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首里城うちなー万華鏡

島ホッパー (88年生まれ 糸満市出身)

「あっがいたんでぃ! まだやってるわけこのニュース。もういいよ!」
首里城が火災によって焼失して数日後、父はテレビを見ながらこう呟いた。
首里の人の落胆・悲しみにフォーカスしたメディアからは感じとれなかった反応。もうひとつのリアルな沖縄の声を聞いたような衝撃だった。

 父は宮古島出身。そして私は本島南部の出身だ。
 子供の頃、父に首里城へ連れて行ってもらった思い出がうっすらとある。首里城正殿が復元され、数年後のことだ。出来立てほやほやの首里城の中は暗く、幼い私にはお化け屋敷のような雰囲気に感じられた。「なんでおとーはこんなところつれて来たわけ?」そんな気持ちでいっぱいだった。
 そんな困惑顔の私に、父はこう語りかける。「おーきーさーね!このお城は宮古とか八重山の人を苦しめた圧政の象徴だからね。こんなー豪華に見せることで自分たちは力あるよーって示したわけ。」
 子供に言わんでもいいのにと思わないでもない。けれど、その時初めて「沖縄県」という言葉では表現できない「琉球王国」の歴史をかすかに感じとった。「沖縄」と一言では片付けられない多様性を、人生で初めて知ったのだった。

 この”出会い”によって、首里城はお化け屋敷から「沖縄の人の万華鏡」へと変わった。「首里城はウチナーンチュの宝である」などと紋切り型にはもう語れない。それぞれの育った文化圏を色濃く反映し、見る人によって景色が変わる、そんな不思議な存在になった。

 社会人生活の忙しさで忘れかけていたこの思い出が、火災を伝えるテレビを見ながら蘇ってきた。龍潭に出向き、焼けた首里城に手を合わせ泣く人。家でテレビを見ながら「どうでもいい」と話す父のような人。それぞれ方向性の違うウチナーンチュの姿を、短期間で、これでもか! と見せられた。

 でも、私自身に首里城がどう見えているのか、正直迷子である。
 歴史を知ることができる貴重な場所だとは思っている。でも一方で、再建が進む中耳にする「平和の象徴・首里城の再建!」「ウチナーンチュの悲願! 首里城再建のイマ」などという言葉に、この4年間、私の心はずっとムズムズしている。「”沖縄の人の悲願“ってじゅんにだーるば?」「ウチナーンチュの内心ってそんなに画一的だば?」と。万華鏡として沖縄の多様性を教えてくれた存在が、いつの間にか、自分が立っていた「ウチナーンチュポジション」を否定して、無視して、「私ここにいていいんだっけ」と戸惑いを感じさせるものに変貌してしまった。そんなふうに感じるのだ。
 (加えていうと、再建を「復興」と呼んでいることもモヤモヤを増大させている。「復興」という言葉は、どうしても自然災害や戦災からの回復をイメージさせる。首里城焼失はそのいずれでもない。なんだか「しょうがないことが起こった。ウチナーンチュみんなで前に進みましょうね〜」と火災の責任を有耶無耶にして、ウチナーンチュの内心を無理くりまとめ上げているような感じがするのだ。)
 

 いま、首里の丘には、工場のような巨大な建物が登場し、内部ではかつての姿を取り戻そうと着々と再建工事が続いている。あの火災の日、住んでいた那覇のマンションから見た黒い煙は、ぼんやりとした記憶になった。
同じ場所に、同じ朱色の建物が姿を現したとき、そこに私は琉球の歴史を感じるのだろうか。はたまたモヤモヤを残し続けたまま少し濁った景色を見るのだろうか。

 “新しい万華鏡“に私は何を見るのだろうか。
 “新しい首里城”にあなたは何を見るのだろうか。


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