数字は嘘をつかないのか?

数字は嘘をつかない。

この言葉にはなんだか怪しい匂いを感じることがある。

「数字は嘘をつかない」と言いながら、自らの「解釈」の正当性を主張する。

数字の意味が共有されているだけで、解釈の正当性とはあまり関係がない。

自分の主張に数字を使うことで、信頼性が高まる場合はある。

時々、数字を混ぜただけの推論を「科学的」と称し、数字は嘘をつかない、みたいな言い方をする人を目にする。

科学的というからには、何かしら実験が行われたのかもしれない。

では、その実験に不備がないと言い切れるかどうか。

ある推論や主張が信頼にたるものかを見極めるには、数字を根拠にしているかどうかではなく、どのような実験方法をしているのかに着目したい。

そして、推論なり主張鳴りを導いた統計的手法にも注意しないといけない。

マスメディアのように大衆に向けてデフォルメした情報を発信する媒体は、その途中経過をすっ飛ばす場合がある。

実験方法や統計処理の妥当性や、それらの結果から導かれた推論に対しての論理よりも、「肩書きや功績」で信頼性を出そうとするのが定石だ。

なぜなら、肩書きや功績の方が手っ取り早く信頼が得られてしまうから。

大衆は考えない。

「これだけの功績の人が言っているのだから嘘じゃないだろう、間違えないだろう。」

そのように情報処理する。

「あの人が言っているのだから間違いない」と。

いや、人は間違う。

大なり小なり間違う可能性は誰にもいつでも、ある。

「だから、嘘をつかない”数字”を根拠にするんじゃないか」そんなふうに言われそうだ。

数字は嘘をつかないのではなくて、数字はその数としての意味以上のものは持たない。

そこに意味を持たせようとするのが推論であり主張であって、数字に嘘も真実もない。

数字には意味があるだけ。

記号なだけ。

数字は嘘をつかない。けれど本当のことも言わない。

その意味をどう解釈するか、がその人の主張であって、そこには真偽というか解釈の違いがある。

ある対象者にとっては真実や真理でも、ある対象者にとっては虚偽になることもある。

何が言いたいかっていうと、数字なんて数字なだけ。

その意味をどう解釈するかっていうのは、それぞれの知性による。

それぞれの人生による。

何も考えない人にとっては数字は関係ない。

誰かが考えた推論や主張に乗っかるだけだから。

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