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痛みはどこから来てどこへいくの

実は榎本はtattooに興味あります。もちろん自分がするのではなく
tattooをしていらしてる方に対してです。

とてつもなく「美しい」と思うのです。
そして、その「痛み」と引き換えに得る
「美しさ」と「何か」に心を惹かれます。

「何か」ってなんだろうな。

そしてぼんやりとこの写真を見てて思い出したのは
清水穣先生の文章である「LTATHERあるいは幻肢痛としての身体−メイプルソープの二つの自画像」中の一文です。この本の中で、ロバート・メイプルソープの創作と彼の人生にかかわる重要なものとして、「Leather(レザー)」と総称されるある性のタイプについて触れています。

〜(略)レザーの本質には一つの切断がある。自我と身体が完全に切れていること、である。そしてこのの自我は固有の身体を持たない。だからこの自我にとっては、自分の(とされる)身体も、他人の身体となんら本質的に異ならず、これ・あれの区別しかないのである。こうしてレザーの自我に国有の冒険は、いかにして身体を獲得するかであり、いかにして「他人の」身体を「自分の」身体にするか、である。身体をもつという実感をどのようにして得るか。自我はそれを苦痛によっておこなう。切断された自我と身体のあいだに生じるコミニケーションは、痛みや呪縛感、苦しさであり、そこで獲得される身体は抵抗によってのみ存在する。 戦争や病気で足や腕を切断した人が、切断されて今は存在しないはずの足や腕に痛みや痒みを覚えることがある。痛みははっきりとしたものなので、眼を閉じれば、痛む足や腕がありありと感じられるほどである。これを幻肢痛と言うわけだが、痛みや抵抗を覚えるときだけ存在するレザー的身体(⁉︎)のあり方は、幻肢痛によってくっきりと存在する切断された肢体のそれと同じである。(略) 

『LEATHERあるいは幻肢痛としての身体−メイプルソープの二つの自画像』
「女性的になる現代美術清水穣(2002)」株式会社淡交社

 

 この文章を読んだ時に、レザーと言われる性のタイプとは別に(レザーの人もtatooをされている人はいますが、それとは別として)もしかしたら、tattooの痛みは「自分の身体を取り戻す」為にあるのかな思えた。ものすごい「美しさ」とも引き換えに。

痛みと引き換えに得る 何か。
自分の身体なのか違うものなのか

私は興味があるのです。
痛みはどこからきてどこへ行くのか どうしてそれが必要なのか。
もちろん、身体的な痛みだけでなく、心の痛みもです。

 私は息子を失くしてから、ずっと「苦しまないといけない」と思っていました。まるで自分のせいで息子を失ったかのように。いや、それはずっと今でも持っています。「思っていました」と書くと過去形でなるので、今は違うようになってしまうので、訂正します。死ぬまで母親というものは、親と言うものは、ずっと持ち続けていると思います。ただ、毎日が生活できるようになっただけだと思います。周りの人は、「あなたが悪いのではなく、同じような被害者であるはずです」と心の呵責をやめるように下さる方はいますが、「はいそうですね」とできるものではないのです。

 私は現在 自分のアーティストステートメントは「喪失の可視化」と書いてあります。いろいろな方が「もう、違うものを違うことを追い求めた方がいいよ」とアドバイスをくださります。

「もう痛みから解放してあげてください」

でも、多分、私はできないのだと思います。心の痛みを持ち続けることで、自分の心と身体の存在を確認続けるのだと思います。生きてる間は多分。

だから、こそ、tatooの痛みと同様に、「痛み」に関しての興味があるのだと思います。

自分が写真で何か出来ないか
考えています。

できるかどうかわからないけど。

多分 そのために写真と出会ったのだと思います。

48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。