見出し画像

#54 ◆自分と向き合いジプシー

こんにちは、対話師の やすだ です。

スキルやノウハウではなく
「人」で売れる状態を作るために、
対人支援起業を志すみなさまの
「想いを言語化する」サポートをしています!

「自分と向き合う」僕はどっぷりその界隈の
人間だと思っているのですが、

界隈の人間だからこそ考えておきたい
「自分と向き合う」目的について
改めて考えていきたいと思います。

何のために自分と向き合うか?
について考えさせられたできごと


「す〜」「す〜」
「コトン」

先ほど用事があって近所の郵便局に出かけました。

窓口での手続きを終え、
待合室で呼ばれるのを待っていると、
横に座って寝ていたお婆さんが僕の方に、
もたれ掛かってきた。

「午後だからちょうど眠たい時間だな。」

そんな気持ちでもたれ掛かってきたお婆さんを
起こして元の位置に戻って貰おうとしたのですが
どうも様子がおかしい。

呼びかけても反応が薄いし、
手足が痙攣していたのです。

これはやはり様子がおかしい。

そう感じてとっさに局員さんに知らせ、
救急車を呼んでもらうことにした。

幸い家が近所だと言うこともあり、
旦那様もすぐに駆けつけ、無事に病院に
搬送されたので恐らく大事には至らなかった
のではないかと思います。

そこで嫁さんとの会話。

僕)
人が倒れたりする時ってもっと劇的というか
ドサって倒れたり、あからさまに呼吸が荒くなったり
すると思っていたけど案外違うんだね。

嫁さん)
うん…
介護施設で働いているからわかるけど、
実は人が倒れたり、亡くなったりする瞬間は
そんなに劇的じゃなく、ありふれた日常の一場面
として急に、静かに起こったりするものなんだよ。

僕)
なるほど…

そんな会話の後、僕はずっと考えていた。

今回のおばあちゃんがどうかわからないけど、
人間本当にいつ亡くなるかわからないんだよなって…

そしていつ亡くなるかわからないのだとしたら、
僕ら本当はなんの為に生きているんだろうと。

そこで気が付く。
今この瞬間を楽しむ為に
生きているのではないかと。

長年、「自分と向き合う」界隈ににいると
時々わからなくなるのだ。

過度に今を犠牲にしてまで、
自分と向き合う必要があるのか?

最初は人生を楽しくするために
始めたはずの自分と向き合う行為も、
色々考えすぎて目的を見失っているパターンが
多々あるのではないか?

少なくとも僕は今でもよくその状況に陥る。

ここでの気づき


ここで僕が思ったのは、
やはり集中すればするほど、
手段の目的化が起こりやすいということだ。

楽しむ為の手段として始めた野球が
いつの間にか上達することや、
相手に勝つこと、成績を上げる
ことが目的になったり…

志を持って始めた仕事が
いつの間にか目の前の作業に追われ、
ライスワークに変わっていたり…

気がつけば手段のつもりが
目的化していることは、
誰しも経験があるのではないでしょうか?

「人生を楽しむ」という目的で
自分と向き合い始めたのなら、
やはりその目的から外れるような
プロセスを歩んでいることに気がついたら
気をつけなければならない。

起業をすることもそう。

なんの為に起業をするのか?
しっかり言語化して取り組んでも、
いつの間にか取り組むこと自体が
目的化し、今を楽しめなくなってしまう
要因になっていたりするのです。

自分と向き合う目的はあくまでも、
自分らしく生きるため。

考えすぎて今が全然楽しくないようであれば
本末転倒なのです。

今日もつらつらと文章を書いてしまいましたが、
自分と向き合うことに必死すぎて、
今を見失っている方がいたら
そもそもなんで自分と向き合っているのか?

改めて考えてみる。
そんなきっかけになれば嬉しく思います!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?