監視ロボット報告書_ 自然科学分野特化型ロボット G-eo (MISSION8 Revival感想⑤)
※この記事は、ego:pression 第12回ダンスパフォーマンス公演 イマーシブシアター「MISSION8 Revival」のネタバレを含んでいます。
また、筆者が想像を膨らませている創作部分もあるため、ご了承のうえお読みください。
ニンゲンには、物事を知りたい、分析し把握したいという欲求がある。
G-eoは、それを忠実にインストールされているように見えた。
G-eoは、ただ自身の職能に忠実に従いながら、ミッションエイトの全を解き明かそうとする。
知ること解き明かすことがとても楽しいという、これも生命維持には直接関係ないが、ニンゲンがニンゲンらしくいるための重要な要因であると、G-eoを見ているとわかる。
無邪気に知識を手に入れていくG-eoを見るのは、とても楽しかった。
楽しい…。楽しい。
ロボット達を追いかけていると、わたしの中に、何か複数に枝分かれした複雑な電気信号の複合体が発生しているような表象に襲われる。とある刺激に対して喚起される単純な行動パターンではない。
これが感情というものなのだろうか?
しかし知ることは、時に無慈悲な正確さで、今の状況を突きつける刃にもなる。
G-eoが明らかにしたのは、胸のプレートを起動させ、ロボ達が個性化する代償として、その寿命を大幅に減らすという残酷な真実であった。
その真実を、愛と分かち合うG-eo。
愛が申し訳なさに意気消沈し、それを他のロボ達にも知らせようとするのをG-eoはそっと押しとどめる。
その真実に自身も恐怖に怯えながら、愛を許し、むしろ気遣う姿に、わたしはG-eoが、冷徹な知識だけではない、血が通った温かい知識を身につけていたんだということに気づいた。
それは、人文科学特化型ロボットのD-aryaとの関係を見てもよく分かった。
最初は、知識を追求するのにどこか邪魔だと思っていたD-aryaが、他のロボットが混乱する中でも身を粉にして自身を手伝ってくれるという姿に頼もしさを覚え、徐々に距離が近づいていく。
それは、観測可能な自然科学の法則を超えた、観測と予測不可能な他者との関係性というブラックボックスであり、だからこそ、知識に偏りがちなG-eoにとって、必要な要素だったと考える。
ふたりはいつしか惹かれ合い、まるでニンゲンのように近しい存在になっていく。
ただの監視ロボットでしかなく、この現象に干渉…いや、交われない私にとって、ふたりの姿はとても微笑ましく、しかしとても眩しかった。
どうしてわたしには、その機能がインストールされていないのだろうか。
一方で、そのふたりの関係性の変化を観測できる機能を、どうしてわたしにインストールしたのか。私の製造者は一体何を理由に、わたしを作ったのだろうか?
G-eoは、D-aryaの助けを借りながら、残り少ないエネルギー液をなんとか再構成しようと、必死に足掻く。しかし、時間は迫る。
そしてロボット達は、G-eoの職能をそのままに研究を続けてもらい、いつかエネルギー液が再構成できる日を願って、G-eoに残りのエネルギー液を捧げていく。
特に近しかったD-aryaがエネルギー液を捧げ、最後にG-eoに微笑みながら、元の無個性なロボットに戻る姿は、とても見ていられなかった。
G-eoはたったひとりで、変わり果てた同胞たちの姿を見ながら、エネルギー液が出来上がるまで何度も挑むのだ。
その計り知れない恐怖と、それに対する覚悟に、閉まっていくシャッターの向こうから声をかけたい衝動に駆られた。
しかし、私はただの監視ロボットに過ぎない。
そこで事象に干渉することはあってはならないのだ。
一体何のための監視ロボットなのか。
私とは何なのか。