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私にとってのユースワーク:青山 鉄兵|ユースワークキャンプ2023 オープニングセッション③

「共通性と多様性」を全体のコンセプトに掲げた2023年より始まったユースワークキャンプ。オープニングセッションでは、私にとってのユースワークをテーマに両角 達平(日本福祉大学)、津富 宏(元:静岡県立大学 / 現:立教大学)、青山 鉄兵(文教大学)3名の方が登壇し話題提供を行いました。今回は、青山 鉄兵さんによるオープニングセッションの内容を共有します。

動画で視聴されたい方は、YouTubeからどうぞ。以下では、講演内容を整文した内容をお届けします。


自己紹介:大学教員・青少年教育・YMCA・手話・キャンプ

私はふだん文教大学で教員をしていますけれども、専門は社会教育や青少年教育と言われるような学校外の教育学をベースとした領域です。ここオリンピックセンターを運営している国立青少年教育振興機構という文科省の外郭の独立行政法人でも長く仕事をしていて、こども家庭庁の子ども家庭審議会の中で居場所の部会の委員をやっていたりもします。もともとはグループワークに関する歴史研究をやってました。そのほか、大学で学生といろんなことやっていたり、YMCAに長く関わっていていろんなキャンプに関わったり、大学の社会教育主事課程の担当をしたりしています。小さい頃からYMCAのキャンプの参加者で、大学生になったらお兄さんお姉さんみたいなリーダーになるんだと思って育ちました。学生時代には手話に熱中したり、障害の子たちと関わったり、大学の中にある保育園に勝手に突撃して子ども達と遊んだり、色々なことに関わってきたことが今の活動のベースとなっています。
僕からは、お二人の話を受けて、「ユースワーク」という言葉の使われ方に注目してみたいと思っています。特に「ユースワーク」という言葉の使いやすさと使いにくさについて皆さんと共有できればいいな、と思っています。

「ユースワーク」の使いやすさと使いにくさ

まず最初の問題意識としては、僕の日頃の仕事や活動に関わって、僕が見ている景色に名前をつけたいという欲望が昔からずっとありました。それはつまり、私は何をしている人なのかということでもあります。例えば今「ユースワーク」と呼ばれているような分野と自分が繋がったきっかけとしては大きく三つぐらいあるかなと思っているんですが、1つ目はさきほども言ったように小さい頃からYMCAにずっと関わってきたことがあります。YMCAは伝統的かつ総合的な青少年教育団体でして。学校外で子どもや若者と関わりそうな事業は百何十年の歴史の中でだいたいやっている団体ですね。グループ活動がありキャンプがありスポーツや文化活動があり国際交流があり、いろんなボランティアがいて、、、という中で、YMCAは青少年活動のデパート的な団体といえます。活動が始まった150年前は社会の中で随分尖った存在だったと思いますが、今ではすっかり古株の団体になりかつてとはだいぶ状況が変わっています。
2つ目のきっかけは、学生の頃に子どもや若者を対象とした学校外教育を専門に選んだことです。社会教育の現場には公民館や図書館があったり、子どもや若者に関わる施設だと少年自然の家なども含まれます。ここのオリンピックセンターもまさに社会教育施設なんですけど、こういう学校外教育の文脈の中で、でも教育だけにはどう思っても収まらないような、教える/教えられるだけではない関係性の中で、学校外の活動にどんな意味があるかを考えてきました。3つ目のとしては国立青少年教育振興機構で青少年教育に関する行政・施設・団体に関わるようになり、特にここ5年ぐらいは両角さんと一緒に毎年ヨーロッパに行かせてもらって現地のユースワークを視察させてもらっています。
私とユースワークがつながるこれら3つの領域は、かつてはいわゆる「ご近所」の関係性にあったものです。でも、近年では似たようなことをしているのに、横のつながりが全然ないってことの方が「あるある」になっていると思います。その意味で、今日はここにこれだけ色々な立場の人が集まっているのはとても嬉しいことなんですが、行政では、教育委員会が所管してますとか、福祉部門の所管してますとかっていう事情で全然繋がっていなかったり、地域で同じような人が関わっているのに、業界が縦割りにされていて、全体を表す名前がなかなかなかったりするわけです。青少年教育施設の人たちと児童館の人たちの業界は全然違いますし、所管官庁が違うと縁がなかったり、そんなことがいっぱいありました。

これまでの言葉の物足りなさ、これじゃない感じ

というわけで、自分が何をしてる人なのかを説明する言葉の乏しさをずっと感じていたっていう感覚があるんです。これまでの言葉の物足りなさ、これじゃない感というのがずっとあってですね。例えば私の専門を一言でいうと「青少年教育」ということになるんですけど、青少年教育は必ずしも「教育」だけをやっているわけではなくて、福祉的な要素やまちづくり的な要素も多く含むものです。子ども食堂をユースワークと呼ぶかはともかく、子ども食堂の中には、教育、福祉、まちづくりなど、さまざまな要素が混在していますよね。
どうしても「教育」という言葉には上からの指導的なイメージがあります。また、青少年教育の分野は、かつては青年が中心だったんですが、現在は、小学生中心の団体活動や体験活動が中心になっていて、いわゆるユース全体を対象にしづらい言葉になっている状況もあります。
他にもかつては「青少年健全育成」なんていう言葉もよく使われていて、これは教育以外のいろんな分野を含む言葉でした。だけどやっぱり上からの育成のイメージがあるし、そもそも「(大人が決めた)健全って何だよ!」っていうようなツッコミを入れたくなります。
最近では「子ども・若者支援」という言葉が使われることも増えてきましたけれども、ユースが支援される側にいることが前提になっていること自体の違和感はもちろんあるし、それからこの言葉は、20年ぐらい前の若者の就労に関する問題をきっかけに使われるようになったこともあって、対処療法的というかいろんな困ってることに対応していくイメージが強い。でも逆に青少年教育に関わってきた立場から見ると、ユニバーサルな、みんなに開かれた中に、いろんなニーズが包含されていくようなことよりは、一個一個の困りごとに対応するようなものが集まったもののようにも見えていて、それだけでいいんだろうかという感覚もずっとあります。
歴史的には、100年前にボーイスカウトやYMCAやセツルメントなどの活動の中に様々な要素がごちゃごちゃになっている状況から、領域全体が100年かけて、いろんなものが目的的になっていったわけです。「〜のため」の活動が増え、PDCAが重視され、目的があって評価があるような、そういうものがどんどん整備されていって、これは専門性の向上とか制度化とセットで、メリットもいっぱいあるわけですけど、こうした変化の中で失われたものもあるんじゃないかという問題意識もあります。
それから、子ども・若者がどうしてもサービスを受けて与えられる側になり、個人の成長とか治療とか、個人への支援が焦点化される中で、もともとの「青年運動」の中では、青年自身が社会のあり方自体を問い直すことが含まれていたはずなのに、若者もサービスの受け手になり、変化させてあげる対象になる中で、社会のあり方を問う視点が薄くなってきたんじゃないか、という危惧もあります。こうした状況が、現在の領域を表す言葉の物足りなさの背景にあるわけです。

「ユースワーク」という言葉

ユースワークという言葉に出会ったときに「この言葉ならいいんじゃないか?」という感覚を持ったように思います。日本では、「ユースワーク」という言葉が使われた時期がこれまで3つぐらいあります。、最初は1960年代の後半以降に、イギリスで「ユースサービス」に関する施策が進められるなかで、ワーカーのあり方とか、コミュニティのあり方と関わって、ユースワークという言葉が使われるようになります。「ユースワーカー」という言葉も出てきます。その影響で、日本でも1970年ごろに「ユースワーク」とか「ユースワーカー」に言及した文献が出てきます。でもすぐにあまり使われなくなってしまいます。
その後は90年代の後半以降ぐらいに、中高生の居場所、これはいわゆるユースセンターの動きに繋がっていくものですけれども、主に中高生の居場所作りの実践が注目されるようになる中で、「ユースワーク」という言葉が使われるようになります。
さらに2000年代以降になると、先ほどお話があったようなヨーロッパにおける若者政策が紹介される中で、「ユースワーク」という言葉がヨーロッパから再輸入される形で注目されるようになります。
ただ、何をユースワークと呼ぶかは、話題になった時期や文脈によって意味や範囲もかなり違います。近年、特に日本では徐々に認知度が高まってきた一方で、使われる場面の拡大や多様化ということも生んでいますね。だから「ユースワーク的」なものがすごくたくさん広がってるような状況が指摘できるだろうと思います。でも、例えばスウェーデンだと民主主義と余暇との関係が強調されるなど、国や地域によって歴史や文脈が違うということも踏まえておく必要があります。。

「ユースワーク」の使いやすさ:これまでの言葉の物足りなさを埋めてくれる言葉?

ユースワークは現状では使いやすい便利な言葉になっているという感覚があります。これまでの言葉の「物足りなさ」を埋めてくれる言葉として注目されているという面があるのではないかと思っています。
例えば「ユースワーク」っていうことのメリットを挙げてみると、

  • 教育も福祉もそれ以外の領域も包含できる

  • ユニバーサル型とターゲット型の双方を捉えることができる

  • 個人の変化だけじゃなくて、先ほどの民主主義の話のような、社会自体のあり方も問うていくような視点も持つことができる

  • 個人への個別的な支援だけじゃなくて、かつての団体活動のような、集団的な活動や場を作ったり、環境を整えていくような動きも含めた広い働きかけも含めて考えることができる

  • 「青少年教育」の領域では対象が低年齢化して、小学生ぐらいの子ども達が中心になってきた中で、若者の問題や移行期の問題も包含することができる

  • 目的的ではない活動や余暇に注目することができる。

  • ボランティアもプロフェッショナルも含めて、そこに関わる人たちに独自の専門性があることを示すことができる

  • ユースの主体性や権利を尊重した取り組みであることを示すことができる

などが挙げられるのではないか、そして結果として、「ユースワーク」という言葉につながる人たちが100人以上集まるような状況が生じているんだろうと思うわけです。この分野のことや自分たちの関わっていることに名前があることに価値がありますよね。この業界をどう繋ぐか、この分野をどういう言葉で捉えるべきかに苦労してきた立場からすると、自分たちの仕事を表す言葉があることは嬉しいことです。名前があることで、ユースワークの特性について議論できるようになるだけじゃなく、ネットワークの形成とか、ワーカーの質の向上とか、予算の獲得とか、施設の設置とか、社会にこの領域の意義を認めてもらう上でもとても重要なことだろうと思います。

「ユースワーク」の使いにくさ: 「ユースワーク」にさまざまな要素が混在する状況の捉えにくさ

もう一方で「ユースワーク」という言葉の使いにくさも感じることがあります。いろんな要素が混在しているので、例えば、ユースに関わるワークのどこまでを「ユースワーク」と呼べるかは難しいですよね。塾の先生はユースワーカーなのか、学校教員をユースワーカーと呼ぶことは少ないかもしれないけど、部活の指導者や学童の先生はどうか。おそらくユースワークに含めていいと言えるロジックもあるし、そうすべきでないというロジックもあるはずです。このあたりをどう考えるかが難しいところです。
また、ユースワークの主語は誰かという問題もあります。ユースワーカーがすることをユースワークと呼ぶのですか。それともユースがすることをユースワークと呼ぶのか。それとも社会の中での営みを呼ぶんだろうか。
それから「ユースワーク」という言葉を使って、意図的にユースワークをしている人もいれば、ユースワーク的な活動だけどユースワークを名乗ってない人もたくさんいます。結果としてのユースワークもたくさんあるはずで、そのどこまでを射程に収めるのかもとても難しい問題です。
そして、ユースワークに共通の価値観や原理はあるのか、という問題もあります。言葉の使われ方が多様化する中で、言葉の使われ方が混乱しがちな状況もあるように思います。ユースワークが活動のことを指すこともあれば、職業のことを指すこともあります。支援方法とか、いわゆる技法のことを指すこともあれば、もっと理念とかムーブメントみたいな大きな話で出てくることもあります。
便利に使えることも多い一方で、「ユースワーク」という言葉が「ワーク」という言葉の範囲を超えていろんな水準で使われるようになっている中で、使いにくいと感じることもあります、

これからの「ユースワーク」は~ユースワークキャンプへの期待~

いずれにせよ、こうやって「ユースワーク」の名の下に100人が集まったところからまずは始めようじゃないかというのがこの2日間の試みだと思っています。ユースワークっていう言葉でしか語れないものや集まれない人たちがいるんだってことはすごく大事なことですよね。今回、多様性と共通性をテーマにしていますけど、まずは多様な広がりをぜひ大事にしたい。きっと中には相互に矛盾する要素もあるんじゃないかなと思います。ユースの成長を大事にしている人もいれば、成長を期待されることの生きづらさとか、しんどさの方に注目している人たちもいるでしょう。
このキャンプが、欧州ユースワーク大会のようにユースワークの多様性や共通性を見つめ直す二日間になればと思っています。矛盾する要素を抱えつつ、その中で共通の基盤を見出していくことは簡単ではありませんし、「結果としてのユースワーク」をどう取り込んでいくかも重要です。この2日間、まずは多様性を確認して、こういう人たちがユースワークの名のもとに集まっているんだってことを確認すると同時に、スウェーデンの民主主義と余暇の話のような、根底にある「ユースワークらしさ」にもこだわる二日間にしたいと思っています。


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