お弁当の思い出
私は、小さい頃から食いしん坊で、とにかく食べることが好きでした。
美味しいものが食べたい、食べたことがない料理を食べてみたい。自分で好きなように、好きなご飯を作ってみたいと思っていました。
そして、小学2年の時に、お豆腐とわかめのみそ汁を作ったのが初めての料理でした。その後もいろいろ料理にチャレンジしました。
そんな私の母は、料理に苦手意識が強く「料理は嫌いだ」と、公言していました。公言の通り母は料理に熱意がなく、レパートリーも少なめでした。
また、食の好みが、母と私では正反対で、母は「ご飯、みそ汁、漬物」とういうTHE百姓飯!があればいいというような人(実際、百姓の娘です)です。
私は、肉好き、洋食や中華などが好きで、テレビで料理番組を見ては「あれ食べてみたい、これ食べてみたい!」という感じのとにかく食欲モリモリの子供でした。
そんな訳で、日々母の料理に注文をつけたり、文句を言いまくっていた(反省)のですが、「作ってもらえないなら自分で作る!」ってことで、料理をしょっちゅうするようになったので、私の料理の腕は上がっていきました。その意味では、母の料理嫌いは、いいことだったのかもしれません。
そんなイヤな息子に育った私は高校生になりました。
私の高校には、食堂も購買部もなかったので、母にお昼のお弁当を毎日作ってもらっていました。なのに、私は罰当たりにも相変わらず、弁当に文句を言い続けていました。(猛反省)
「汁気が多いの入れると他のおかずやご飯にしみるからやめてくれ」「唐揚げが揚げすぎ」「焼き魚が焼きすぎで堅かった」などなど、ひどいことばかり言っていた気がします。(猛反省2)
私には、2才上の兄がいるのですが、兄は、母の料理に一切文句を言わず、あまり美味しくないときは、無言。美味しいと思ったときはちゃんと「美味しかった」と伝える模範的な息子でした。
この差もあって、益々私の物言いは忌々しかった事でしょう。(反省2)
そして、そのときは来ました。
相変わらずわたしは、日々、母の弁当にケチをつけて(反省3)いたのです。
すると、あるときから、焼き魚に文句を言うと、弁当から焼き魚が消え。卵焼きの味に注文をつけると、卵焼きが消え。肉が固いというと、肉が消え、、、。
ついに、「日の丸弁当」に、、、、。(もう気付よ高校生の私、、、)
しかし、なんの反省もなかっと当時の私は、あろうことか、「日の丸弁当」に怒り、文句を言ったのでした。自分のひどい行いは棚に上げて、というか、あの時は多分悪いと思っていなかったんだと思う。(猛反省3)
そして、翌日の弁当箱はとても軽かった。スゴく軽かった。そんでもって、なんだがカラカラと音がした、、、、。
お昼時間。弁当箱の蓋を開けると、、、、。↓
なんと!!弁当箱の中に、500円玉が1つ❗❗❗❗
怒っていらっしゃる!母上はこの上なくご立腹です❗❗❗とっても怒っている‼️‼️
やっと、気が付いた愚かな私は、帰宅後一生懸命謝ったのでした。なぜかその後の経緯は覚えていないですが、その後は自分で弁当を作るようになりました。
あの500円玉は、せめてもの優しさだったのか?、怒りの表現だったのか?はたまたその両方か?
今となっては怖くて聞けません、、、。
本当に申し訳なかったなぁ
母上ごめんなさい。