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あるPRライターが独立するまでに17年間やってきたこと
大手電機会社グループでのライターキャリアスタート
私のキャリアは、大手電機メーカーの取扱説明書を作成する関連会社でテクニカルライター兼ディレクターとしてスタートしました。最初は、製品マニュアルやカタログの作成を担当し、社内外の調整業務を行いながら、ディレクターとしての経験を積んでいきました。この時期、製品の使い方を正確に伝えるためのライティングスキルと、いかに効率的に制作を進めるかというディレクションスキルを磨いていきました。
その後、グループ内での合併により、広告会社と一緒に仕事をすることになりました。そこで広告の世界と出会い、コピーライターとしての仕事に強い憧れを抱くようになりました。宣伝会議社のコピーライター養成講座に通い、「金の鉛筆」を何度かいただくことができたものの、社内事情によりコピーライターとしてのキャリアを築くことは叶わず、ディレクター業務に専念することになりました。
その後、転職の機会があり、超大手の広告会社に転職できたことにより、広告業界の現場に足を踏み入れることができました。この転職により、広告制作の現場でディレクション業務を行う機会を得て、さらにスキルを磨きました。
広告業界への憧れと現実—あさイチto終電ディレクションと営業業務
広告業界において、私は営業担当としてディレクター業務を実施しました。特に、10億円規模の大規模プロジェクトに関わった経験は私のキャリアにおいて大きな意味を持っています。このプロジェクトでは、クライアントとの信頼関係を築き、納期や予算を守りながら、クオリティの高い広告を提供するために尽力しました。
さらに、20人を超えるチームとクライアントとのコミュニケーションを取りながら、駆け引きに苦しみながらも、貴重な学びを得ました。特に、チーム内の調整やクライアントの要望にどう応えるかという部分で、営業担当としてだけでなく、ディレクターとしての視点が重要であることを実感しました。チームの調整、クライアントとの交渉、予算管理など、ディレクションの全体を俯瞰して進める力を養いました。
入社と同時にいきなり10億円規模のプロジェクトで数十人のチームでサブリーダー的に立ち回る環境に放り込まれ、毎朝5時起きで終電までという毎日。徹夜や新橋から横浜の自宅へタクシーで帰る経験など、慣れない生活の中で全部がうまくできたとは思いませんが、いくつか(金額的にはそこそこ大きく)貢献できた部分もありました。精神的な負担は大きかったですが、大抵なことでは驚かなくなるなど、その後のキャリアで大きく活かされています。
次は他社の広告を作ることでなく自社広報としてのキャリアを選択
次に挑戦したのは、他社の広告を作ることではなく、自社広報としてのキャリアを選択することでした。2012年に入社した地元横浜の保育士専門の人材会社では、自社の広報宣伝を担当し、ホームページやSNSでの広報活動における戦略立案と、サイト制作の実務などを行いました。求人サイトやコーポレートサイトなど、合計で10ページ以上のディレクション、さらにFacebookページも30ページほど立ち上げを行いました。
並行して、自社でWEBマガジンを立ち上げ、編集長として横浜市内の子育て支援や女性向け情報を発信するメディアとして1,300件の記事を発行しました。月間PVは10万越えを達成し、Facebookページのファン数は1万越えに育て上げるプロジェクトを主導しました。
毎日、会社の誰よりも早く出社し、遅くまで残る生活を送りながら、さらに自社プレスリリースの作成を指示されることになりました。生まれて初めて書いたプレスリリースで、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」の取材を獲得したことは、自分でも驚きました。この経験は、今でも私の鉄板ネタとして、クライアントや周囲に語らせていただいています。
ディレクターからPRライターへ—2015年10月独立の決意
これまでの経験、中でも一貫して続けてきたライターとして17年続けてきた経験を活かして独立することを考えたのです。2015年10月に「PRライター」として独立し、プレスリリース代行を主な業務としてスタートしました。ライティングのスキルを活かし、クライアントのメッセージを形にすることができる仕事に魅力を感じ、私はこの道を選びました。
広報担当として過ごした会社では、ウェブサイトやSNS、そして自社ブランドのウェブメディアでの編集長として幅広い経験をさせていただきましたが、初めて書いたプレスリリースで社長ならだれでも出たい番組の取材が来たことは多くの起業家の興味をいただき、HP制作でなく、プレスリリースを前面に出してPRのお仕事をいただくことに決めたのです。
実際に独立してからは、主にプレスリリース代行を行い、多くの企業に対して自社の魅力を最大限に引き出すためのライティングを提供してきました。ライティングにおいては、企業や商品への想いを、マスコミ向けに翻訳して伝えることを意識し、起業初年度に複数のテレビ・新聞掲載で実績を出すことに成功しました。
2024年、メディアPRの限界を感じ、次のステップへ
それから9年、2024年にはプレスリリース代行総数が180本を超えましたが、次第にマスコミ向けのメディアPRだけでは事業において窮屈さを感じています。理由はいくつかあります。まず、コロナ過を経て、PR業界が盛り上がってきたこともあり、5年前までは一日100件もなかったPRTIMESでのプレスリリースが、今となっては一日1,000件を超え、レッドオーシャンの過当競争に巻き込まれていること。また、一般人のマスコミ離れが一層進んでおり、お客様がテレビ出演したとしても「何も起こらない」「誰も観ていない」ということが起こりやすくなってきたことが顕著になってきています。
そこで、起業初期に立ち返り、広報活動、特に自分で立ち上げた会社、合同会社ユアブランディングの名前にも入れている、ブランディング領域に立ち戻る原点回帰を真剣に考え始めています。
ここまでが私が2015年10月に独立起業するまでのストーリーです。独立してからのストーリーは別のnoteにまとめます。