センセイのいないコーヒー会
ゆるコーヒー会は、茶会のようなものです。自分の淹れ方をみんなの前で披露する。有名なカフェマスターや、センセイになるような人はめったに来ません(というか、基本的にNGの方向です。参加の場合は事前にかなり話し込みます)。コーヒー好きたちが試行錯誤して自分なりにおいしいと思えるコーヒーを淹れる人たちが、集まってきます。
さて、この状態を「つまんない」と形容する人が多くいらっしゃいます。
想像性がないな、と私は思います。
豆と水は同じ条件。から想像できないのか
使う豆と水は同じ条件で、道具と淹れる人が違います。みんなそれぞれが「おいしい」と思っているポイントを出すわけですから、「おいしい」の共通点が自然とわかるはず。それぞれのポイント(=香味)はどういう淹れ方をしたのかを観察していれば、「どう出すか?」すらつかめるはず。
そういう想像をしてみると、参加者が多ければ多いほど、たくさんのドリップパターンを見れば見るほど、自分の潜在意識の中にはいろいろな情報をインプットできているわけで。これは自分のドリップの創造性につながり、思わぬ香味を引き出す引き出しに化けます。
それって「つまんない」ことなんですか?
参加者はすべて無名。見るところはそこじゃない。
おいしいコーヒーを淹れてもらう。ゆるく楽しむ。だから有名な人がくると緊張するし、「それだけ」になってしまう。見なければいけないことを、見なくなる。初心者はなおさら委縮する。委縮するところに楽しさなどない。整えるべきはリラックスできる環境。参加者すべてを公平に扱う姿勢。
「わたしはまだまだ」という参加者が多数。しかし、その人たちの腕は、街のカフェのマスターたちよりもはるかにおいしいコーヒーを淹れています。
公平の環境が整ったら、次は参加者自らが自らに公平にならなければならなくなる。「私は無名だから」「初心者だから」「へただから」。誰かに言われたのかもしれない。勝手に決めたことなのかもしれない。しかし、コーヒーを淹れる、という以外でそういう決めつけは不要。むしろじゃまになって、いつものコーヒーにならない。
リラックスしてきて、自分なりの淹れ方を達成すると、ほっとする人が多い。けど、その結果を飲んでみると、おいしいことが多い。香味の出方は十人十色。とくにおいしいところを覚えておくと、自分の次のドリップに活かせる。どれを採用するのも自由。特定の人に言われるがまま、自分で考えないコーヒーと違うところは、伸びしろを自分が自由に設定できるところ。そのきっかけはひとりひとりの参加者が、少しずつ出し合っている、というのがゆるコーヒー会の世界観です。