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【手が写っている写真を1枚選び、その写真に対する観察、分析】

写真と言葉のワークショップ「手の写真を見る・読み解く・話してみる」
7月13日(土)、7月27日(土)16:30〜19:00 @カロタイプ市ヶ谷        講師:小林美香 に受講し、提出したレポート

私が選んだ写真

 <撮影者> 小川隆之 写真家

<撮影されている人> 小川隆之(本人)*セルフポートレート

<作品の情報> title : Untitled 061995-97 Gelatin Silver prints     10x10in( 25.4x25.4cm) each

From the series : Beyond the Mirror:A Self-Portrait

<掲載されている写真集> A SHARED ELEGY  Indiana University Press (2017/9/19)  Elijah Gowin, Emmet Gowin, Osamu James Nakagawa, Takayuki Ogawa

どのように写っているか

背景紙が黒く黒い洋服(タートルネックセーター?)を着た被写体(本人)の上半身が写真の中心近くに配置されている。黒い背景と黒い洋服のため、顔と手のひらだけが、白く浮かび上がるように見える。右手で顔の右半分を覆っている。(右目が隠されている)顔が写っているのはスクエアフォーマットの全くの真ん中ではなく、写真を上下に2等分した上部に配置されている。下部は上半身が写っているのだが、黒い服装のため、背景紙に溶け込み洋服の種類などはよく判別できない。撮影はスクエアフォーマットであるので、ブローニーサイズ(120フィルム)と思われる。銀塩写真である。

画面全体と手の関係

 被写体(小川隆之)の顔の半分を手のひらで覆って隠している。右目がみえないようにしている。背景が真っ暗の中で、黒い洋服(セーター?)を着ていて、顔だけが白く浮き上がっているのだが、その顔を半分隠している。この写真の中で まず、被写体の顔に注目する。そして左目に意識が行くが、右目が見えないこと、そしてその右目を隠している右手に視線がいく。左手が画面の外にあってどんな風にしているのかは見えない。

シリーズ作品の場合のこの写真の位置づけについて

作品「Beyond the Mirror: A Self-Portrait」のシリーズの中の1枚。この作品はヒューストン・センター・フォー・フォトグラフィー(アメリカ)にて1998年に個展として展示しているが、日本での展示や写真集出版の記録が探せずに、この作品の意図やどのような用途のために撮影されているかは、不明。また、この写真集などの出版もない(確認できない)為、このシリーズの全部の作品を見れていない為、この写真のどのように作品の中で位置づけされているのかを確認ができない。下記資料によると、癌を患った経験から生まれた作品であること。レントゲン写や自らの体を題材とするフォトグラムよるセルフポートレートのシリーズであることのみわかる。

 ~(略)90年代後半には、癌を患った経験から生まれた「Beyond the Mirror」と題する、レントゲン写真や自らの身体を題材とするフォトグラムによるセルフポートレートのシリーズを発表、新境地を開く。同シリーズは同題の個展(ヒューストン写真センター、アメリカ、1998年)で発表された他、東京都写真美術館で開催された「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」(1998年)にも出品された。(出 典:『日本美術年鑑』平成21年版(438-439頁) )東洋文化財研究所HP

写真をみて受ける印象、創造すること、引きつけられる要素

(1)死のイメージ 

私がこの写真を見たときに、まず最初に思ったのは、ものすごく強い「死」のイメージでした。

 何故そのような印象を受けるのかを考えてみました。黒い服、痩せた初老の男性、白ひげと白髪の髪であること。隠された右目により、より一層の左目のカメラに向かっているまっすぐな視線が鋭く、何かを言いたいような、声に出していないが悲鳴のような、まるで突き刺さるような視線を感じるました。また、安易なイメージの発想としては「(彼は)死神のように」見えました。いや、逆に「死神に」この被写体は取り憑かれているようにも見えました。どう見ても、「健康そうで、幸せに満ち溢れている」ようには見えません。また、それ以外には、この被写体は「何か」に「蝕られている」ようにも見えました。精神だけでなく、全部が写っていないのですが、体全体を支配されているように思えました。私はこの強い「死」のイメージ(私が持っているイメージなのかもしれないですが)が最初に写真を見て、感じていたと思います。

(2)生のイメージ

またその一方で、私はこの写真から、ものすごい強い「生」のイメージも不思議なことに感じたのでした。「死」のイメージの強さと同じくらい、「生きる」という強いイメージです。右目を隠して見える、左目の視線は強く、悲鳴のように突き刺さるようでありながら、「迫り来る死のイメージ」から必死に対抗して、「生きたい」という強い思いを感じました。それは被写体の「決心」のようにも感じました。また、この視線は、冷静であり、客観的であります。それは、もうある一定の精神の場所まで、たどり着いているような(悟っているような?)強い「意志」のような印象を持ちました。彼の体も心も「何か」に蝕られているようにも思えたのですが、被写体はそれさえも排除はできてないが、自分の「管理下」においているような強い意志を感じたのです。

(3)手のイメージ

私はこの右手で顔の半分を隠すというイメージに、かなり惹かれました。まずは、「どうして隠すのか?」ということです。セルフポートレートとして撮影するのであれば、なぜ半分顔を手で覆うのか?と本当に不思議に思ってました。顔が半分しか写ってなければ、ポートレートとしての写真としての本来の役割がを果たしていないのではないだろうか。それなのに、なぜ彼はこの写真を撮ったのだろうか。また、彼は顔を見られたくないのであれば、写真は撮影しないだろうとも思いますし、また、自分のことが嫌であれば、両手で顔を覆って隠して写真を撮るでしょう。なぜこのようなセルフポートレートを撮るのか?とても興味がありました。人はよく、失敗をしたり、恥ずかしい時に、顔を両手で覆い、顔を隠します。(それもまた、別の意味で、どうしてなのか、興味あります)しかし、なぜ、顔を半分だけ隠すのか?なぜ右目を隠すのか?この写真はとても不思議でその理由が知りたいと思えました。また、「てのひら」というのは、体の中の器官で「自分の意思で自由に簡単に動かせる」ものだと思います。つまりそれは、一番、「自分の意思」を反映させやすいわけです。つまり、手というのは、一番「自分の意思を表現出来る」ことができる器官であると思えました。だからこそ、私達は、写真の中にある手の行方が気になるのではないかと考えました。

 手で右眼を隠して左眼でこちらを見ている写真は、私は、「きき目」を隠すことで、自分の意思でものを見るのではなく、きき目ではなくもう一つの眼で 「今の現実」を客観的に冷静に見ることで「今の自分の現実」を受け入れるようにしているように思えます。納得できたわけではないが、そんな風な「辛い事実」に対して、「逃げないで」「立ち向かう」意思をこの写真に、この手の動作に感じられたから、この写真に惹かれるのかもしれません。

最後に(補足)

私はこの写真を選び、当日このレポートを参加者ので発表して、全員でディスカッションをしました。そして、私が見た印象とは別に他の参加者の意見なども話されました。また、このレポートを書くことをFacebookにて少し書いたところ、小川隆之さんの甥である、同じく写真家のオサム・ジェームズ中川さんが「僕は小川にどうしてこの写真を撮ったのかを聞いたよ」とコメントをいただき、あとでメールをいただきました。その内容は、自分が考えたものとは多少違いましたが、とても興味あるものでした。その内容は、ここでは載せないことにします。



48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。