見出し画像

私が体験できない沖縄

さまよう蟹(94年生まれ 西原町出身)
 今年も5月が巡ってきて、とうとう本土復帰50周年を迎えた。「復帰の日」が近づくと、父母が話していた、復帰前後に彼らに起きたいくつかの話を思い出す。

【父のニクソンショック】

 復帰前に父は数歳上の兄にドルでいくらかお金を貸した。すると復帰あたりで通貨単位が円に切り替わり、ドル安・円高で「ドルで貸したお金を円で返すと、実質的な価値が3分の1になってしまう」という事態が発生した。(1)
 父は円を3倍計算にして返すよう兄を説得した。兄はその理由なども含め理解してくれたものの、貸したドルは単純に円換算した金額で返ってきたという。
 その後も、兄からは残りを返してもらっていないそうだ。

【フェンスの中の世界】

 本島南部某所でのびのび育った母が未だに何度も語るその話は、復帰直前の1970年に起こった。当時5歳だった母は、その日も近所の同級生2人と「山きじゃーし」(未だにそのニュアンスを獲得できていないが、父曰く森や山で騒いで遊んでいる感じらしい。)をしていたところ、近所のハウジング(米軍用住宅地)とこちらを隔てるフェンスの金網が一部破けていることに気づいた。
 3人は好奇心でそこからハウジングに侵入したところ、瞬く間にドーベルマンが追いかけてきた。驚いた3人は敷地内に生えていた木に登ったものの、ドーベルマンは木の下で吠えて3人が降りてくるのを待ち構えている。万事窮すと思った時、金髪碧眼の同年代らしき女の子がやってきてドーベルマンをシッシッと追い払い、3人を助けてくれた。この日を境にそのハウジングの子と仲良くなった。

 ある日、その子に導かれ3人はハウジング内の住宅を初めて訪問した。その子の母親がもてなしてくれたが、母曰くそこからが特に衝撃的だったらしい。「みかんを筒に入れると粉砕されてジュースができる(=ミキサー)」「扉を開けたらあったかいアップルパイが出てきた(=オーブン)」。ジュースとアップルパイとの出会いもその時だったようだが、衝撃で言えばそれらを作る技術が上回っていたようだ。とにかく、その当時母が生きていた界隈では見られないような技術がそこにあったという。

 その後、その家族はいつの間にかいなくなってしまった。恐らく本国に帰ったんだろうが、復帰前、山きじゃーしをしてるような女の子だった母にとってよほど衝撃的だったらしく、未だに年に4回くらい話してくる十八番になっている。

【英語で放送されてたから…】

 母は幼少期、サンダーバードやセサミストリートを家のテレビ見ていた。近くにハウジングがあったこともあり、テレビを設置していると勝手に基地内放送の電波が入ってきてたみたい、とのこと。
 復帰後、サンダーバードが日本の放送局から吹き替え放送されていたのを観て、なぜ登場人物が皆日本語を話してるのか…?と違和感を覚えたという。また、平成になって私が生まれ、教育テレビ(当時)で吹き替え版セサミストリートを観て初めて、黄色い鳥や青かったり赤かったりする登場キャラクターたちの名前がやっとわかったみたいだ。
 当たり前だが基地内放送はすべて英語だったので、後々そういう違和感や発見が出てきたのだろう。


 少なくとも、アラサーの私が生きてきた間では父母が話した内容と類似の出来事は起きたことがない。平成・令和の生活では、基地内外や国内外を行き来したりでもしない限りは発生しなさそうな出来事ばかりだ。

 ハウジングの話は子どもの頃から100回以上は聞かされていて、昔は単に面白いと思うだけだった。その後、歴史を勉強したり沖縄で生活していて、沖縄や復帰前後に興味を持つようになったこともあり、最近になってあとの2つの話を父母から聞き出すことができた。
 上の事例のように、実は本人たちは忘れていたりして子・孫世代に話していない復帰前後の思い出・出来事があるのだろうと思う。本土復帰50年という節目の今年、復帰前後を沖縄で過ごした方や、その時期に沖縄に注目していた方が周りにいたら、少し話を聞いてみるのはいかがだろうか。新しい・知らなかった沖縄が見えてくるかもしれない。

(1)当時のドル円レートについて調べてみたが、実際には1ドル360円(固定相場制)→1ドル305円(変動相場制のため数円の変動あり)とのこと。その後も3分の1にはなっていなさそうだが、幼い父には大きく変わったように見えるほど衝撃的だった、ということだろうか…。

いいなと思ったら応援しよう!