「写真作家の死」20221115
マーガレット・キャメロンのように48歳から「写真」を初めて現在55歳のただのおばちゃんがどこへ辿り着こうとしてるのかどこにも辿りつかないのか。そっと影から見ていてください。まあただの日記なんですがね。
お前は誰のか?③
写真を始めたのは2014年の4月からです。なぜそんなはっきりと言えるかというと、社会人向けの美術大学の「写真コース」へ入学したからでした。
本当は子供の頃からやりたかった「油絵コース」の受験の予定でした。
でも通信課程でしたので自宅学習で自宅で制作する。だとしたら、
「この狭い家で油絵のテレピン油のにおいは夫に悪いな・・と考え
「なら写真かな」と
あまり考えないで選んだのでした。
その時は、写真のこと全く知りませんでした。
48歳で大学入学。卒業しても何もないのですが、
「まあ学士の資格を取ろう」と何も考えてませんでした。
森山大道も知らず、「アレブレボケ」も知らずよくもまあそこに入学したものです。(油絵はやったことあったのですが)そして、のめり込むように
写真にはまり無事に3年で卒業できました。卒業制作は[20050810]という作品で、石内都さんの「ひろしま」を見て衝撃を受けて
自分の息子の遺品を撮影しようと思ったのでした。
実は48歳で大学に入るつもりは全くありませんでした。
普通の人生を送り、25歳で同じ会社に勤めている夫と婚約して、
26歳で結婚して早く子供を産みたいと思っていたのですが(なんせ昭和)
なかなかできなく、不妊治療を経てやっと34歳でやっと子供を授かりました。長男の嫁であり、後継男子を産んで(なんせ昭和)
これから子育てを頑張ろうとこの子をちゃんと成人させるのが
自分の役目だと
普通の幸せを求めていました。
それが、大事に大事に育てていた一人息子は4年後、預けていた保育所で
心肺停止で本棚の引き戸の中で発見されました。
直接の死因は熱中症でしたが、
私はその事実をそのまま受け入れることはできませんでした。
この事件はルポタージュとして取材され本が出版されています。
そして
刑事裁判は書類送検で民事裁判を長く争うことになりました。
38歳から裁判と続けていた高度不妊治療(体外受精)と外へ一歩も出られない「闇の」10年近くが続きました。体外受精も受精・着床するのですが、そこから育たず、稽留流産が4回 子宮外妊娠が1回を経験して
さすがにもう体が悲鳴を上げていて、やっと不妊治療を卒業しました。
そして裁判が終わると、
それこそ「何もできない」状態がずっとづづきました。
死ななかったのは夫が
「死んだら(自殺したら)あの子には会えないよ」
呪いのような言葉が助けでもなく、ずっとそれで止まっていただけでした。ただの空気を吸って生きてる人でした。
夫はそれでも生きていて欲しかったと思うけど。
今日はこのくらいで。また書きます