七五三、涙と祖父と映えスポット【Edge Rank 1152】
七五三の写真を見ると、兄弟のうちの誰かが泣いている写真ばかりだった。2つ上(学年では3つ上)の兄、私、2つ下の弟の三兄弟。幼い兄が泣いているもの、兄は笑顔で私が泣いているもの、私が笑顔で弟が泣いているもの、それらの組み合わせのもの。誰かが泣かないと七五三とは呼べないのではないかと思うほどに、必ず誰か一人が泣いていた。もちろん、全員笑顔の写真もある。
気になって母に聞いてみると、すべてとは言わないが祖父が原因だとわかった。このあと、祖父の悪口のような文章が続くので、あらかじめ断っておくと、祖父のことは大好きで、ちゃんと写真に残しておいてくれたことに感謝している。
国鉄(現JR)で働いていた祖父は時間に厳格で、予定通りに進まないと気が気ではなくなってしまう人だった。もっと言えば、予定の1時間前には準備を済ませて会場に到着しているような人だった。祖母からはせっかちすぎると叱られていたが、それでも祖父は自分だけでも先に会場へ行ってしまうような人だった。
そんな祖父からすれば、五歳であろうが関係なかった。「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」「そこに立ってこっちを向きなさい」と、段取り優先で進めていき、子どもが泣いていようが関係なく、撮るべきところで写真を撮ることの方が大事だったのだ。
だから、子どもたちの誰かが泣いている。大抵は主役だ。当然である。主役こそが祖父の管理対象だったのだから。祖父も泣かせたくはなかっただろうが、収めるべき瞬間は絶対の絶対だったのだ。
正直、自分の七五三の記憶はほとんどないのだが、「飴」があまり好きではなかったことは覚えている。おそらく、千歳飴をもらっても何も嬉しくなかったのではないかと推察している。
そして、なぜか境内にあった馬の像に乗せたがっていたらしく、高いところに持ち上げて乗せていたことが写真からわかる。そしてほぼ必ずそこで泣いている。もしかしたら、あの馬の像さえなければ全員笑顔で終えられていたかもしれないが、3回とも必ず乗せたところを見ると、祖父の中では譲れない「映えスポット」だったのだろう。おかげで兄、私、弟の全員の袴姿が、しっかりと「映えスポット」に残っている。
泣いている写真もたくさんあり、ほとんど記憶に残っていないけれど、祖父のおかげで振り返ることができる。当時の泣いている私に「楽しい?」と聞いたら何と答えるだろうか。そんなことを考えながら、大人になってから好きになった飴を舐めつつ、この文章を書いた。