
どめ20 「自分の生真面目さ」
自分を肯定する感情を作り出してるよなぁ。自分のことは常に肯定しているのだから、意識的に自分を否定したほうがいい気がしちゃって、最近ずっと、ころすころすって自分の中で復唱してる。
↑こちら,心理状態が引くほど悪い時の北村の心境ですね。
自分の持てる力を最大限出すぞ!!っていう感じでエンジンがかかり切ってるときは,やっぱり「このままじゃだめだ,だめだ」という自己否定からくる向上心を起爆剤にして頑張っているような気がする。
エンジンを温めるためにはやっぱり燃料が必要で,何がその人にとっての燃料になるかっていうことは全く違ってくるだろうなと思う。人によっては対抗心,競争心,怒り,憎しみ,嫉妬といった特定の他者に向けられる感情だったりするだろうし,一方で自分から自分への理想主義だったり,非特定の他者から向けられる重圧がかえって起爆剤になる場合もあるだろうと思う。
自分がスポーツを10年近く続けた結論としては,自分は特定の他者への感情が起爆剤になってアドレナリンが出るということが全くないんだなということだった。結局勝つことに対して根本的にどうでもいいと思っているのかなぁと思う。
スポーツ,それも球技って「点を取ること」が全ての行動の動機なんだよなー。そして「点を取ること」の動機は「試合に勝つこと」以外の何物でもないわけで。1つのシュートもドリブルもパスも,ランニング一つすら,それは点を取るための行為だし,ひいては「勝つ」ためのプロセスでなければいけない。
自分も「勝ちたいなー」って気軽に思っていたけど,結局その根本的な「勝つ」という目的意識があまりにも希薄過ぎて,「怒られたくない」みたいな気持ちの方が全然大きかった気がする。
バスケのいいところは,ボールのさわり心地と一つ一つの動きの楽しさとボールがゴールに入る時の音だと思っていて,それ以上でも以下でもなかったから,うーん,基礎連みたいなのをずっとしてたかっただけだなと思う。今思うと。まぁ当時から思っていたんだけど,そういうことを口に出すとバスケ部にいるの意味が分からなくなっちゃうから,口に出してなかったっていう感じなのかな。
自分にとって他者への対抗心は基本的に心の起爆剤にはならないんだけど,自分に期待されていることに対する責任感みたいなのは結構あって,それの為に精神を病みながら頑張るみたいな時期は結構頻繁に訪れてる気がする。
先輩の卒業のライブとか中学の定期テストとか受験とかはそういう感じだった気がするなぁ。使命感的な。いまおもうとなんでそこまで思い詰めてたのか不思議でならないんだけど。
でもあの思い詰めていた時をなんとなく振り返ってみると,悪いものでもなかったような気も,それを経たから今の自分がある様な気もしていて,思い詰めてしまう経験というのがなかったほうがよかったかといわれると,そうではないと答える気がする。
両親と自分のこの先の進路について話した時に,自分は生真面目だなぁと思った。なんか生真面目でナイーブに生きてる。生真面目でナイーブで考えすぎでもっと楽に生きればいいのにと思うけど,それは生真面目な精神が許さないといった感じ。
絶対に譲りたくないこだわりが生き方というすごい根本的で抽象的な部分に置かれているせいで,それをやることがもはや目的なんですって言うのは結構恥ずかしい。
どういう人間でありたいかみたいなのだけ決まってて,その生き方を突き通した時に最終的にどういう地点に自分が落ち着くのかということが気になる。
その過程で何をするかとかは結構どうでもよくて,いつか死ぬということだけが予定として決まっているので,それまでにできるだけ自分が生きたいと思う方向に自由に進んでいきたい。それが具体的になにであるかということは,今の時点では全くどうでもいい。生きるみたいなのをまじめにやりたい。
生きるみたいなのをまじめにやりたいと思ったけど,それってなんだよって思った。漠然としすぎている。人によって「生きる」に入ってくる日々のルーティンが全く異なっていることは,当たり前に確かなことなんだけど,自分にとって何が「生きる」ことに入ってるかっていうのは,21年経った今でもつかみ切れていないような気がしている。
少なくともこの文章を書くということは,今のところ,重要なルーティンの一つとして自分の中に確立されつつあるとは思う。
あとはご飯を食べることと寝ることかなー,でもだいたいその2つって第三者的ななにかにやらされてる感がすごくて,もはや自分にとって「生きる」に入れたくない感じすごいんだけど,それは21年間寝る場所もご飯も与えられ続けてきた温室育ち過ぎる発言だなと思う。
寝る場所やご飯をめぐる欲望っていうのは勝利を目指す欲望に似てるよなと思う。渇望てきな。まぁそれが自分は希薄なんだろうと思う。
外側に望むものはない,内側にだけある。
意外とそういう人も多いのではないでしょうか。
知りませんけど。
谷川俊太郎のエッセイ集『風穴をあける』を読んでたら、ヘヤー・インディアンという人たちの暮らしぶりを描いた本の感想文みたいなのが出てきて、結構面食らった。彼らは3歳の時から、自分の飢餓感に対処できるのは自分自身しかいないということを当然のこととして受け入れているそうだ。そういうこともあるのかと思った。
本当に良いとか悪いとかではないんだろうなと思った。自分の中に現在起き上がっている感情や渇望のそれぞれに対してどういう対処をするかというのは、完全に自分自身に委ねられているなと確かに思う。
この、たまたま自分の中に起き上がってきたひとつの感情ひとつの欲望を、抑え込むにしろ解き放つにしろ、それはまさに生きているということそのものなんだろうと思う。
確かに物質的な生死を問われるということはわかりやすいことなんだけど、精神的な生死については常に、どの時代を、どの瞬間を生きる人にも突きつけられる根本的な問題だろうと思う。今私は生きているだろうかと問うことをやめたくない。そのようにいつまでも生きていたい。生真面目に。
俺達は全身全霊でこの世界に存在している
自分の生真面目さ でした。