会議で集まる理由
会議ってなんのためにあるのでしょう?
意思決定なら集まらなくても可能です。
資料などはあらかじめ共有が可能です。
それぞれの判断を伝えるなら、一人で、オンラインでも電話でも手紙でも使えば可能です。
会議は意思決定や判断の共有が目的じゃないのだとわかります。
なぜ、「会議」といって集まるのでしょう?
会議の目的は「集まる」ことなのだろうな、と思います。
スピリチュアル寄りの表現をすると「周波数を合わせる」みたいな感じになるでしょうか。
決定事項を共有するのが目的なら、集まらなくても可能です。
決定までの過程を共有するなら、録画や録音したものを共有すれば可能です。
会議は「集まる」ことに意義があるのでしょう。
その意義はなんなのかがわからないのです。
集まることで「一緒に作り上げた」感覚になることを期待しているのかもしれません。
個別の細胞だったものが集まって一つの生命体をなすような感覚を求めているのかもしれません。
同じ組織のメンバーには、そういうのを求めているのかも。。。
家族も似たような感じでしょうか。
家族だから一緒にいるのか、一緒にいるから家族のようになるのか。
そんな風に考えると「集まる」というのは、特別な意味を持つように思えてきました。
無目的に集まる
とか
目的の異なる人が集まる
と、明確な不快感を感じる理由がわかった気がします。
脳で思考する内容とは違う、皮膚のレベルで、感覚で判断する「違和感」をキャッチするために集まるのですね。
一緒に居られる人間か?
関係性を継続できる人間か?
そういうのを経歴とか実力とか記憶とか感情を抜きにして、「感じ取る」ために集まるのですね。
集まった結果、違和感、不快感を感じる集団からは早めに離れた方が良さそうです。
少なくとも感覚が嫌がってるわけですから。
逆に心地よいと感じる集団で、自分の能力を発揮していきましょう。
満員電車や人混みなどを見ると、感度が下がっていないか、心配になります。
病気や怪我を予防するなら、そういうところに目を向けないといけないのだ、と思っています。
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