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Colony -プロローグ-

第一話 序章


三好という男と初めてあった日の夜を、私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
細身でブランドのスーツが良く似合う背格好。
皺ひとつないシャツに、黒いネクタイがきっちり結ばれている。
真っ黒なネクタイには、よく見ると蝶の刺繍が同じ色で施されていた。
時々光に反射して、糸に使われているラメが控えめに輝きを放つ。
色白で整った容姿を、一本に結んだ長い黒髪が引き立てる。
どうみても、個人経営の小さな居酒屋では悪目立ちしていた。
常連の多いこの店で、多方面から視線が集まっても、本人は何も気にせず私の隣にそっと腰を下ろした。

「随分思いつめた顔をしていらっしゃいますね。」

心身ともに疲労で塞ぎ込んでいた私に、彼は平然と話しかける。
正直、今日は誰とも話す気がなかった。
ただ黙って飲んで、現実から目を反らしたい。
そう思ってこの店を訪れていた私には、少々彼の存在は厄介だった。

私は自分の人生を、やり直したいと考えたことが幾度かある。
けれどいつも思うばかりで、何か実行に移すわけでもない。
他人に良い様に使われて、簡単に捨てられる。
お人好しと表現されるこの性格は、便宜上そういわれているだけ。
本当はただ自分の意見を強く言うことが出来ない、弱腰な姿勢を馬鹿にされているのだ。
現に今も、面倒くさいと思いながら、隣に座ったよくわからない人間と酒を飲むことを断れない。
強いものの餌食になって、ボロボロになりながら生きなければいけない自分に、果たして価値はあるのだろうか。

「折角独り者に戻ったのに、そんな浮かない顔をしているのは勿体ないですよ。」

私が驚いて視線を向けると、彼はにこりと笑ったまま自分の左手の薬指をさしてサインをしてみせる。
指輪の日焼け跡が残った私の指を見て気付いたのだろう。
苦笑いを浮かべて、飲んでいた梅酒に再び口をつけた。
口の中に広がるアルコールが、胸の中にこびりついた苦い思い出を掻き立てていく。

3か月前、私は十年を共に過ごした妻と離婚した。
始まりも終わりも、彼女の自己都合。
振り回され、ゴミのように捨てられた。
全てを奪われた私に、残ったものはなにもない。

「久しぶりなもんで、自分の為にどう時間をつかったらいいのか、わからないんです」

ロックグラスの中で浮かんだ氷が、小さく軽快な音を立てた。
私の手元には、今なにもない。
家族を失い、職も失い、生きる気力も失った。
明日の事を考える余力すらない中で、この現実から少しでも逃げたくなった私は、酒に溺れた。

「貴方、給仕の仕事に興味はありませんか?」

しばらく他愛のない話を続けていると、彼は唐突に言った。
店内は徐々に人がいなくなり、気付けば残されたのは私たち二人だけ。
静かな空間に、頭上で回る空調の音だけが雑音として響いている。

「給仕・・・?」

今までも接客業に携わってきた。
他人と話すこと自体は嫌ではないし、特質した資格もない私には、それ位しかできることが無かったからだ。
けれどホテルや飲食店で働いた経験はない。
寧ろこれまでの短い間の会話で、何を思って彼は私を誘っているのだろう。
いまいち状況が理解できず困惑する私に、彼は簡単に条件を提示した。

「仕事は入居している皆様への給仕。部屋が用意されているので住み込みで働いて頂きます。報酬はたっぷりと」

一瞬、心が揺らぐ。
職を失って一週間が経った私は、再就職がいつ決まるか、不安になっていたからだ。
仕事も手に入り住むところも与えられる。
今の私にとっては申し分のない条件だ。
しかし同時に、その仕事を始めたら逃げ場が無くなることにもなる。
頼れる親族はいないし、家族の存在も散り散りになってしまった。
さっき会ったばかりの、よく知りもしないこの男の誘いに、簡単に乗ってもいいのだろうか。
騙されて怪しいことに巻き込まれることになるかもしれない。
沢山の不安が、次々に頭の中をよぎっていく。
けれど自分の置かれている状況を振り返れば、怖気づいている暇はなかった。
どうせ明日の事まで考えられないのなら、きっと一週間先、一ヶ月、その先の未来までなんて考えられるはずがない。

「もちろん今すぐに決めろとは言いません。一週間、よく考えてください。」

そういって彼は胸ポケットから取り出したメモに、自分の名前と連絡先をかいて私に差し出した。
閉店間際の店内に、控えめな音量のアン・ルイスが流れ始める。
店主が客に店を閉める合図として流しているものだ。
彼はそっと席から立ち上がると、会計を済ませ、私に軽く会釈をした後店から姿を消した。

手の中に残ったメモを握りしめた私は、複雑な心境を整理するために、冷たい水を一気に喉へ流し込んだ。
キンッとした痛みが、前頭葉に電流のように走る。
その痛みのおかげで、さっきまで変に臆病になっていた自分を振り切ることができた。
悩んでいても人生は何も変わらないことは、自分でもよくわかっている。
これ以上、私が失うものはなにもない。
テーブルに持っていた一万円札を置いて、私は足早に店を出ると、闇に消えた彼の後ろ姿を懸命に探した。