくる」
 支度を済ませた頃、人魚は目を覚ました。彼女に声をかけ、いくらか魚を与えて家を出た。部活動の最中も人魚の様子が気になったが、誰かに相談するわけにもいかない。日が傾いた頃、ようやく稽古が終わった。普段は稽古が終わってからも残って練習をしているが、今日はいち早く帰路についた。部員たちは驚いて、ひそひそと話を始めた。良くないことだとはわかっているが、つい目を向けてしまう。
「珍しい、何かあるのかな」
「夏休みの宿題が終わってないとか?」
「あんたじゃないんだから、それはないって」
「じゃあ……彼氏とか?」
「まさかあ。彼女でしょ、あのタイプは」
「そこは別にどうでもいいけど……」
 ……見てしまった私が悪いのだが、できることなら視界の外で話してほしいものだ。足早にその場を離れ、真っ直ぐ家に帰ると、人魚は元気に挨拶してくれた。具合が悪くなってはいないようだ。
「κιριε, οκαερι!」
「ああ、ただいま。元気にしていたか?」
 人魚は元気なことを証明するように、手で水を叩いた。どうやら心配は無用だったらしい。安心すると同時に、暗い気持ちにもなった。数時間そのままにしていても平気だったということは、やはり私が彼女を拾う前には誰かによって傷つけられた可能性が高い。今更その誰かを追う気はないが、その記憶が彼女の心に暗い影を落とすことになりはしないか、それだけが不安だった。
 眠りにつく前に、人魚の頭を軽く撫でた。彼女の傷に対して、私はあまりにも無力だ。ただ、治ってくれと願うことしかできない。



「キリエ、おはよう」
「おはよう」
 人魚を拾ってから一週間経った頃には、彼女はすっかり言葉を覚えていた。もう六、七歳くらいの子どもとほとんど変わらないくらい話せるようになっている。私がわからないだけで、彼女が発していた言葉はやはり何か別の言語だったのだろう。それなら赤ん坊のように全く何もない状態から言葉を覚えるわけではないから、多少は覚えやすいはずだ。それにしても、驚異的な早さであることに変わりはないが。
「キリエ、きょうはでかける?」
「そうだな……図書館に行こうと思う」
「おるすばん?」
「ああ。昼までには帰ってくるから、待っていてくれ」
 もうこの家での生活にも慣れたのか、人魚は気にする様子もなく私を見送った。怪我もかなり治ってきている。この調子なら、そう遠くない日に海に帰すことができるだろう。
「……」
 そうだ。そう遠くない日に、別れが来る。きっと、こうなるだろうと思っていた。だから、彼女に名前をつけなかったのだ。しかし、別れが近いからこそ、彼女のことを少しでも知りたいと思った。わざわざ普段なら見向きもしない図書館に来たのも、それが理由だ。ここなら、人魚に関する記述がある本が見つかるかもしれない。
「あ……」
 偶然にも、図書館には見覚えのある人がいた。人違いでなければ、クラスメイトの境田汐音さかいだ しおねだ。確か、怪奇現象や怪異に興味があったはずだ。彼女なら何か手がかりを知っているかもしれない。いきなり聞くのは少し気が引けたので、ひとまず声をかけてみた。
「何を読んでいるんだ?」
「はいッッッッ!?」
 彼女は全身をびくっと震わせて立ち上がった。私には聞こえないが、彼女の声が大きかったらしく、周囲の目がこちらに集まる。
「誰……って、堀川さん?」
「す、すまない……」
 どうやら人違いではなかったようだ。汐音は座り直し、半ば怯えたような表情をしたまま私の方を見た。
「これは、昔の都市伝説を集めた本ですけど……それが何か?」
「……実は、人魚に関する本を探していて、君なら何か知っているんじゃないかと思って声をかけたんだ。驚かせて悪かった」
「い、いえ。人魚ですか……案外ロマンチストなんですね」
 汐音は微笑みながらそう言った。ロマンチストと言われると何だか気恥ずかしいが、あながち間違いでもないのかもしれない。私は確かに現実離れした淡い期待を抱くことが少なくない。今だって、人魚といつまでも一緒に過ごせたらどんなに良いかと思っているのだ。
「そうですね……やっぱり一番有名なのは人魚姫でしょうね。人間に恋した人魚の物語です」
「それは私も知っているな。他には何かあるか?」
「本というか、伝承なら……八百比丘尼やおびくになんかはどうですか?」
 聞き馴染みのない名前だ。私が首を傾げると、汐音はすかさず説明してくれた。
「ある尼僧……尼さんが、人魚の肉を食べて不老不死になったという伝説です」
「不老不死……!」
 もし、人魚についたあの傷が、不老不死を欲した者によってつけられたのだとしたら、説明がつく。だが、そうだとしたら、少し気になることもある。人魚が最初に喋っていた言葉は、何だったのだろうか。
「なるほど……他には?」
「そうですね……あとはセイレーンぐらいでしょうか」
「セイレーン?」
 またしても聞き馴染みのない名前だ。学校の成績は悪くないのだが、そこから一歩外に出れば私は何も知らない。改めて、そう感じる。
「はい。海に住んでいて、綺麗な歌声で船乗りを水の中に引きずり込んで溺れさせてしまう怪物です」
「……!」
 それは、あの人魚とはまるで違う。彼女が、そんな残酷なことをするはずがない。だが、一つだけ心当たりがあった。私が傷の様子を見るために彼女の身体に触れようとした時、何か呪文のようなものを唱えていた。もしも、あれが歌だったとしたら。その歌を終えた後に狼狽していたのも、私が平気だったからだとしたら。嫌な想像が脳裏をよぎる。
「……セイレーンは、変わった言葉を喋るか?」
「そ、そこまでは知りませんが……元は異国の伝説なので、今私たちの目の前に現れたとしたら何を言っているのか分からないかも……なんて、想像でしかないんですけどね」
 汐音は苦笑しながらそう言った。彼女は冗談のつもりで言ったのだろうが、それはほとんど決定的な情報だった。全ての辻褄が、恐ろしいほどに合っている。動揺を悟られないように、必死で平静を装った。
「……そうか、ありがとう」
「いえ、これくらいならいつでも!」
 汐音に礼を言って、図書館を去った。来た時よりも、足取りがずっと重い。それこそ、水の中にでもいるようだ。もしかしたら、私は人を殺す危険な怪物を助けてしまったのかもしれない。仮にそうだとしたら、傷が治ったとしてもただ海に帰して済ませるというわけにはいかない。
「キリエ、おかえり!」
「……ただいま」
 私が扉を開ける音を聞いたのか、人魚は私が浴室に顔を出す前に挨拶をした。これほど情報が揃っているのに、今でも彼女が危険な怪物だとは信じられない。とてもじゃないが、こんな疑念をずっと抱き続けることはできない。だから、思い切って聞いてみることにした。これが、別れのきっかけになっても仕方がない。彼女がセイレーンなら、私たちは初めから一緒にいてはいけなかったのだから。
「……一つ、聞きたいことがある」
「なあに?」
「君は……セイレーンなのか?」
「……ναι!」
 私の言葉を聞いて、彼女の表情がぱっと明るくなった。彼女は嬉しそうに笑いながら、水面を叩いてみせる。彼女の言葉は分からなかったが、それが肯定を示したことは疑う余地がない。
「……そうか」
 残酷にも、私の想像は当たっていた。きっと、彼女は私が自分の正体に気付いてくれたことが嬉しかったのだろう。もし私が未知の存在に保護されて、彼らに自分が人間だとわかってもらえたら、きっと彼女と同じような反応をする。恐らく、彼女には何の悪意もないのだろう。だが、この瞬間に私たちの断絶が決定的になったということを、彼女は知らない。
「……セイレーン」
「……キリエ?」
 私が険しい表情をしていることに気付いたのだろう、セイレーンは大人しくなって、私の声に耳を傾けた。
「君の歌は、人を殺す。もしそんなことが起こったら、私はもう君とは一緒にはいられなくなる」
「……いや!」
「私だってそれは嫌だ。だから……何があっても、歌は歌わないでくれ」
 本当は、私が責任をもって彼女を殺してしまうべきなのかもしれない。だが、そんなことはできなかった。セイレーンはひどく落ち込んでいたが、私もこれだけは譲れない。少しでも長く彼女と一緒にいるためには、こうするしかないのだ。この約束に、意味があるのかどうかも分からない。それでも、私はそれに縋ることしかできない。



 翌朝になっても、セイレーンは落ち込んだままだった。昨日の晩にあげた魚の切り身も、半分くらい残ったまま水に沈んでいる。
「……部活に行ってくる」
「キリエ、ちゃんとかえってくる?」
「ああ。だから……」
 だから、そんな顔をしないでくれ。そう言いかけたところで、咄嗟に口をつぐんだ。私にそんなことを言う資格はない。
「……行ってくるよ」
「……うん」
 家を出た直後、胸が締めつけられるのを感じた。苦しい。こんな思いをすることになるのなら、聞かずにいた方が良かったのかもしれない。だが、そうしていたら私は別の苦しみに苛まれていたのだろう。結局、後悔するとしたらそもそもセイレーンを家に連れて来たことまで遡らなければならないのだ。
「……できないよ」
 そんなこと、できるはずがない。セイレーンは、私を孤独から救ってくれた。彼女と出会わなければ良かったなんて、思えるはずがない。今の苦しみが彼女に出会ったせいだとすれば、私は楽になれるのだろう。だが、そんなことをしたら、私は自分を許せない。
 武道場に着いてからは、必死に竹刀を振り続けた。他の部員の五倍素振りをして、打ち合いの練習では全ての部員を打ち倒した。また一段、彼女たちとの溝が深まるのにも構わず、全てを忘れて剣道に向き合った。稽古が終わった後は、足早に学校を去った。今日は、他の部員が話しているのを覗き見ることもしなかった。
「……早く、帰らなければ」
 竹刀から手を離すと、途端に今朝と同じ苦しみが再び湧いてきた。少しでも早く家に帰って、またセイレーンと話をしなければならない。彼女もきっと不安を抱えながら待っているはずだ。家に着いて、鍵を開けようとした時、やけに感触が軽いことに気がついた。鍵を抜いて扉を引いてみると、そのまま扉が開いた。
「何……!?」
 セイレーンのことを考えていて、鍵を閉め忘れたのだろうか。そんなはずはないのだが、内心ではそうであってほしいと願った。もしそうでないのなら、何者かが私の家に入ってきたということになるから。
「セイレーン、無事か!?」
 真っ先に浴室に走ると、そこには誰もいなかった。今朝残っていた魚の切り身だけが、水に沈んでいる。床は濡れているが、セイレーンが抵抗したような跡はない。
「どうなっている……?」
 誰かがセイレーンを連れ去ったのだとしたら、何らかの抵抗をするはずだ。そう思った直後、私はその理由に気がついた。自分の愚かさに腹が立つ。彼女から抵抗する手段を奪ったのは、他でもない私だというのに。
「私のせいだ……!」
 すぐに鞄から木刀を取り、鍵もかけずに家を飛び出した。この際、何か盗まれたとしても構わない。それよりも、一刻も早く彼女を助けに行かなければならない。浴室の床は濡れたままだった。彼女が姿を消してから、それほど時間は経っていないのだろう。今なら、まだ間に合うかもしれない。辺りを見ると、道が点々と濡れていた。恐らく、セイレーンを連れ出す時に彼女の身体から雫が滴り落ちたのだろう。それを辿っていくと、近くの駐車場で水の跡が途切れていた。やはり、車に乗せて運んだのだ。周囲に住んでいる人に聞いてみれば、車の情報がわかるかもしれない。まずは駐車場の隣のアパートの大家を訪ね、聞いてみることにした。
「あの、すみません」
「おや、どちら様?」
「神土高校二年の堀川霧江です。先ほど、駐車場から車が出ていきませんでしたか?」
 大家は視線を少し上に送り、思い出すようなそぶりをした。直後、彼は頷きながら答えてくれた。
「ああ、ついさっき出て行ったな。凄い音だったから、つい窓から覗いちゃったよ。その車を探しているのかい?」
「はい。どちらの方に行ったか分かりますか?」
「そうだなあ、あっちの方だったと思うよ。ああ、確か黒いトラックだった」
「……ありがとうございます」
 礼を言って、大家の指した方向に向かって駆け出した。幸い、そちらの方向は狭い路地が多い。人通りの少ない場所を選んだのだろうが、トラックならばそう速くは進めないはずだ。路地の中を走り回って探し続け、日が落ちきった頃にようやくそれらしい車を見つけた。相手に気付かれないように、身を隠しながらその後を追う。案の定、道が狭くてスピードが出ていなかったので、さほど苦労せずに追いかけることができた。
 やがて車が止まり、人が何人か降りてきた。隠れて様子を見ていると、彼らは荷台を開け、そこから大きな水槽を運び出していた。その中に、セイレーンの姿が見えた。怪我をしている様子はないが、ぐったりして何もできないようだった。
「……!」
 彼らはそのまま近くの建物に入った。今はもう使われていない建物らしく、どの部屋にも電気がついている様子はない。車に乗っていた人間が全員建物の中に入ったのを見た後、呼吸を整えて車に近づいた。車の陰から内部の様子を見ると、入り口の近くには戦闘員らしき男が二人立っていた。だが、それを恐れている時間はない。木刀を握り、入り口に進んだ。
「止ま————」
 先に口を開いた男の喉元に木刀を突き刺す。直後、男は首を押さえながら倒れ込んだ。それに驚いている間に、もう片方の男の脇腹を勢いよく打った。痛みに声を上げる前に、顎を掴んで床に伏せる。
「あ……が……!」
「……セイレーンは、この上にいるのか?」
 男は目に涙を浮かべながら頷くことで、私の問いに答えた。私が手を離すと、男は声も上げることができずにその場で意識を失った。
 そのまま上の階に上がると、さっき車を降りた男たちが話をしているのが見えた。見えている範囲では、二人だけだ。一度物陰に身を隠し、会話を盗み見る。
「全く、逃げたと思ったら人間の家に転がり込んでるとはな。獣医を脅して話を聞かなきゃ分からなかったぜ」
「それにしても……こいつは何で抵抗しなかったんだ?」
「さあな、前に痛めつけてやったのが効いてるんじゃねえか?」
 そう話しているのを見て、奴らがセイレーンを傷つけた張本人だと確信した。木刀を握る力が強くなる。ただ彼女を取り返すだけでは済ませられない。
「おい、今度逃げたらあんな傷じゃ済まねえからな」
「……!」
 男は、私の位置からは見えない何かに話しかけるようにしてそう言った。奴が話しかけた相手は、見なくてもわかる。銃の引き金が引かれて弾丸が飛び出すように、男がその一言を吐くと同時に私は堪えきれず飛び出した。
「……セイレーンを傷つけたのは、お前たちか」
「何だ、お前は!?」
「答えろ」
 私が詰め寄ると、男たちは五人で私を取り囲んだ。どうやら私の死角に三人いたらしい。私が一人で来たのだとわかると、奴らは得意げに吠えかかってきた。
「何だよ、たった一人だけか!」
「答えろって……はっ、それが人にものを頼む態度かよ!」
 答える気がないようなので、木刀を振るって右手側に立っていた一人の意識を絶った。残りの男たちはすぐさま一歩引き下がる。怯えたわけではなく、持っていた鉄の棒を構えるために距離を取ったようだ。流石にこの程度で怯えるような相手ではないらしい。だが、そんなことは何の問題にもならない。
「……人?」
 地を蹴って正面に進み、今度は目の前の男に向かって木刀を横一文字に振るう。鉄の棒で防いできたが、それでは到底足りない。そのまま押し切って、棒ごと男の頭を叩いた。ぐらついて姿勢を崩したので、腹部に突きの一撃を入れる。
「が……!」
「うおおおおッ!!」
 隙を突こうとして、残りの男たちが一斉にこちらに向かってくる。呆れるほどわかりやすい。右側から迫ってきた男に肩でぶつかり、その勢いを乗せて顔に木刀を当てる。力が緩んだその手から武器を奪い、他の男たちに向かって思い切り投げつけた。それは躱されたが、おかげで隙を突かれずに済んだ。
「こ、こいつ……!」
「退け!」
 まだ立っている二人の男たちのうち、片方が叫んで後退の指示を出した。今倒れている男たちは殺されてはいない。確かに、奴らが立ち上がれるようになるまで退がって時間を稼ぐのは有効だといえるだろう。だが、その策には致命的な問題がある。
 私は足元で倒れている男の背中に木刀を思い切り突き刺した。思いがけない痛みに、男は身体を震わせる。
「ぐあああッッ!!」
「お、おい……何してやがる、やめろ!」
 さっき仲間に引き止められた男が叫ぶ。今にもこちらに飛びかかってきそうだったが、もう一人の男が手で制止しているのですぐには攻撃できない。私は二番目に倒した男のもとに歩み寄り、同じように木刀を背中に突き刺した。またしても、似たような悲鳴が上がる。
「やめろ!!」
「お前たちがセイレーンを傷つけた時……一度でも、彼女の言葉に耳を貸したか?」
 男たちは、青ざめた顔をしながら黙ってこちらを睨みつける。もう言葉を返す気力も残っていないらしい。もうこれ以上追い詰める必要はないだろう。木刀を下げ、倒れている男への攻撃を止めた。立っている二人は驚いた顔をしてこちらを見た。
「セイレーンが痛みに声を上げた時、お前たちはこうして手を止めてやったか?」
「……」
「……それなのに、何を勘違いしている。お前たちは、人ではない」
 とうとう我慢の限界が来たのか、二人とも私に向かって飛びかかってきた。二本の鉄の棒を同時に打ち払い、姿勢を崩した一人の胸に突きを入れる。もう一人はそれを見て戦意を失い、棒を取り落としてその場にへたり込んだ。
 部屋の奥に進むと、さっき見た大きな水槽があった。その中には、セイレーンの姿もある。彼女はひどく怯えていたが、私を見るなり安心したように目元を緩めた。
「キリエ……!」
「……セイレーン、怪我はないか?」
 そう言って改めて彼女の顔を見ると、なぜかまた怯えたような表情に戻っていた。不思議に思って彼女の視線の先を辿ると、部屋の入り口の方に新たな人影があった。私より少し年上くらいの若い女性に見えるが、どことなく威圧感に似た雰囲気がある。
「何だ……!?」
「これ、あなたがやったの?」
 彼女は倒れている男たちを指差して、そう問いかけた。黙って頷くと、彼女はいきなり微笑みながら拍手した。
「すごい力ね、うちの組織に欲しいくらいだわ」
「……組織?」
 こんな場所にいる時点で彼女は奴らの仲間だろうが、もしかしたら駆けつけてきた自警団のようなものなのかもしれない。その一縷の望みにかけて、彼女に問いかける。
「……そこの奴らは、その組織の人間か?」
「そうね、下っ端だわ。期待外れだと思わないでね、彼らは戦闘員じゃないの」
 特に期待はしていなかったが、やはり希望は脆くも崩れ去った。彼女が奴らの仲間だとすれば、戦わなければならない。しかし、彼女は明らかにさっき倒した男たちとは違う。心してかからねばならない。一度息をついて木刀を握り直し、構える。
「一つ聞いても良いかしら。今あなたが私に聞いたのと同じように、念のため」
「……何だ?」
「あなた、うちの組織に入らない?」
 問われると同時に、首を横に振った。彼女は諦めず、話を付け加えた。
「もちろんタダでとは言わないわ、セイレーンの無事は約束する。あなたに懐いているようだし、何ならあなたが連れて行っても良いわ」
「……」
 その提案が魅力的でないと言えば、嘘になる。こんな事態になった以上、セイレーンを連れて帰ったとしても彼女をそのまま家の浴室に戻すわけにはいかない。だが、彼女を他の場所に移せば、結局私と一緒にはいられなくなってしまう。目の前の女はこのわずかな時間で私の悩みを見抜き、それを解決する提案をしてみせたのだ。しかし、それでも私の答えは変わらない。
「……どんな条件をつけられようと、お前たちに与するつもりはない」
「あは、フラれちゃった。まあいいわ、それなら消えなさい」
 女は懐から銃を取り出し、私の身体から少しだけ外れたところを狙って撃った。弾の軌道上にはセイレーンもいない。恐らく威嚇射撃のつもりなのだろう。その場から動かず木刀を構え、弾が外れるのを待つ。
「……若いのに、ずいぶん肝が据わってるのね」
「黙れ、目障りだ」
「あら、耳障りじゃなくて?」
「……ああ、目障りだ」
 歩きだして、真っ直ぐに詰め寄る。水槽から離れすぎるとセイレーンが狙われる可能性があるので、一直線上に並ばないように位置取った。銃を持った女は、不敵な笑みを浮かべながら私に再び銃口を向ける。
「名乗るのが遅れたわね、私は千花。もう下の名前だけで十分でしょう。あなたは?」
「……」
 わざわざ答える義理はない。黙っていると、千花は溜め息をついて引き金に指をかけた。奴の指を注視し、それが動いた瞬間に身体を銃口の先から逸らす。銃弾は壁に当たって跳ねたが、私たちのいる場所まで届く前に勢いを失って落ちた。
「想像以上ね。今度は当てるつもりだったんだけど」
「……諦めろ。銃は、私には当たらない」
「そうね、確かにこのままじゃ当たらないわ」
 千花は銃を捨て、素手で私に迫ってきた。急な接近で、木刀による牽制が間に合わない。後退して木刀を引き寄せ、どうにか身体への直撃を免れた。それで攻撃は終わらず、次々と突きと蹴りが繰り出される。さっきの男たちとは比べ物にならない強さだ。
「く……!」
 ただ攻撃を避けているだけでは、埒があかない。しかし、木刀で反撃する隙はない。何か別の動きをしなければ、こちらが追い込まれてしまう。ひっきりなしに飛んでくる千花の拳と足を強く睨む。静かな水面の下に沈んでゆくように、攻撃を見極めることに意識を集中させる。
「終わりね、そっちは壁よ!」
「……ああ、終わりだ」
 木刀を床に突き立て、その勢いで飛び上がった。千花は背後に回られると判断したのだろう、咄嗟に拳を後ろに回して攻撃する。しかし、私はそこにはいない。
「真上!」
 千花の頭上から落下し、奴の肩に足を乗せて着地した。直後、私の足を掴もうとした千花の手を飛び跳ねて躱し、そのまま頭を蹴飛ばす。
「いっ……!」
 すかさず木刀を拾い、追撃を加えようとしたが、千花は転がりながらそれを避けた。仕留め損ねてしまったものの、負傷は大きいはずだ。今度は木刀で反撃する隙も生まれるだろう。
「全く、木刀を地面に突き立てるなんて……無作法ねえ」
「礼儀も大事だが、生き延びることが先決だ」
「……気に入ったわ。やっぱり、あなたは殺さないで捕らえる。組織にも入らなくて良い。私のものとして、飼ってあげる!」
 千花は唐突に後退し、銃を拾い上げて指を鳴らした。直後、部屋の入り口から大勢の人間が押し入ってきた。どうやら奴が仲間を呼び寄せたらしい。見たところ、五十人はいるだろう。
「な……!」
「まあ、戦闘員じゃないから一人一人はそれほど強くないけど、これだけ人数がいれば話は別よね。少なくとも、銃弾は避けられないわ」
「……キリエ!」
 セイレーンはいつの間にか、水槽から顔を出していた。それから彼女は息を大きく吸い込んだ。セイレーンの狙いはわかる。このまま待っていれば、私と彼女は無事に帰れるだろう。しかし、私はそれを容認するわけにはいかなかった。
「歌うな!」
 セイレーンは驚いて息を吸うのをやめ、心配そうにこちらを見た。彼女に人を殺させるわけにはいかない。何としても、彼女を怪物にしてはならないのだ。
「……心配するな。君は、水の中に潜っていてくれ」
「キリエ……」
「優しいのね。その優しさを少しでもこっちにも分けてくれるとありがたいんだけど……まあ、無理な話かしらね」
 千花は再び銃を構え、こちらに向けた。集まってきた男たちの中には、弓を持っている者もいる。千花の銃に注意を向けすぎれば、別の飛び道具に不覚を取る。確かに、客観的に見れば状況は絶望的と言えるだろう。
「悪く思わないでね、奥の手は最後まで取っておくものよ」
 千花は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。それがあと数秒で崩れ去ることを、奴は知らない。
「……そうだな、奥の手は最後まで取っておくものだ」
 怪訝そうにこちらを睨む千花の目の前で大きく息を吸い込み、思い切り叫んだ。甲高い叫び声が、静かな夜の空気を突き破って駆け抜ける。
「があああああああああああッッッッッッッッ!!!!」
建物が揺れ、水槽にひびが入る。巨大な音の弾丸が、その場にいた全員に直撃した。これが、私の奥の手だ。間違いなく騒ぎになるのでなるべく使わないようにしていたのだが、もう手段を選んではいられない。呼び集められた男たちは一人残らず意識を失った。千花も目を瞑って耳を押さえている。
「な……なんて声……!」
「少しだけ、私の世界にご招待だ。静かで中々良いものだろう」
「……まだよ!」
 千花は立て続けに銃の引き金を引く。今更、そんな無闇な攻撃は当たらない。それは奴も承知の上だろう。恐らく、麻痺した聴力を回復する時間を稼ぎたかったのだ。しかし、その程度で治るものではない。
「気に入らなかったようだな。もう、終わりにしよう」
「ど……どうしてあんな声を出して、あなたは平気なのよ!」
「……目障りだと言ったはずだ」
「な、まさか……!」
 千花はとっくに気付いているものと思っていたが、どうやら奴を買い被りすぎていたらしい。未だに耳を押さえ続けている千花のもとに迫り、木刀を振るって一撃を加える。意識を失う寸前、千花はうわごとのように一言だけ言い残した。
「これほどの力……もしかして、あの日の生き残り……なの……?」
「……何の話だ?」
 心当たりがなかったので聞き返したが、千花は既に倒れ伏して動かなくなっていた。何とかセイレーンを守り抜くことができたようだが、時間がない。叫び声を聞いた人々が集まってくる前に、急いでセイレーンを抱えて逃げなければならない。彼女を水槽から出して、初めて出会った頃のように抱えて走り去る。今度は鰭を隠すための着替えがないので、人目を避けながら家に連れ帰った。
「……キリエ、わたし」
「……すまなかった!」
 帰ってきてから、私は一番にセイレーンに謝った。今回の事態は、私の言いつけのせいで起こったようなものだ。彼女が少しでも抵抗していれば、こんなに怖い思いをさせずに済んだかもしれない。
「私が後先を考えずに歌を禁じなければ、こんなことには……」
 私が言い終わらないうちに、セイレーンは私の頭を手で優しく撫でた。
「キリエ、ありがとう」
「セイレーン……」
「こわかったけど、キリエがたすけにきてくれたから、へいきだったわ」
 私は、思わず彼女を抱きしめた。こんなことをする資格は、私にはないのに。
「無事でよかった、本当に……!」
 私は、孤独だ。その原因の一端は、自分の強さにある。だから、自分の強さが憎い時もあった。だが、今日私は強くてよかったと初めて思えた。自分の力が、大事なものを守るためになるのなら、これほど嬉しいことはない。
「……キリエ、でも……」
 セイレーンは、不意に物憂げな表情を浮かべた。彼女の考えていることは、何となく私にもわかる。セイレーンを狙う組織は、私の家に侵入して彼女を攫った。だから、もう彼女を私の家に置いておくことはできないだろう。しかし、だからといってやはり海に返すわけにもいかない。
「……セイレーン、君は、どこに行きたい?」
「わたしは……どこでもいいから、キリエといっしょにいたい」
「……そうか」
 セイレーンが私のもとを離れて、かつ私と一緒にいられるような場所。そんな場所がないわけではなかった。しかし、彼女の存在を隠した上でそこに住まわせ続けるのは、かなり困難だろう。それでも、彼女が望むなら、できる限りのことはしてみようと思う。
「……よし、明日になったら君の住む場所を変えよう」
「え?」
「いつも一緒にはいられなくなるが……毎日会いにくる。必ずだ」
 セイレーンは安心したように笑みを浮かべ、いきなり眠ってしまった。不安と危険にさらされ続け、疲れていたのだろう。私も体力の限界だ。早々と支度を済ませ、眠りについた。



 翌日の夜、私はセイレーンを抱えて学校に向かった。そのままプールに彼女を運び込み、水の中に放した。どうやら水質が違っても問題なく住めるらしい。既に何日も浴室の水の中で生活していたので、今更の心配ではあったのだが。
「それじゃあ、私が来る時には魚を持ってくるから、それ以外の時は姿を隠していてくれ」
「うん、わかった!」
「それから……一つ、考えがあるんだ」
 これが、本当に正しい選択なのかどうかはわからない。きっと、私はセイレーンとずっと一緒にはいられない。ずっと一緒にいてはいけないのだ。どれほど止めようとしても、彼女はいつか人を殺してしまうだろうから。そうなる前に、私が自分の手で終わりにしなければならない。私は、いつかまた独りでおいてけぼりになってしまう。それでも、その時までは彼女と一緒にいたい。この秘密が誰かに知られてしまうまでは、このままで————


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