結論に向かおうとしなくていい
自分自身にもある傾向なのだけど、人は往々にして結論に向かいたがる。
いや、もしかするとそこには性差があるかもしれない。
どこだったかのカフェにいた時、近くのテーブルにいた女性二人組の会話が聞こえたことがあった。
「葱焼きってあるでしょ?」
「あるね。」
「あれ食べる時、ビール飲む?ウーロン茶飲む?」
「ええ~、どっちだろう?ウーロン茶かなあ。」
「私はビール飲むんだよねえ。」
「ああ~、ビールもいいよねえ。」
みたいな種類のやりとりが続いていた。
なにか意味のある会話だったのだろうか?
どんな結論が得られたのだろうか?
不思議でたまらなくて、鮮明に記憶している。ちなみに結論も意味もない会話だったのはいうまでもない。
これは6年くらい前の出来事なのだ。
他にも女性の大先輩から、「女性の友達とはいつまでもしゃべっていられるんです。男の人には無理よね。」といわれたことがある。
たしかに、私は「いつまでも」はしゃべっていられない。
私の父親も「友達のところに遊びに行くけど、1時間もすると話すことなくなるよなあ。女の人って何であんなに話せるんだろうなあ。」と言っていた。
全く同感である。
私の場合は、意味や結論を会話に求めてしまっているみたいだ。
「みたいだ」と書いたのは、それが意識的にと言うよりは無意識的に行われている感じがするからだ。
なんとなしに会話が始まったとする。
話している途中で「で、結局何が言いたいの?」と、相手の話をまとめに入ってしまうようだ。頭の中でしている場合もあるし、声に出ている場合もある。
ところが、相手にはいつも必ず「意味」があるわけでもなく、たどり着きたい「結論」があるわけでもない。
もちろん、批評を求めているのでもない。
それなのに私は勝手に「論理的に考察を始めてしまい、批評をしてしまい」、最悪それを伝えてしまっている。
誰に頼まれたわけでもないのに。
困ったモノだ。
結論が出ない会話と、結論を求めない会話は、おそらく違う。
そして私は結論を求めない会話が苦手なようだ。
話す内容に意味があるのではなく、話している行動そのものに意味があるのだとしたら、聞く側は誰でもいいのでは?つまり私が聞かなくてもいいのでは?と思う。
実際、そうらしい。
聞いてくれさえすれば、誰でもいいケースはあるらしい。
そうじゃないケースと、そうであるケースの違いが私には気付けない。
会話は難しい。
何か結論に向かうのを目的にしている会話があったとする。
それなら容易いか?と言えばそんなことはない。そちらはそちらで困難だ。
発言者それぞれの意見があり、それぞれの正義を語る。それらを1つにまとめるのはハッキリ言って困難だ。
だから、結論や意味のある会話なら歓迎できるかというと、そこまでではないのだ。
私に足りないのは、結論を求めているのであれば結論を急がないで待つ体力かもしれない。
そして、結論に向かわない、特に意味のない会話を味わう体力。
結論にたどり着かないのは、迷子でふらふらしているように感じてしまうからスッキリしないのか。「ブレスト(ブレインストーミング)」とかいう時間が割と苦痛だ。
最近はふらふら漂うのも悪くないなあ、と思えてきたのだけど、議論の場になるとそうでもないみたいで、線を引きたがるようだ。
明確に結論を求められる場でなければ、意味もなく漂ってみたいと思う。
結論に向かおうとしなくても、話したことで結論が生まれる場面にも居合わせたことがある。
それでいいのかもしれない。
それでいいのだ。
結論に向かおうとしなくていいのだ。
結論は自ずと現れるのだ。
たぶん。
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