くちびるが離れた後で
久しぶりの出張の帰途。
久しぶりの新幹線。
新大阪から上り方面。
水滴のついた車両がゆっくりとホームに入ってくる。
金曜日の夕方なのにずいぶん空いている。この時間の自由席で二席を一人で使えたことは今までなかったような気がする。
さっきまで強く降っていた雨は止んで曇り空だったけど、京都を過ぎたころから西側の空が少しだけ明るくなって、色を失っていた空に僅かな彩度が加わっていた。ずいぶん妙な動きをする台風だけど、もしかしたら逸れるのかも。夕焼けとまでは到底言えない、グレーの雲にほんの一滴のピンクをこぼして混ぜたような空の色。
この空の色は、あの時の空の色に近いかな。忘れかけていたほんの些細なことを思い出していた。
長野冬季オリンピックの準備に忙しかった頃だから、二十数年も前のこと。社会人になって二年目か三年目の秋だった。
久しぶりの休日。前の日も深夜まで仕事だったので昼過ぎにようやく起床した。風呂に入って、ありものを腹に入れて、いつものように大きめの書店に本を漁りに行くことにした。本屋巡りが休日の大事なtodoであることは今も変わらない。
後ろめたくなるような書棚を見ていなくてよかったと思ったのはぽんと肩をたたかれたとき。
---松江くん---
名前を君付けで呼ばれてどきっとする。同じ職場で勤めているKさんだった。彼女は僕と同じ歳だけど高卒で入社しているうえ、僕は一年余計に大学に通ったので五年も先輩にあたる。職場では敬語で会話するけれど、年齢が同じことは互いに知っているので、会社のドアを出れば軽口もたたくような間柄だった。でもプライベートで会ったのはこれが初めてで、そしてこれが最後になった。背が小さくて童顔で誰にでも好かれていた。
よく来るのとか何読むのとか、だいぶ話が弾んでしまったのでどこかでコーヒーでも、ということになって、そうしたら連れて行きたいところがあるというから、彼女のクルマで少しドライブすることになった。中古のホンダシティの助手席は僕には少し狭かったけど退屈な午後を過ごすはずが女の子とドライブなんて、ずいぶんと華やかなものになったのでうれしかった。降っていた雨が止んだのを覚えているのは、走り出して大きな音がきゅっと鳴るワイパーの音で二人とも笑ってしまったから。
彼女が行きたいと言ったのは、ぼくたちの住んでいる街を見下ろすことのできる高台にある公園だった。クルマを降りて五分も歩くと、展望台があってそこから西側に広がるのが、ぼくたちが暮らし、つつましく働いている街だった。
雨は上がっていたけれど雲はまだ切れず、空は色を持たず、街には少し霧も巻いていた。
---わたしね。会社やめるんだ---
Kさんは街の方を遠く眺めながら笑顔でそう言った。僕じゃなくてまるでこの街に向かって決意表明しているみたいだった。
---結婚するの。いいでしょ---
今度は真顔で、僕の方に向き直って、そう言った。
---へえ、それはうらやましいなあ。おめでとう---
---うん。ありがとう---
間の抜けた祝辞を述べた後、しばらくは街の方角にふたりとも目を向けていたけど僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。雲は少しずつ薄くなってきているのか、西の空には明るさと色が少しだけ戻っていた。
---じゃあ、最後だしキスしよか---
Kさんはピンク色が少しだけにじんだ空を眺めたまま、そう言った。
あの時の出来事にお互いにどんな意味があったかわからない。彼女がどんなことを考えていたのか、想像すれば色んなことが思いつくけど、どれも正解じゃないような気がする。
あの時、離れた後の薄くひらいたくちびるが何と言いたかったのか、今となってはきっと彼女もわからないだろう。
もう僕は誰からも君付けで呼ばれることはなくなった。あれから二十年以上の年月が経っていた。今日の新幹線からの空を眺めていたら、あの時の空と彼女の声を思い出していた。
気付けば外は真っ黒な夜になっていた。また強い雨も降り出して、車窓を真横に雨粒が流れていた。台風は逸れそうだけど前線を刺激するのか明日も天気は良くはならないみたいだ。
新幹線は名古屋駅にゆっくりと滑り込んでいた。