複雑と簡単、部分と全体
複雑なあれこれは細かく分解していくと、解決につながるっていう考え方はデカルトさんでしたっけ?
細かく分解していくことで、複雑だった問題から解釈可能な事柄をひろえてくるってことなのでしょうか?(「複雑」から「簡単」へ)
それは一理あるとは思う。
構造的に理解する時に細分化は1つの手段になり得るだろう。書籍とかでも進められている問題解決のやり方じゃないかな。
けれど、忘れないでおきたいのは「分解した時点で元のものとは別物になってしまう」という点だ。
集団(組織)も、モノも、もちろん人も。
人間の動きが複雑だから、バラバラにして調べてみた。調べ終わったからそれぞれをつないでみた。
それで元の人間と同じ動きができるかどうか?できない。
そんなの当たり前だ、とみんな思う。
当たり前だ。
でも、それに近いことは医学で行われているし、何かの方針とかを決める時にも行われる。
部分最適は全体の最適化につながらないのじゃないか?と思っている。
部分にして理解しようとした時点で全体には戻らない。
全体は全体で取り扱わないといけないのだと思う。
木を見て森を見ない、みたいな表現と同じか。
医療系国家資格を取るための勉強をして、医療機関に13年位勤務して、出来得る限り論文などから情報を入れ、噂レベルも含めて様々な情報に触れていても医療のことはよくわからない…。深く深く細分化していき、もはや全体像がどうなっているかわからない蟻の巣みたいに複雑だ。立体的に複雑だ…
— フクダ (@ffk_kdd) June 3, 2021
今、大きな病院に行ってみると細分化がすごい。●●科と名前がついていて、時に患者はウォークラリーやお遍路さんのように巡回する。
論文を読んでもそう思う。
細分化された診療科で密に連絡が取れていたら、その患者は快方に向かうのだろうか?わからない。
部分がよくなることで全体もよくなるのだろうか?
わからない。
そうは言っても細分化した結果、わかってきたことはたくさんある。
遺伝子なんてものもわかってきた。
で、どうなった?
全体にどのような利点があったか、その議論は難しい。
何らかの見方、視点を持つことでそれは「部分」になるだろうから。
全体だからいいのだ、部分はダメなのだ、とは思っていない。
二項対立構造は理解しやすいけど、本質がぼけることがある。
「西洋医学は部分や局所しか見ない。その点、東洋医学は全体を見る。だから素晴らしい」みたいな論調に触れた時、「おお~~」と思った。
東洋医学に興味を持って、いろいろ調べた。対症療法と今治療法の違いも学んだ。
構造は西洋も東洋も変わらなかった。
(私の勉強が足りないのは認めます。わかったようなことを言ってすいません。)
つまり、「どっちだからいい」みたいな考え自体に限界があるのだろう。
分解した時にもう全体とは違うモノを扱っているという自覚があればいい。
全体を語る時は、部分とは違う価値観で語れたらいい。
難しいと思う。
でも、体や命を扱ったり、集団のリーダーになるような人や、とにかく問題と真剣に向き合っている人なら、そういう葛藤というか壁にぶつかっているんじゃないだろうか。
昨今の感染症のこともそうだけど、大きい視野と小さい視野を行き来できたらいいのだな、と思う。
そして、「今、自分が(相手が)論じている立場」が理解できるといいのだな、と思う。
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