名大文芸サークル 作品集『銘文』 感想
はじめに
noteでお会いするのはお久しぶりですね。前回の記事があんなんだったからショックで失踪したと思われかねないんですが、マジで書くことがなかったというか年末に関しては書いてる場合じゃなかったので期間が空いてしまいました。
今回は冬コミ(C103)にて販売された名大文芸サークルの部誌『銘文』の感想を書きます。そう、今年度は文芸サークルもコミケに作品を出したんです。今年度の文芸サークルはすごいね、本当に。今が大革命の時代(なんかあんま聞こえが良くないな)なのか、ここ二年が失われた期間だったのか僕にはわかりませんが、ここ最近の文芸サークルは革新に革新を重ね、大胆に活動の幅を広げています。もしこの記事を読んでいる人の中に何のサークルに入ろうか迷っている名大生がいるなら、ぜひ文芸サークルを考えてみてください。株で言ったらめちゃくちゃ買い時だから、今。僕はかつての閑散とした風景に思いを馳せ、「すごい時代になったのう……」って呟きながら動く歩道で移動している老人と全く同じ心持ちです(そんな老人はいない)。
ちなみに今回僕は作品を出していません。部員の皆さんが冬コミに出す作品を書いている間、僕は冬アカデミに出す作品(卒論)を書いていました。noteを書いてなかったのもそういう事情です。
ご挨拶はこれぐらいにして、各作品の感想に移りましょう。『泡』の時と同様、ネタバレは極力避け、内容の説明は必要最低限にとどめます。また、批評みたいな内容も含むので、もし作者の方がこれを読む場合はご自身も「確かにそうだなあ」と思った部分だけ取り入れ、後は捨て置いてください。
「ある少年の手記」
「違和感」の作り方が非常に巧みだと思いました。最初はミスなんじゃないかと思うようなスレスレのラインを攻め、読み進めるうちにその疑念がだんだんと確信に変わってゆく。ホラーテイストではないのに、ホラー小説を読んでいるような独特な感覚がある。そして、何と言っても衝撃的なラストの文言。最初の作品にふさわしい、読み応えがあって魅力に溢れる作品でした。特にこれといった改善点も見当たらないんですけど、強いて言うなら、ラストの構成的にもリアリティにもう少し重きを置いても良かったんじゃないかなと思います。詳しくは合評会の時にちゃんと言うつもりですが、主人公がショックを受けた時に同じ言葉を過剰に繰り返している場面や、最終盤の内容(そもそも手記でこうなるのかという疑問もある)を見た時に、つい「作り物」だと感じてしまった。インパクトも大事なので捨てがたい面もありますが、ここの表現をあえて控え目で現実味のあるものにすることで、読者に差し迫るものをより強くするというのも手だと思いました。
「夢を見てた」
新進気鋭、一年生の作品です。
す
ご!!!!!!!!
まず文章力がえげつないです。地の文、会話文、どちらも自然で隙がない。その上、語彙や比喩のバリエーションが非常に豊かで、読んでいて全く退屈しませんでした。特に比喩は圧巻。全然喩えとして聞いたことないのに、情景が頭の中にスッと入ってきました。それなりに複雑な話もあって内容としては難解なはずなのに、なぜかくどさが全然ない。不思議なものですね。
あと最後に挿絵まである。これはすごいことですよ。だって格闘技で銃も使ってるようなもんじゃん、こんなん(違う)。
改善点を挙げるとしたら、「ブレを活かす」ことを意識してみると良いのかなあ……と思います。というのは、作中に登場する先生の一人称が「私」だったり「俺」だったりしたんですね。ミスかもしれないし意図的かもしれない、断定が難しいような頻度だったんですけど、こういう細かな差異を意図的に使えるなら使っちゃおうという話です。ありがちな例だと、公的な立ち振る舞いをする場面では「私」、個人的な内面を語る場面では「俺」に一人称を変えるとか、差異じゃなくても一つ明確な欠点を持たせてみるとか……そんな感じです。小説の書き方というよりは、キャラの見せ方についての話ですね。
今作の主人公とヒロインはかなり人間ができているような印象があって、そんな二人が淡々としながらも小気味よいテンポで味のある会話を織りなしているのが大きな魅力の一つだと思います。だからこそ、「それを見ている人」としては面白いけれども、感情移入はしづらい部分がありました。せっかく読者との距離が近い一人称で文章を書いているので、もう少し登場人物、特に主人公の心情や願望なんかを素直に提示する場面があると良いのかなと思いました。そうですね、登場人物と読者との距離感が課題になるかもしれません。例えば主人公は作中だとそんなに賢くないって言ってるんですけど、凄まじい完成度の文章を読んでいるこちら側からしたら「嘘つけ!」って感じるとか……まあそんな具合です。
色々言いましたが、脅威の傑作でした。この改善点も30分ぐらい頭抱えながらやっとでっち上げたものなんで、あんまり真に受けずに目を通してもらえれば幸いです。
「盲人」
僕は未完の段階で一度この作品を読んでいるんですけど、その時に気になっていた点をかなりクリアしていて良かったと思います。特に最後まで書いたことで人物同士の関係がはっきりしたのが良いですね。前に読んだ時は「この人は物語上どういう立ち位置で、なぜ必要なのか?」ということが見えにくい人物がちらほらいたんですが、それもちゃんと説明がつくようになっていたと思います。また、以前読んだ段階ではいまいち要領を得なかった挿話の内容もちゃんと最後まで分かりやすく説明されていて、全体の構成もはっきりしていました。
同作者の『泡』の作品もそうでしたが、やはり文体が魅力的だと思います。生活の一つ一つを丁寧に切り出すことで、日々を色濃く生きる青少年の等身大の生活を感じさせる。ここは明確に僕にはない力だなあと思っています。僕はどちらかと言えば「エンタメ」寄りの作品を書きがちなので、朝の身支度とかは「身支度をして、」とかで適当に書くかそもそも書かないことが多いんですけど、こういう僕が何も考えずに捨てているような部分を目ざとく拾い上げ、鮮やかに描写しているこの作品は、まさしく「文芸」と呼ぶに相応しいのではないでしょうか。
例によって自信をもって提示できる改善点もないんですが、強いて挙げるなら「固有名詞の使い方」が言えるかなあと思います。今作は商品名や地名などの固有名詞が非常に多く登場し、中には実在する商品や企業のパロディもあります。固有名詞自体はその世界の質感を高めるという点で効果的なんですけど、あまりにも多すぎると読者にとっては逆にノイズになります。平たく言えば、「物語上覚える必要がない情報」に「その作品オリジナルの言葉」が使われているということ。漫画だとざっと見るだけで読み飛ばせるからそんなに気にならないんですが、一つ一つの文章に丁寧に向き合う小説では案外リスクが大きいです。そういうわけで、シリーズ作品ならある程度すれば慣れますが、単発の作品に固有名詞が多すぎると少し苦しい。少し前に話題になった「異世界モノにメートル法を使うか否か問題」にも通ずる部分があると思いますが、「読者にどこまで詳しく情報を伝えるか」という点に意識を割けるとより読みやすくなるんじゃないかなと思います。
あと、前回ほど致命的なものはなかったと思いますが、誤字脱字が多いのは少し気になりました。もしかしたら、少々校正を信じすぎなのかもしれない。これはあくまで持論ですが、校正者は「作品をより良くするために一緒になって考えてくれる人」であり、「あらゆるミスを指摘してくれる人」ではないと僕は考えています。作品を一番理解しているのは結局作者自身であって、校正者は「こうしてみたらどう?」という提案しかできない。だから、立ち位置としてはこんなインターネットの隅っこで勝手に改善点を捻り出し、ぼやいている僕とそんなに変わらないわけです。ただ、校正者は作品が世に出る前にこれをやってくれるので、そこで出た案はその作品に活かすことができるだけ。だけというにはあまりに大きな違いですが。
作品の一番の理解者として、作者自身が最後に全体を見直すこと……もしやっていなければ、是非やってください。ちなみに文章を声に出すと話の順序が変とかここで読点打った方が良いとかそういう点に気付きやすいので、これももしやっていなければ是非一度試してみてください。
「丑と行雲」
おもしろ!!!!!!!!
良質な読み切り漫画のようなスピード感と読後感がありました。キャラの立て方、ユーモラスな掛け合い、白熱の頭脳戦……見事という他ありません。
こういう類の作品って読みながら頭使うから疲れがちだと思うんですけど、この作品は軽妙な語り口や頻繁な視点変更でその辺の弱点をクリアできていたと思います。視点変更(と、それに伴う場面転換)って劇における暗転のようなもので、繰り返しすぎると読者の関心が離れてしまう恐れがあるんですけど、この作品においてはそれが「休憩地点」として上手く機能していました。
改善点を考えたものの、本当に浮かばなかった。一部の作品だけ改善点を挙げないってのはフェアじゃないから避けたかったんだけど、観察力が足りなくて申し訳ない。今後長編として連載していきたいとのことだったので、ここでは僕が知っている限りの関連知識をお伝えしておこうと思います。今後の展開の参考になれば幸いです。これすら既に知っているようなら僕はもう終わりです。だから、これは一つの博打だ。
まずデスゲームなんですけど、もし読んでなければ『嘘喰い』という漫画がおすすめです。50巻ぐらいあるけど、公開してるマンガアプリがちらほらあるので、探してもらえればある程度は読めると思います。それも面倒なら31巻から始まる「プロトポロス編」と、その後に続く最終決戦だけでも読んでほしい。この部分にはそんなキショい買い方をするだけの価値がある。これは作者だけではなく、皆さんに言っています。他人事だと思って読み飛ばそうとしたそこのあなたにも言っています。
あとは作中の機関の名前として使われていた「ダイダロス」。曲がりなりにも西洋古典をやっている人間なので、ここには注目しておきたい。書く時点で調べたかもしれませんが、ミノタウロスの迷宮を作ったと言われるダイダロスにまつわる神話と、それに対する個人的な解釈をまとめておきます(出典はアポロドーロス『ギリシア神話』とオウィディウス『変身物語』。手元にはないけど、ヒュギーヌスの『ギリシア神話集』にも何かあるかもしれない。ちなみに有名な神話集であるヘシオドス『神統記』にはダイダロスの話はない)。
まとめてみたものの、思ったより長くなっちゃった。「神話をまとめておきます」とか軽々しく言うんじゃなかった。作者の方以外は読み飛ばして良いし、何なら作者の方も別に読まなくて良いと思います。これは指摘する点を見つけられなかった僕が謎の重労働を課せられている、それだけなので……
・自分の姉妹ペルディクスの子であるタロース(アポロドーロス版)、または自分の妹の子であるペルディクス(オウィディウス版)を弟子にとっていたが、才能への嫉妬から彼を殺している。その罪を問われてミノス王のもとに逃れ、彼の残虐な振る舞いに付き合わされる運命となった。『変身物語』では、ペルディクスは死の直前にアテナ女神に助けられて鳥に変身しており、イカロスの死の際にはダイダロスに向けて羽をはばたかせて大喜びしている。
→ダイダロスは嫉妬による罪を抱えている。また、それが呪いのように後を引いている。
・イカロスを弔ったヘラクレスに感謝し、彼の像を建てた(ちなみにヘラクレスは夜間にその像を見て、生きているものと勘違いして石を投げたらしい)。
→これは技術者としての側面が描かれているだけなので、そんな参考にはならないかも。強いて言うならヘラクレスと接点があったということぐらい。
・ポセイドンの呪い(ミノス王が「めっちゃ良い牛捧げるわ」って約束したのに捧げなかったから)によって牛を愛するようになってしまったミノス王の妻パーシパエーのために、木製の牛を造った。また、パーシパエーがその牛との間に産んだアステリオス(ミノタウロス)を閉じ込める迷宮を造った。
→イカロスの話に次いで有名であろう、「迷宮の造り手」としての話。今回名前を取ってきたのも、恐らくこの神話が理由でしょう。ただ、これはダイダロスの意志ではなく、「ミノス王に求められて造り出したもの」であることは何かに使えるかもしれません。
・ミノス王から逃れるため、翼を造って息子イカロスとともに脱出を試みる。しかし、イカロスはダイダロスの注意を聞かず、天頂を目指して飛んだことで翼が溶け、海に転落して死んでしまう。
→最も有名な話だと思います。「自身の技術が原因で息子を死なせてしまった」、あるいは「自分が与えた道具にまつわる注意を使い手が聞かない」という要素は使えるかも。
・ダイダロスを追うミノス王は、巻貝に糸を通せる(=ダイダロスでもないとできない芸当)人間を探した。ダイダロスは彼を匿っていたコーカロスから頼まれてそれに成功し、ミノス王に見つかる。しかしコーカロスがミノス王を歓待した際に彼に熱湯を浴びせて殺し、ダイダロスは事なきを得る。
→技術が仇になったが、協力者によって事なきを得た場面。「ダイダロス」に危機が訪れた時、この話を上手く再現するのも手かもしれません。
これらの神話を見ると、ダイダロスは並外れた技術を持ちながらも、それなりの失敗を重ねていることがわかります。また、その失敗が後々まで影響しているということも言えるでしょう。ちなみに『オデュッセイア』によるとミノス王は死後、冥界の審判役みたいな役割を課せられているようです。曲解すれば、ダイダロスを間接的に「法規に逆らう存在」と見ることもできるかもしれませんね。
「劇的クソ甘ミルク」
設定の説明が上手いと思いました。最初の魔族の説明の段階では「この感じがしばらく続くならちょっとくどいな」と思っていましたが、そこから上手くハンドルを切って説明を序盤に集中させないようにしていたのが良かったです。これまでの同作者の作品と同様、世界設定それ自体も非常によく練られています。僕はこういうのをめちゃくちゃ怠るからなあ……
世界観こそファンタジーではありますが、中身はその王道から少し外れた路線を歩んでいます。ゲームだったらクリアには直接関係ないけど物語上重要なサブクエストみたいな内容。だから、ファンタジーの花形とも言えるような派手な戦闘であったり、変わった特殊能力であったり、そういったものはあんまりない。けれども、この物語は「王道ファンタジー」というある程度型にはまったジャンルで繰り広げられている。そのことには大きな意味があると思います。何となくやっている、何となくそういうポジションについている、そういうことの一つ一つについて「なぜ」と疑問を投げかける。そういう作品だと思いました。
改善点としては、回想シーンの切れ目をもう少し分かりやすくしても良かったかなと思います。カットのやり方自体は統一されてるので問題ないのですが、回想の中でもカットがあり、かつ回想にも主観的な記述(主人公が今その場でその気持ちになっているような書き方をしている箇所)があるから、カットの後に続く文章が回想シーンのままなのか、それとも現在に戻ってきたのか、すぐには判断がつかなかった。
ただ、多分これは作者の方も意識していなかったわけではないと思います。いざ回想から戻る時にはちゃんとそれを示す文章が入っていたので、実際の切れ目は分かりやすかったです。ただ、読んでる最中はそこが気になっていました。回想中にカットをした後にも「翌日」みたいにちゃんと時間を明示するか、思い切って場面転換に記号を使うか……パッと思いつく対処法はそんな感じです。
「戯れ/徒然」
ここからは詩や短歌になります。僕は詩や短歌に通暁しているわけではないので(さも小説には通暁しているかのような物言い)、改善点の指摘などはせず、作品を読んで思ったことを率直に書いていきたいと思います。
「戯れ」
この後の「徒然」も同様ですが、三つの短歌がまとめられて「戯れ」というタイトルがつけられています。なので三つ全部を通した構想みたいなのもあるのかもしれませんが、まずはバラして一つずつ感想を述べていきます。
一首目
ルールが厳しく「厄介そう」なものを避け、より自由なものを好む。面倒ごとが嫌いで、楽しく生きていたい人の感覚を上手く捉えていると思います。また、これが「短歌」という形式を取っているのは「もっと自由っぽいから」なのではないかと思いました。
一方、最初に避けたものにも形式によってはこの「厄介さ」から逃れられるものもある。けれど、この人が最初に離れてしまった以上、その説明を聞くことはない。第一印象の大切さを感じます。
そう、ただでさえ僕の言語化能力はそれほど高いわけではないのに「極力中身に触れてはならない」という縛りも加わるから、詩歌の感想はnoteに書くのが難しいんだよな(弱音)。多分これだけだとマジで何言ってるのかわかんないと思うので、詳しくは合評会でもまた話します……
二首目
「作品を自分の手で生み出す」人と、「作品が自分の手から生まれる」人の違いって、ありますよね。僕は物書きの人から時折聞く「キャラが勝手に動く」という現象に出くわしたことがない人間なので多分前者なんですけど、前者の人間は自分の手が止まると創作が止まるんですよ。この歌の作者(この作品の作者ではないかもしれない)も、恐らく僕と同じ、前者のタイプなんだと思います。ただ、僕と決定的に違うのは、初めは後者の人間だったと見えること。僕の感性を単なる荒地とするならば、この人の感性は枯れた井戸なんだと思います。だから、「昔は水が出てきたよなあ」みたいな感じで立ち返ることができる。知らないものは知らないままだけど、忘れたものは思い出すことができる。途中から僕との比較の話になっちゃったけど、まあそんなことを思いました。
三首目
メタ的な表現を上手く使った短歌だと思います。この中だと僕はこれが一番好きかな。「短歌」という形式だからできることで、分かりやすくメッセージが伝わってくる。そのメッセージが素早く、分かりやすく伝わってくるからこそ、受け手はその中身を一層強く噛み締めることができる。そんな作品だと思いました。
「短歌というもの自体に切り込んだ内容であること」が、三首の短歌の共通点の一つと思います。自分が「短歌」というものをどういう形で捉え、それをどこまで広げられるのか。それを試すようにこの三首の歌を詠んだ、それが「戯れ」なのかもしれない……
全然そんなことないのかもしれない……
「徒然」
一首目
普段は視覚と聴覚で味わうことの多い「雨」を、詠み手は嗅覚で味わっている。恐らくセオリー通り、視覚と聴覚でも味わっていることと思う(中身に触れちゃった! 一回休み)。また、その後に味覚に関する言葉も出てくる。しかし、触覚だけがない。そして、この感覚の欠如を埋めてくれるかもしれない存在に思いを馳せる。中身に触れたところで結局上手くは言えませんが、そんな感じの作品なのかなと思いました。
二首目
祭りの日、「私」は肩身が狭い思いをしている。確かにこの祭り、見た目が良い人の独擅場みたいなところがある気がする。賑やかな街中と、陰鬱な「私」の対比がよく表現されていると思いました。
三首目
これを読んで最初に思い浮かんだのは小林一茶の「痩せ蛙 負けるな一茶 これにあり」という俳句です。嘘、盛った。本当は「負けるな一茶 これにあり」の部分だけ思い浮かんでて「こんな感じのあったよなー」ぐらいの気持ちでした。
一茶の生きた時代から自然は大きく形を変え、人間はそれに翻弄されています。巷(主にTwitterを指す)では気温の急激な変化を「令和ちゃんのミス」などと揶揄する表現もちらほら見られます。しかし、人間以外の生き物も、同じように自然に翻弄されている。そこに目をつけ、一茶の時代から変わらず生態系の頂点にいる人間として、自然に翻弄されながら必死に生きる生物を応援している。そんな感じの作品だと思いました。
こちらの三首は季節感も雰囲気も統一されているわけではなく、まさしく作者が思うまま、徒然に詠んだものなんじゃないかと思います。僕がタイトルの意味考えるのが面倒になったとかじゃなくて、マジでそうだと思います。僕を信じてください。
「彼女と本」
貸しっぱなしの本と、それを借りっぱなしの相手に思いを馳せた詩。僕は子どもの頃あんまりものの貸し借りをしなかったのでこういう経験はほとんどないんですけど、貸したデュエマのカードの所在をはぐらかされ、僕が向こうから借りたカードだけ返して僕だけ失ったことならあります。当時のデュエマって貴重なカードがデッキに必須とかそういうのがそんなになかったからまだ良かったけど、遊戯王とかだったら普通に首飛んでるからな、お前。
この詩を読んで気付いたんですけど、「貸し借り」って結構重い関係ですよね。お金はさることながら、大人になったら取るに足らないようなおもちゃとかでも、相手やそのもののことを忘れても「貸した・借りた」という事実ははっきりと覚えている。「返さなきゃ」とか「返してもらわなきゃ」という使命感がそうさせるのでしょうか。逆にこういうのを覚えてないって人はこの意識が薄いから忘れるのかもしれないね。
「夜明けを待つ」
作者の長編小説のキャラクターを題材にした詩らしいのですが、そのキャラクターのことを知らないのでそのまま読みます。
夜って確かに本当の自分が出てくる時間というか、一人の夜は周りの目を気にしなくて良い時間なので日中の自分とは違うような感覚がありますよね。ただ、この詩ではこれを「本当の自分」とはしていない。そして、夜はいずれ明けなければならない。それと同時に、夜にいる自分は表向きには正しくなくて、それはいずれ淘汰されなければならないとしている。その感覚は、「大人になる」ということに近いように思いました。
「現在主義」
今、ここで出会っているのだから、過去の縁などどうだって良い。今ここで出会ってさえいれば、それでいい。そんな詩。簡潔で短い言葉と途中で切れるようなタイミングの改行に、縋るような必死さを感じます。
人は(大きな大きな主語)、「必然性」というものに縋りたがることが割とあると思います。物語においては特にそうで、「ポッと出」を嫌う傾向にある。それは、未知への恐怖から来るものなんじゃないかと僕は思います。なぜこの人と出会ったのか、分からない。なぜこの人が自分の人生の一幕に登場したのか、分からない。それが分からないままというのは好ましい状態ではない。それを解消するために、過去あるいは自分の知らない前世に縁があるのだと考える。ただ、この詩はその考えが不要なものだとしています。なぜ、自分たちが出会ったのか分からない。そのままでも構わない。「出会い」という不条理を受け入れてでも、「必然性」という安息をかなぐり捨ててでも、今の瞬間を大切にしたい。そんな思いがあるんじゃないかと思いました。
終わりに
どの作品もめちゃくちゃハイレベルでした。一応ダメ出しとかはしたものの、それすら一苦労だった。本当ならこの記事は日曜日ぐらいには上がってるはずだったんだけど、一個一個にかけるエネルギーがデカすぎて遅くなっちゃった。初のコミケに向けた気合いを感じさせる、良作揃いの一冊だったと思います。今後も期待。もし来年以降のコミケで再販とかするならお品書きとかに「ゆうとと、激賞!!」って勝手に書いてもいいよ。何のネームバリューもねえけど。
そう、僕のネームバリューとかはどうでも良くて、もう既にサークル内で話が出てるかもしれないけど感想用のハッシュタグは必要だと思いました。『銘文』、マジで検索しにくい。中国語の謎のツイート群を潜り抜け、やっと日本語のツイートを見つけたと思ったら数日前の僕の「『銘文』を読んでいます」という旨のツイート。口縫い合わすぞ、ほんまに。そういうわけなので、『泡』の時みたいに「#Cn_銘文(nはコミケの回数)」とか「#名大文サ_銘文」みたいな感じのタグを用意しておくと色々便利だと思います。何卒。