人間関係における「共感」という課題
人間関係の課題は共感によってクリアできる時もありますが、共感自体が課題の原因となる場合もあるんじゃないか?と思うこの頃です。
例えば、
わかってもらえない
わかってあげられない
そういう思いが「共感の課題」だろうと考えます。
そういう課題は「わかりあいたい」間柄の他者に対して抱くものだろうと感じます。
人は分かり合えるだろうか?
この問いに対して「分かり合えるものだ」という答えを持っている人は、分かり合えない間柄を課題と捉えるでしょう。
「人は分かり合えない」前提で人間関係を構築する人は、分かり合えない間柄を課題とは捉えないかもしれません。
どちらの前提に立つにしても、この社会で生きる以上は人間関係から離れて暮らすのは困難です。
「人は分かり合える」という前提に立ち、人とわかり合うためには、わかってもらう努力とわかろうとする努力の両方が求められます。
「人は分かり合えない」という前提に立ったとしても、この努力は必要になる場面があります。
社会とはそういう場所のようです。
自分のことをわかってもらえなくてもいいから、自分も他者のことをわかろうとしない。
そういう社会生活は無機質なものとなります。
その状況でも生活自体は営めると思いますが、その社会に生きる意味を見出すのは難しいように思います。
やはり、「共感」というのは人間関係の問題に対する解決のヒントにもなるし、原因にもなり得るのでしょう。
共感が求められるのって人間くらいじゃないでしょうかね。
関係性の課題を迎えた場合、改善のためにお互いの努力が求められます。
こちらがどれだけ変化しようとも、相手も変わらない以上はわかりあえっこない。
「他人は変えられない。自分は変えられる。」
というメッセージをよく目にしますが、本当にそうでしょうか?
「他人を変えることはできない」
きっとその通りです。
「自分は他者を変えることができる」という前提に立てば、そこから攻撃が生まれかねません。
それは健全ではないですね。
楽しいわけもないし。
「自分は変えられる」
これは、そうかもしれないけど、呪いになりかねませんね。
誰か他者を責めない代わりに自分を責めてしまうようなものですよね。
自分も責めない
他人も責めない
他者とわかりあえなくても、社会生活を送ることは可能だと思います。
本当はすでに分かり合えている。それに気づいていないだけ。
最近はこんな風に人間関係を考えたりしています。
いつか分かり合える
のではなくて、
もうすでに分かり合えている
けども、その実感が追いついていないだけ。
そんな風に世界を見ようと思っています。
世界は見方次第で、見え方が変わりますから。
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