見出し画像

大チルは希望の星

大チルは希望の星だと古事記にも書かれているように、大チルを処方すると精神病が幾分回復すると医学典範にも記述があるように、古代の昔(二重表現)から大チルは人々に未来への道筋を与えるきわめて神聖なものであった。

そんな大妖精とチルノのカップリング、大チルだが、避けては通れない議論がある。それは、大チルは友情なのか、百合なのかという問題だ。

友情ならば、無邪気なチルノと、少し大人びていて――それでも妖精らしく快活な大妖精(心配性であったり、お母さん属性があったりと、微妙な差異はある)。チルノが後先考えずに大妖精を振り回しながら、日常を過ごしたり、不思議な出来事に遭遇したり、幻想郷の住人と出会ったりなんて話が一般的であろうか。

一方百合ならば、もちろん純愛もあることはあるが、少々友情のそれとは趣が異なる。すなわち、大妖精がチルノが若干引き気味になるほどに愛しすぎている、という設定でしばしば描かれているのだ。これは、大妖精は妖精の中では博識で落ち着いている、という世間に対してのアンチテーゼであると、ドイツの哲学者ヘーゲルは著書の中で述べている。

相反する互いの主張は、むろん大きな論争を呼んだ。太古の昔から学者たちは両派閥に別れ、毎年シンポジウムで議論を戦わせている。また、一部の先鋭化した集団が、自身の主張するシチュエーションの同人誌を、ヘリコプターから大量にばらまくというテロ行為は、人々を歓喜と絶望の淵へ叩き込んだ。

画像1

私がTwitterで投票を行ったところ、大変大きな反響をいただいた。若干友情がマジョリティだが、それでもこの問題は、スンナ派対シーア派、きのこたけのこ論争と共に、社会に大きな分断を生み出している。

そんな中で、私は主張したい。

……どちらも、すばらしい。

雑食派の私から言わせてもらうと、ステーキを食べた後には焼肉も食べたくなるのだ。どうして争う必要があるのか。お互い手を取り合い、新たな文化に触れてみる。それが多文化共生社会に生きる私たちの責務なのではないだろうか。


また、第三の概念として、「百合よりの友情」というものもある。大妖精が心の中ではチルノを慕っているものの、そんなこと言いだせるわけもなく、それでも先に示したように、チルノと日常を過ごすという設定の話である。このくらいのゆるゆりであれば、受け入れられる人間も増えるだろう。これこそまさに、アウフヘーベンによって生み出されたジンテーゼの最たる例ではないだろうか。(カタカナ言いたかっただけ)


というわけで、大チルはどんなシチュエーションでも最高ですよ!見てね!ピクシブ検索してね!!という話でした。なお、文中の話は全てフィクションで、外の世界に実在する人、モノとは一切関係ありません、念のため。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?