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令和の空
小さい頃は街に出ると、片手や片足のない人を見かけることはよくあった。戦争という言葉の意味するところは少しも知らなかったけど、そういう名前の出来事があったせいでこのおじさんは手や足を失ったのだということは、なんとなく分かっていたかもしれない。
僕が幼年期を過ごしたのは昭和四十年代の終わりから五十年代にかけてだから、当然世の中からは戦争の色などとうの昔に消え去っていたが、よくよく考えてみればその頃はまだ終戦からわずかに三十年しか経っていない。戦で身体や心に損傷を負った方々が、普通に生活していたのは当たり前のことだ。平成が三十一年でそのバトンを令和に渡すことになったことを考えると、三十年とは長いようでいてとても短い。昭和から平成に切り替わったことだって、言い過ぎと思われるかもしれないけど、つい最近と感じている。令和三十年から今の世の中を見たらどんな風に見えるだろう。
その時代に生きている人が、その記憶を保っているうちは、まだ「つい最近」の出来事として捉えられるのだろうが、実際の記憶を持つ人がいなくなると、たちまちそれは教科書や書物で紐解かれる歴史上の出来事になってしまう。二十一世紀になってから生を受けた方からすれば、太平洋戦争など関ヶ原の合戦と同じく歴史の一イベントに過ぎないのかもしれない。
だから語り継いでいかなければならない、などと思い上がったことを言うつもりもない。僕が知っている戦争など、手足のないちょっと怖そうなおじさんを街で見かけた程度のことで、知っているうちにはとても入らないだろう。所詮そんな世代なのだ。
ただ時折思う。あの昭和の浮かれた雰囲気の中で、猛烈に働きまくって誰もが懸命に幸せを求めていた空気の中で、あの手足のないおじさんたちはどんな風に世の中を感じ、どんな空を眺めていたのだろうと。
今では街で戦争傷病者に出会うようなことはまずない。もう終戦から七十六年経つのだから。あのおじさんたちの年齢に多分近づいている僕は、今日も令和の空を眺めて時の流れの早さに思いをはせる。