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写真作家の死:20240812

榎本八千代の写真作家としての活動ブログ
2025年に二つのギャラリーで個展が決まりました(たぶん)
この間の1年間「どこへ辿り着くのか、どこにも辿り着けないのか」
と「何を考えていたのか」を記録していこうと思います。

20年目の8月10日を過ごしました

 この数日noteを更新してなかったですね。
まためんどくさくなってぶっちぎりで逃げたと思ったと思います。
ええ逃げようと思いました。
精神状態のアップダウンが激しくて、やはり命日前は
何もやる気がなくなるのです。
まあいつもやる気はないのですが、
とりあえず仕事をして、家事をして
あとは家に帰ったら夫が作ったご飯か買ってきたものを
食べて死んでました。(言い訳)

この時期になると「死刑執行前のカウントダウン」が始まるみたいな
そんな息苦しさがあります。

 前は、事件関係者やら線香を上げさせてくれとか
色々な善意と思うのですが
色々な思惑が絡んできた人々が訪問してきて、
心休まる日ではありませんでした。
「仏壇に線香を上げたい」という理由だけで、
アポなしで自宅にくるのは恐怖でしかなかったですね。
数年間は。裁判中もまた然り。
善意であるのか、
何か意味があるのかを考えるだけで嫌だった。
(善意の人ももちろんいたのですがそれがわからなくなるほどでした)

 それも10年経ち、20年経ちやっと夫婦二人で穏やかに過ごせたるようになりました。やっと。それがいいのか悪いのかわかりませんが。
ただ「(何かに対しての)怒り」が出てくるのがやっと
収まったという感じですよ。
夫婦間も自分の感情をぶつける事もなくなりました。
(泣くのを見てるのはお互いが一番辛いをわかってるから)

 私は亡くなった直後は、半狂乱と能面のような2重人格のような
感じでした。
それが苦しくて、精神科医の行動認知療法へ通ったり、
心療内科へ通ったり、同じような遺族の会に参加したりと
やっと落ち着いてきたのは
10年くらい経ってからだと思います。
その間、我慢強い夫は私を支えてくれてました。

昨日、ボソッと
「なんかね、最近、大丈夫だったんだけど すごく胸にくるものがあってね ごめんね こんな事を言って」と呟くように言ってました。

私は
「それは あなたのペースで喪失に関して向き合う時が来たのかもよ」と
答えました。

 私は、作品を作ることで逃げられない事実に関して向き合うと
いう事が多いです。
(というか私の表現活動はそれがメインテーマなので仕方なく)
だからこそその悲しみに対して向き合う時間が長い(けど辛い)
からこそ今は落ち着いていられるようになったのかもしれないです。

これから彼はそれに向き合わないといけないのかと思うと
キツいなと思います。
気がつかないふりをして今まで冷静を保ってきたと思います。
だからこそキツい。
私はこれからはずっと支えていこうと思います。

 亡くなった時間(11時ごろ)にお墓参りをしました。
お墓は家から歩いて行ける距離にあります。
よく一緒にいってた図書館の側でした。
遠くの墓地ではなく、いつでも行ける距離ならと
納骨を拒否してた自分の条件でした。(家に置いておきたかった)

私は、実は勝手に
誰かに墓参りをされるのも実は嫌でした。
自分の家に来られるのも嫌ですが、勝手に墓に行かれるのも
嫌だなと思ってましたが、もう20年も経つと、誰も来なくなってました。

ただ、一人だけずっとそっと命日に花をたむけてくれる方が今がいます。
20年間もう毎年欠かさず。
嬉しい気持ちもありますが、もうあなたも自由になってほしいと思います。(事件関係者でしたが、どちらかというと支援してくれる方で私達の知り合いです)


石のうさぎも20年経つともう壊れてくるかも

私達が「社会活動」をしないわけ

 交通事故や事件で子供を失った親が、何かにすがるように
社会運動をしてる方が多いですが
もちろんそれをまったく否定しません。言っとくけど
気持ちもわかるし、それをやることが「残りの人生を生きていく意味」だったり「生きがい」だったり、「亡くなった子が無意味になるのが嫌」と
思う方がたくさんいると思います。 (全く否定しません。繰り返しますが)

 実は私達も最初は、助けてくれた社会運動のグループに所属して
同じような境遇の方々の支援や力になる事をしていました。
(自分も事件にあってからその方々にかなり助けてもらったのもあります)
保育改善運動とかの集会で講演したり、一緒にロビー運動なども参加していました。

でも、なんかだんだん嫌だなと思ってきたのです

うちの子が無駄死になるのはいやだ

と確かに思います。ただそれ以上に

運動の象徴になるのが嫌だった

というのがあります。
私はその運動の象徴になるためにあの子を産んだわけではありません。
あの子はその為に産まれてきたわけでもありません。
そしてその為に死んだのでもありません。

あの子はあの子の人生があって生まれてきて帰っていっただけです

「保育改善運動」の為に象徴になるのも
誰かの運動の神輿の上に乗って
何かの社会運動の象徴になるのも嫌だと思ったからです。

具体的にそれを感じたのは、
ある大学院生が(保育を専門的に学んでいる方で悪い人でないです。保育の事故撲滅の為に研究してる方でした)
私の所に来てこう言ったからです

「今書いてる論文(保育事故を無くす為の専門的な論文)を必ず書き上げます。そしてそれを多くの人に見てもらって、あなた(息子)の死は
決して無駄にしませんからって誓いました!」

悪気はない。そしてやってることも決して悪くない。
お墓参りをしてくれたのは悪い事ではない。

でも私は思ったのです

「なんであなたが勝手にうちの息子に 何誓ってるんだ?
母親の私に何の断りもなく、そしてそんな事を私の息子に誓うとか
何言ってんの???」

彼女は息子の事故例を論文にして書きたいから
会って話をしてほしいと
言われたと思います。(もう忘れましたが)

多分それを私に言ったら
涙ながらに手を握って
「よろしくお願いします、息子の死を無駄にしないでください!」
いうと思ったんだろうな。きっと。。

私は人が変わったように、鬼のように怒って
「おとといきやがれ、2度と墓参りとか勝手にするんじゃない
私の家にもくるな、論文なんて許可しないし、取材も受けない!」

彼女は私が豹変して怒っているのが全くわからなかったと思います。

息子が無駄死にになって欲しくない 

わかりますが、その死がその事で意味があるとしたら
保育社会活動の為に犠牲になった生贄みたいで嫌だったからです。
生まれてきたのが。

4年しかない命でしたが、私と夫は全力で1分1秒惜しまず愛していましたし
他の子供よりも親と周りの愛情を受けていたのは本当に自信があります。

神様(というのがあるなら)自分が会えた時に喧嘩をしないといけないと思ってますよ。こんなに望まれて愛されてきた子供を選んで連れていくのが
納得がいかない。まあこれはこの時のnoteにも書いてますが。

夫も同じような事故で子供を失った親が 被害撲滅運動とか
活動してるのを知ってます。
そして昨日は酔っ払った勢いで
「ああゆう人たちはその後の人生もあるのにずっと
十字架を背負っていかないとダメなのかあ。
どうして被害を受けた側がそれをしないといけないんだろう?
義務みたいに。
可哀想だと思うのと
自分はそこから逃げてきてしまったから良くないのかな

と言ってました。

私は「違うよ!もう十分やったし、私たちはそこからは解放されてよかったのよ そしてあなたは逃げてないよ!」と答えました。

夫には私は 最初運動に参加するとか、遺族会に参加するとか、
強制も依頼もしてなかったのですが、
いつも私の意志を尊重してくれてました。(参加も離れるのも)

彼も彼でまた自分の喪失について
悲しみについて向き合うことが必要だと思います。

私は社会運動をではない、
この「自分の落とし前」のつけ方の一つとして
写真を使った表現活動をしてます。

まだそれがどのようになるのかは
わかりませんが、コツコツとやっていこうと思うのです。
それはそれで
辛くてキツいものですが、
あの子が「生きた証」をどこかに残す方法を探しているのです。
がとか私達が、とかじゃなく
あなたの息子(娘)」として。

私の息子の死亡事件は信頼する作家の猪熊弘子さんが
ドキュメンタリーとして本にしてくれてます。
どちらかというと
保育活動の一環として、教科書としての専門書なのですが
未来の保育士さんたちに読まれているそうです。
(この件は彼女と一緒にやってくれた弁護団の弁護士が
関係してくれていたので取材協力をしておりました)

 私は読むと辛くなるので家にもありますが
(ほぼ読んでないです。20年も経つのに。)

事件に関して、保育活動に関して、裁判の相手だった市に対して
何の主張もありません。(今は)
あの本を読むと、
自分がどうしてあの状態から助けてあげられなかったのかを
悔やんで死にたくなるから、今でも全部本は読んでないです。
(多分出版前に猪熊さんが見せてくれてその時にかなり読んだと思います)

とりあえず、
生きてますよ。自分が死ぬまで。
写真の作品のことについては次回からまた書きます。

48歳からの写真作家修行中。できるかできないかは、やってみないとわからんよ。