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「アメリカ世」を感じるとき 〜あなたの沖縄 アンケート企画〜

 いよいよ明日、2022年5月15日に本土復帰50年を迎えます。復帰を経験していない90年代生まれの私たちにとって、「本土復帰」は一見遠い出来事のように感じられます。しかし、私たちが生きる現在は、過去の出来事と繋がっています。復帰は本当に私たちにとって遠い出来事なのでしょうか。  
 
 「あなたの沖縄」で大切にしていることは、個人的な体験を通して自分の言葉で沖縄の姿を描くことです。復帰や米軍統治時代についても、個人的な体験を通して自分たちに関係のある出来事として捉えたい。そういう思いで、今回は「アメリカ世(米軍統治時代)」に関してコラムのメンバーにアンケートを実施しました。戦後や復帰を直に経験していない私たちが感じる、アメリカ世・復帰とはどのようなものなのでしょうか。

Q1.あなたの家の中にアメリカ世を感じさせる「モノ」はありますか?

ポーク缶! 改めて考えるとポーク缶がここまで定着してる地域ってあまりないなぁ、と思いました。内地でも、台湾でも全く見かけませんでした。ですが最近の韓国ブームでポーク缶を使った料理が流行っているので、輸入専門店などで見かける機会が徐々に増え、ポーク缶がこんなに定着してるのはアメリカの影響だったんだなぁ、と改めて感じます。日頃から食卓に馴染んでいたポーク缶の見方が最近変わりました。
(玉元花菜/ 95年生まれ 宜野湾市出身)

仏壇に供えられたペプシコーラ
12年前に亡くなった祖父は酒もタバコもしない人でしたが、コーラが大好きでした。奄美から1950年代あたまに沖縄に渡り、青春時代に飲んだコーラの味がずっとお気に入りだったんだと思います。実家には、祖父が20代で、おそらく1950年代後半あたりの写真もあります。よく米軍基地内でボクシングの試合に出ていたそうで、写真には米国人たちと笑顔で収まる祖父の若かりし頃の姿が残されていました。
(豊島鉄博/ 94年生まれ 那覇市小禄出身)

『荒木栄全集』(福岡県出身で《沖縄を返せ》の作曲者の楽譜)。旋律や歌詞に反米・反戦の時代性を感じるため。
(栫大也/  90年生まれ 福岡県出身)

祖父からもらった5セント硬貨
亡くなった祖父から聞いたのだが、コカコーラの瓶、ビール瓶などを集めて商店?酒屋?に持っていくとドルで買い取ってくれたよう。売ったお金でコーラを買ったりお菓子を買ったと硬貨を手に話してくれた。
(仲宗根優介/ 96年生まれ 沖縄市泡瀬出身)

ウィスキーのホワイトホース12年オールドボトル。飲み干したので空瓶があります。普天間の自治会長からもらいました。今はないですが沖縄県内企業のクラウン商事がブレンドしたAエースというウィスキーもありました。普天間の酒屋で1000円で売ってました。流通していた時期がアメリカ世か復帰後かはわからないですが、米軍統治下は洋酒が多く出回っていたという話を聞いたことがあるので、オールドボトルや県内のブレンドウィスキーがあるのは、アメリカ世の影響かなと思います。
(ハルサーの孫/ 92年生まれ 那覇市首里出身)

琉球切手。米軍統治下で使われていた琉球郵便の切手が家にありました。父が集めていたものを見つけて、珍しい切手だったのとなんだか色合いが可愛かったので自分の部屋に飾っていました。復帰の時、ドルショックで1ドル=360円だったレートが1ドル=305円となったことによる沖縄側の損失を補償する措置が取られた際には、発売前の琉球切手が証紙として使われたこともあったとか。復帰後は発売されなくなるため「琉球切手ブーム」も起こったらしいです。その後注目されてないことから、今はそんなに価値がないのかなと思いつつ、沖縄の歴史を感じるモノだと感じます。
(西由良/ 94年生まれ 那覇市首里出身)

Q2.周りの人に「この人はアメリカ世を生きた世代なんだな」と思ったエピソードはありますか?

以前事務のバイトをしていた時、当時流行っていた迷彩柄のパンツを履いてたら、部長が「そういうの、昔流行ってたなぁ、よく米軍からの卸売(??)の店で似たようなズボン買って履いてたよ〜、軍のだから丈夫なわけさ〜」と言ってきた時です。今でも米軍用品のセカンドストアがありますが、その当時はそんなに身近な、誰でも使うようなお店だったのかなぁ、とか色々思いを巡らせました。また、いくら目立たない色でも迷彩柄のズボンは職場に相応しくないよ、と咎められてるのに気付いて、恥ずかしく思ったのを覚えています。同時に部長の世代の迷彩柄と私の世代の迷彩柄へ対するイメージって結構違うのかも知れない、とも思いました。
(玉元花菜/ 95年生まれ 宜野湾市出身)

よく言われますが、「アイスワーラー(アイスウォーター)」と言うなど、沖縄の高齢の人は英語の発音がめちゃくちゃネイティブだなと思います。
あとは直接アメリカ世とは関係ないかもしれませんが、80年代あたりまで頻繁に断水があったという話を親から聞くと、復帰からまもない沖縄はまだインフラも乏しかったんだろうなと感じます。
(豊島鉄博/ 94年生まれ 那覇市小禄出身)

すごくうろ覚えですが、祖父が配給かなにかで食べたお菓子が甘くてびっくりした、と言っていたような気がします。
(タイラ / 99年生まれ 伊良部島出身)

母方の実家から琉球政府の偉い人の肖像画とかが出てきた時。将校や名士の肖像画で稼いでいたらしいが、復帰近くなる頃から没落してしまったらしい。親族関係はトラブルが絶えないが、それに対処するために兄弟姉妹の紐帯がとても強い。その逃れ難さがが鬱陶しいらしく、母はいつも「一人になりたい」と言っている。親族からポツリポツリ家族史を聞いていくうちに、そういう個々人の価値観やら人との付き合い方も、アメリカ世の遺産なのかなと思うようになった。
(チキュウタロウ/ 90年生まれ 浦添市生まれ)

沖縄市のOCEAN CAFEの店主ヤッシーさん
幼い頃から家族が飲食店を経営してたからなのか、米軍人相手の接客中のエピソードやコザ暴動時のエピソードを食事行く度に聞くのが楽しみのひとつになっている。
(仲宗根優介/ 96年生まれ 沖縄市泡瀬出身)

国内線の飛行機のアナウンスが全部英語だった!
(石田卓也/ 92年生まれ 神奈川県出身)

今年93歳になったおばあは、テレビで、ボクシングや相撲を見るのが好きで、私が小学生の頃、年末おばあの家に行ったとき、ボクシングや格闘技をよく見ていた記憶があるのですが、外国人同士の試合で、白人と黒人が戦っていると、白人を応援していて、黒人のことを"くろんぼう"と呼んでいました。そのことについて、おばあと話したことはないですが、最近、BLMの運動などで思い出して、調べて、差別用語だと知りました。おばあと同じ世代の県外の人が、黒人に対する差別意識をどのくらい持っているのかわかりませんが、おばあは、アメリカ世を経験して、占領下でありながらも、黒人への差別用語を使う経験があったのかなと感じました。
(ハルサーの孫/ 92年生まれ 那覇市首里出身)

父が子どもの頃の話を聞くときに思います。いっせんまちやー(駄菓子屋)お菓子やパッチ―(めんこ)を買っていたこと、復帰前は1セントで色々買えたのに、復帰後1円玉では何も買えなくなったことなど。「1円玉の軽さになじめなかった」と言っていて、子どもながらにその時の世の中のいろんな不満を感じ取っていたのかなと思います。ドルから円への通貨変更は「僕たちが日本国民になるための最初の通過儀礼だった」という父の言葉からも、親世代の復帰の経験についていろいろ考えさせられます。
あと、復帰後の話ですが、親の世代は高校の卒業式が終わったあと、クラスの集まりでみんながウイスキーを飲んでいたというのも、アメリカ世を生きた世代なのかもしれないと思います。(未成年だから普通にダメですが)あのころはウイスキーが一番安い酒だったとか。近所の居酒屋やバーを「3年〇組」で予約してたらしいです。
(西由良/ 94年生まれ 那覇市首里出身)

Q3.アメリカ世だったことを感じたこと、感じることはありますか?

正直あまり感じたことありません。やはり年上の世代と関わるタイミングがあまりないですし、わざわざ聞くこともないですし。
何度か母に復帰当時の話を聞きましたが、母も当時小学生ということもあり、あまり詳しい話は聞けませんでした。ですが、ドルから円に変わってみんなあわてぃーはーてぃーしたって話しを聞きました。なんだか自分の知らない土地の知らない歴史を聞いてるような気分でしたね。
(玉元花菜/ 95年生まれ 宜野湾市出身)

沖縄市のゲート通りにたまに行くと、嘉手納基地の目の前という環境や、英字の看板の多さなど、まさにここはアメリカ統治下だったんだなと思わされます。同時に、あのころと今では何が変わって何が変わらなかったのか。いま一度振り返ってみたくもなります。
(豊島鉄博/ 94年生まれ 那覇市小禄出身)

祖父母や近隣の老人たちの会話の節々で「ドル」とか出てきた時。
沖縄のヒップホップの曲が日本でヒットして褒められた時は、やっぱりそういうカルチャーが残っているのも要因かなと思います。
(タイラ / 99年生まれ 伊良部島出身)

記事にもしましたが、保育園→幼稚園で通ってたことです。あとは、北谷のアメリカンビレッジという存在…!
(swd ysk/ 95年生まれ 浦添市出身)

特になし。沖縄出身でもなく、住んだこともないため。ただ、昔所属していたオーケストラのサークルが敗戦直後、板付基地(福岡)の米兵に楽器を接収されたという話があり、似たような事例は沖縄でもあったのではないかと思う。
(栫大也/  90年生まれ 福岡県出身)

「アメリカー⤴︎」ってイントネーションを聴いた時。外国人というか、隣の部族みたいに聞こえる。生活圏を共有してきた感じがする。
(チキュウタロウ/ 90年生まれ 浦添市出身)

コザの町(沖縄市の中心部)を歩く度にここは米軍統治下の影響が濃ゆかったと感じる。Aサインバー、コザから発展した音楽文化など現代においても五感で当時を感じることができると思う。
(仲宗根優介/ 96年生まれ 沖縄市泡瀬出身)

Aサインバーを知って、アメリカ世を感じました。普天間にも、飲み屋街にずらっと米軍関係者向けのバーが並んでいたという話も聞いたことがあります。行ったことはないですが、Aサインの営業許可証のある店が1軒残っているそうです。那覇市でも昔からある喫茶店に、Aサインの営業許可証があるのを見ました。
(ハルサーの孫/ 92年生まれ 那覇市首里出身)

私が中学生の頃は、那覇の市場の中にドル交換をしているおばあさん達がちらほらいました。ホームステイで海外へ行く際に持っていくお金をドルに換えようと、銀行に行きレートを確認した後、おばあさん達にも「今日いくらねー?」って聞きましたが全く一緒のレートだったので、結局銀行で変えたのを覚えています。
(西由良/ 94年生まれ 那覇市首里出身) 

 今回のアンケートで興味深かったのは、「アメリカ世」という言葉を知らないメンバーも多かったという事です。私たちが生まれた時には、すでに沖縄は日本の一部でした。米軍統治時代を経験していない私たちにとって、「○○世」という見方は馴染みのないものだったのかもしれません。

 アンケートで聞いた質問は、復帰に関する出来事の一部にすぎません。この1回で終わるのではなく、他の復帰の出来事に関して今後もアンケートを実施していきたいと考えています。5月15日は本土復帰50年という節目ですが、記念日が過ぎた後もコラムを執筆するメンバーや読者である沖縄出身の人、沖縄以外の出身の人それぞれが、身近なところから復帰について考えることで「復帰とは何だったのか」と問い続けていきたいです。


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