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どめ9「なんと名乗ればいいでしょう」

私は名乗るのが苦手です。
ほとんど同じ理由で自己紹介も苦手です。私も一応大学生なので,授業・サークル・バイトなどで初対面の人と挨拶を交わす機会が頻繁にあるのですが,高い頻度で「私は今,なんと名乗ればいいのだろう。」という気持ちになってしまします。

私には不思議と苗字・名前があらかじめ与えられており,それは「北村僚」という漢字三文字です。機能上,私はほとんどの場面でこの「北村僚」というのを自分を言い表すのに使っていますが,「北村僚」に対して「しっくりきたな」という感じを持ったことは一度もありません。

この文章は私が私の名前や名乗るという行為についてどう感じてきたかを語る文章ですが,皆さんの中にも私が感じているのと同じような感覚を持っている人がいるかもしれません。
そういった方がいらっしゃれば面白いなと思いますし,いらっしゃらなければそれはそれでうれしいような気がします。

なんにせよ,この文章はこの調子で終着点もなく彷徨うように続いていきます。効率主義者の皆さんが簡単に要約できないように,できるだけ支離滅裂に優柔不断に書くことを目標にしています。

読むという行為はおそらくその行為それ自体として面白く楽しい運動のようなものです。私が書くような支離滅裂な文章をただ自宅から最寄り駅までを歩くように読み飛ばす。もしも気になる店があったら立ち止まる。そのようにして私の文章を読んでいただけると,その行為に初めて生きている感じがしていいと思います。



まぁエッセイなどというものはそういうものですよね。
この先を読んでくれることが確定している人にとっても,この先を読むことをやめた人にとっても,今この文章を書いている私自身にとっても,この段落は必要なものではありませんね。
このように無駄なものを付け加えることが許されている感じがあるのが,エッセイの良いところなのかもしれません。
許されていないかもしれませんが,有無を言わせず書くことができるといった感じですね。



名乗るという行為が私に与える違和感の正体の第一候補としては,私や私以外の人が私を言い表すのに使っている苗字や名前というのが,私が生まれる前から決まっているということがあります。

皆さんもきっとそうだとは思いますが,私の場合も,この世界に生まれ落ちる少し前に父親が決めた「僚」という名前と,少なくとも3世代以上父方から受け継いできた「北村」という苗字が,私自身がどのような存在としてこの世界を渡り歩いていくかということに全く関係なく与えられました。
変な話ですね。
それとも,私にこの「北村僚」という名前が私が生まれる前から与えられたことは当然のことに思われますか?
お願いなので今だけは「これを変な話だなぁ」と思っていてください。

私自身には,この「北村」や「僚」というのが自分を言い表すのにふさわしい固有名詞であるという風には全くもって思われません。だって私と何にも関係ないから。関係があればしっくりくるかは定かではないので,これはしっかりとした論理ではないですが。

ともかく,齢二十歳になった今ですら,「北村」も,「僚」も,この世界で他者とコミュニケーションを円滑に行うための仮の名前にすぎないという認識がどこまでも私に付きまとってきています(なんという中二病的な香ばしさ)。



生まれてから10年くらいの間,私も私以外の2003年生まれと同じように,幼稚園に行ったり,小学校に行ったり,サッカー教室に行って馴染めなかったりということをしてきました。そのようにして私がこれまで日本に生まれた幾万のガキどもと同じように幼少期を過ごしたそれらのコミュニティにおける私の役割は,一貫して「管理されるべきもの」「庇護の対象」であり,極論をいえばペットみたいなものでした。

管理者の視点に立てば,ペットというのが少なくとも複数匹いる場合には,それぞれに名前を与える必要がある様に思われます。名前を与えておかなければ,管理者どうしのコミュニケーションが全くもって上手くいかない。ですので私たちにはそれぞれに名前が与えられていたことは当然のように思われます。
そのように考えると少し嫌になりませんか。
なる人は手を挙げてください。

私の家はそこまで裕福ではなかったので,流行りのゲーム機やゲームソフトをすぐさま購入してもらえるといった幼少期ではありませんでした。
そんな私も中学校を卒業するタイミングでは,スマホを買ってもらうことができました。
そこで私は,直ちに様々なアプリにおいてアカウントを作成しなければならないという事態に直面しました。
その事態に直面した私に,LINEの名前を「北村僚」やそれに関わる「Ryo」や「きたむら」などにするというアイデアは全くもって浮かびませんでした。
なぜなら,私はこの時初めて自分の名前を自分で名づける正統な権利を得たように思えたからです(明確にそんなことを考えてわけではありませんが,少なくとも頭の片隅に少しの興奮がありました)。

「どめ」はその時に考えた仮の名前です。
昨今では,私と同様に,インターネット上で無視できない数の人が自分の苗字・名前とは無関係の固有名詞をユーザーネームとして用いています。私もいうなれば高校という新たなゲームに参戦するに際して,自分の名前を改めて与えなおしたと捉えることもできます。

実際にはこのような事情が心の中で渦巻いた結果の「どめ」だったのですが,こんなことを初対面の人に毎回説明するというのは面倒ですし,高校生というのは結局管理される側の存在でしかありませんし,初期においてはやたらと自己紹介をしなければいけなかったので,「北村」とだけ名乗るようにしていました。
そのように自分の名前を適当に有耶無耶にしてきた結果,高校から現在に至るまで,私が直接自己紹介した人は「北村」と呼び,LINEや伝聞によって私の存在を初めて認識した人は「どめ」と呼ぶという事態が発生しています。
呼ばれる側としては,このような事態は大変おもしろいいう風に感じています。

「私はどめです」と名乗ったことは記憶の限り一度もないですし,私は「どめ」という言葉を単にLINEの名前にしているだけなのですが,そのような名前が知らず知らずのうちに伝播して私をあらわす固有名詞として通称になっているというのは,大変面白い感覚です。



私が社会(国家・自治体など)との接点を持ち続ける限りにおいては,この「北村僚」という仮称を完全に捨て去ることはきっとできません。役所で登録されている名前を完全に変更するというのは難しく,また面倒ですから。そのような面倒を起こしてまで名前を変更する程,「北村僚」に対して恨みも怒りもありません。ですので,ほとんど半永久的に私はこの「北村僚」を使い続けていくことにになるでしょう。



私たちは常に「管理される側としての名前」を名乗り続ける必要に駆られていくわけですね。これはよく考えてみると変な話ですね。やっと15年以上続いた飼いならされが終わったのだから,自由に名前を名乗り,自由に生活を行ってもいいはずなのに,私たちは,今度は自ら飼いならされに行ってしまう。

そのように気が付いているのに,飼いならされていることをやめない私たちは,飼いならされることにそれなりに満足をしているということになると思います。「飼いならされていることに満足している自分」を気に食わない自分もここで発生してきます。
その「なんだか気に食わないという自分」を私の方でまた飼いならすために,私は飼い主(私たちが社会・大人などという言葉で言い表す不特定単数のなにか)に対して少しの抵抗をしています。
その抵抗は社会的にはほとんどなされていないのと同じ無意味なものですが,私の精神にとっては大変重要であり,生きるために必要とさえいえるものになっています。

抵抗の具体例)
・街中で30秒間立ち止まっての小躍り
・宿題提出をかたくなに拒否
・出席カードを持ったまま授業を途中退出
・携帯電話を非携帯
・サブスクをやめてウォークマンを始める

マジでくだらないな。これまじで何の意味もないし,「抵抗」などと大それた表現を使うには大したことが無さすぎる。



私が私に仮称として「どめ」という名前を与えてから,まだ5年しか経っていないというのも大変面白いです。私は,なんだか知りませんが聞くところによると20年もの間息をしているようなので,まだ「どめ」という名前の歴史は私の人生の4分の1程度でしかない。いつか私が私に新しい名前を与える時が来るまでは,きっとこの仮称を使い続けることになるでしょうが,この「どめ」の歴史がどれほど長く続いていくのかというのは,楽しみなことでもあります。



上では「北村僚」という特定の固有名詞を自分を表すものとして名乗ることに対する違和感の話(かなり脱線しましたが)でしたが,こんどはこの「名乗る」という行為自体に対するの違和感についてお話します。

「名乗る」という行為は,「私は○○である!」と「私」に固定の形を与えるような質感のある行為です。形をしっかりと決定するような,そういう質感。結論として,この行為は私にとってとても窮屈なのです。

「私」というのは全く不定形の存在で,どちらかといえば「雲」とか「川」のように大きくも小さくもなり,形や色を常に変更し続けるものです。このことは一人称として三人称的に「私」というものを観察している「私」にとってもそうです。ややこしくなってきました。と思いましたが,これ以前の文章もかなりややこしいですね。私は書き手なので私の意図を理解していますがが皆さんはどうですか。さっきから妙に偉そうな感じ。

私にとっての「私」というものが,あまりにも流動的かつ現在に限定された存在に思えるので,「私」というのに私の方から固定的な名前を与えるというのはなんだか大変違和感があります。

私は非常に現在的・流動的に生きています。
私は過去のことを省みるルーティン(写真や動画を見返すなど)を持たない人間であり,ただその場のノリに即興で合わせて演奏するような形で生き続けています。そのような自分ですので,私にとって物事というものは,単に文字におこすことのできる情報としてではなく,身体や精神の一部として記憶されます。

ある物事があったときに,それを高度に抽象化した感覚としてのみ,私のなかにある窪地のようなものに蓄積され,そのような感覚の蓄積が私の精神を作り上げています。さらに言えば,私の精神は常に代謝を行っていて,不要と判断したものを無意識に捨て去ってしまいます。

これは私に固有の感覚なのか,皆さんにも当てはまる感覚なのかは見当もつきません。完全に主観的な話なので。このような主観的な感覚の話を明晰に行うというのは大変な技術のいることで,もはや詩的な表現で表した方が多くの方に分かっていただけるような,そんな気がします。

結論としては,名前を名乗って私を固定化するというのには,感覚的に全く抵抗がある,ということですね。別に名前と自分自身を切り離して考えることができればよいのですが,まぁ意外とそれが難しいということですね。



「自分は○○であると宣言する」ことは苦手ですが,誰からなんという名前で呼ばれるかについてはあまりこだわりがありません。誰からなんという名前を付けてもらってもいいのですが,「自由に私を見て名前を作り出す」という大喜利の難易度は結構高くて,たいていの人が私のつけているメガネとか僕の通っている大学(もはや通っているのかわからないが)から名前を付けてきます。
「メガネ君」とか「早稲田の子」とかですね。
もっと想像力働かせろやって思いますけどね。普通に。

そのようなあだ名しか付けられないというのは,人間を見るときにその外形やいくつかのカテゴリーを通してしか見ることができないということを自白しているようなものです。まぁそれはそれで確かに誰しもが持っている感覚ですし,出会ったばかりの人を見て外見その他のすぐわかる情報以外から名前を付けてみろというのは傲慢な要求かもしれませんね。
でもまぁ,なんとなく「メガネ君」とか言われると失望せざる負えないです。何たる傲慢さ。そう私は傲慢な人間です。
理想的を言えば,関係性ができてからお互いに何と呼ぶかをいちいち決めたい。そのような感じがします。



やっぱりあだ名というのは良いですよね。
あだ名がいっぱいあるという人生は,様々な人間関係を経験した良い人生であるように感じられます。
「”私にとってのあなた”に名前を付ける」というのは良い行為ですよね。とっても。

LINEを始めた当初,私は全ての「ともだち」の名前を変更していました。「かわいい方の坂本」とか「ゆるふわ」とか「ヘクソカズラ」とかっていう名前を「ともだち」それぞれに与えていました。普通に蔑称の可能性がありますが。それはごめんなさい。

自分にとってこの人はどういう人だろうと考える時間というのは非常に楽しく,考えてつけた名前には結構愛着がわきます。面倒なので直接会話する時にその名前で呼ぶことはありませんが。

しかし,私も高校2年生くらいになると,周囲の人間関係が飛躍的な拡大をみせ,ほとんどしゃべったことないような輩ともLINEを交換しなくてはならなくなりました。それは大学に入るとさらに加速していき,今では内向的な私にも500人近くの「ともだち」がいます。そんなにいらないんだけど。あだ名をつけられるくらいの距離感の人間とだけ「ともだち」でありたいですわ。




ゆくゆくは父親とか母親とかにもあだ名をつけたいです。
私に勝手に名前を付けてきた奴らに,今度は私の方から名前を付けて返してやりたい。しかし,「あだ名をつけること」が決まり切って仕事のようになると,それはそれであまり様子がよくありません。

ここでもお決まりの純潔主義的なややこしさ。
要するにばかなんですよ。私は。



私から自然に出る文章には結論がありません。結論を出すような世界観の中に生きていないので。結論がある世界にいる方にとっては,はっきりしなくてやりづらいかもしれません。ですが,結論がないということは,私の精神にとっての酸素と言えるくらいに,重要なことなのです。


なんと名乗ればいいでしょう でした。


















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