自分以外の誰かに決められるから、疲れてしまう
日頃から「自由に考えよう」、「自由に行動しよう」といった内容で発信しているつもりです。
自ら集めた情報と思考によって決断した行動がとれるように努めていますし、そういう人が増えて欲しいし、そういう人と仲良くしたいと思っています。
こんな風に「自由に」っていうことを定義してはいるのだけど、このウイルス感染騒ぎで、ちょっと思うところがあります。
政府および知事らといった首長が「外出の自粛」を呼びかけています。
もちろん「感染者が増えないように」という狙いがあってのことです。
ここで、「自粛の要請があるから」という理由で自粛を選択し、家にこもるとどうなるのでしょう?
それがストレスとなり、「自粛疲れ」とかいうわけのわからない言葉が生まれます。
自粛の要請があるから自粛する、というのは私から言えば「自由を奪われている」と言えます。
しかし、自由を履き違えないで欲しいのです。
私のいう「自由」は好き勝手に、自分勝手に、自分さえ良ければいい、という言動をすべきとは、微塵も考えていません。
自分で調べて、情報を精査して、「可能な限り誤りのない」決断をするのは大前提なのです。
人は社会的な生き物で、他者との関係性の上で自らの生命が成り立っています。
他者の存在を脅かす言動は、自分自身のためになりません。
自分勝手な発言や行動は、自分を苦しめ、自分の周囲を苦しめるのです。
情報を精査して、可能な限り誤りのないような選択をすれば、「感染が増えている地域に暮らしていた人間が、感染者の少ない地域に移動する」ことや、「感染者が増えている地域に移動する」ことはそうそう起きないように思います。
メディアを見ていると
「自分は年齢的に感染しない」
「自分は感染しても重症化しない」
といった「誤った解釈をする」人が目につきます。
この人たちは「自由」を履き違えています。
また、
「感染が怖いけど、出社しないといけないから」
といって、これまでと同じように通勤をしている人もいるようです。
個人の意思や選択が通らない状況なのでしょうか。
経営者の判断なのでしょうか。
どちらにしても「自由な決断」を放棄しています。
なぜ自らの自由を放棄せざるを得ないのか。
その本質的ない部分は、きっと簡単には説明できないと思われます。
過去のあらゆる選択の結果が現在で、現在の選択の結果が未来になります。
過去のような未来にするのかどうかは、現在が決められます。
明日も昨日と同じで良ければ、特にやることはないでしょう。
私の予想では、これまでと同じような世界には戻らないと思います。
これだけ大きな出来事があったのに、世界が「改良」しないわけないです。
これまでとは違う新しい世界を生きる、と受け入れ
自らの意思と判断によって行動する
と決められた人は自粛疲れなんて感じないと思います。
自粛疲れとかいう言葉で言い訳して、政府や行政にやらされている感を漂わせずに、自らの意思と判断で「可能な限り誤りのない」行動ができる人が増えて欲しい。
「自由」は「楽」ではないです。
けれど「不自由」よりは楽しいものだと思います。