痛みはどこから来てどこへいくの
実は榎本はtattooに興味あります。もちろん自分がするのではなく
tattooをしていらしてる方に対してです。
とてつもなく「美しい」と思うのです。
そして、その「痛み」と引き換えに得る
「美しさ」と「何か」に心を惹かれます。
「何か」ってなんだろうな。
そしてぼんやりとこの写真を見てて思い出したのは
清水穣先生の文章である「LTATHERあるいは幻肢痛としての身体−メイプルソープの二つの自画像」中の一文です。この本の中で、ロバート・メイプルソープの創作と彼の人生にかかわる重要なものとして、「Leather(レザー)」と総称されるある性のタイプについて触れています。
この文章を読んだ時に、レザーと言われる性のタイプとは別に(レザーの人もtatooをされている人はいますが、それとは別として)もしかしたら、tattooの痛みは「自分の身体を取り戻す」為にあるのかな思えた。ものすごい「美しさ」とも引き換えに。
痛みと引き換えに得る 何か。
自分の身体なのか違うものなのか
私は興味があるのです。
痛みはどこからきてどこへ行くのか どうしてそれが必要なのか。
もちろん、身体的な痛みだけでなく、心の痛みもです。
私は息子を失くしてから、ずっと「苦しまないといけない」と思っていました。まるで自分のせいで息子を失ったかのように。いや、それはずっと今でも持っています。「思っていました」と書くと過去形でなるので、今は違うようになってしまうので、訂正します。死ぬまで母親というものは、親と言うものは、ずっと持ち続けていると思います。ただ、毎日が生活できるようになっただけだと思います。周りの人は、「あなたが悪いのではなく、同じような被害者であるはずです」と心の呵責をやめるように下さる方はいますが、「はいそうですね」とできるものではないのです。
私は現在 自分のアーティストステートメントは「喪失の可視化」と書いてあります。いろいろな方が「もう、違うものを違うことを追い求めた方がいいよ」とアドバイスをくださります。
「もう痛みから解放してあげてください」
でも、多分、私はできないのだと思います。心の痛みを持ち続けることで、自分の心と身体の存在を確認続けるのだと思います。生きてる間は多分。
だから、こそ、tatooの痛みと同様に、「痛み」に関しての興味があるのだと思います。
自分が写真で何か出来ないか
考えています。
できるかどうかわからないけど。
多分 そのために写真と出会ったのだと思います。
48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。