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もう一度
私の左の脇腹には細くて長い二筋の傷がある。これは剃刀の傷ではなくて、猫が引っ掻いてできた傷である。
たまに、猫を抱いて寝ることがあった。はじめの方は、じっとしていてくれて、あの、ぐるるるる、という、何とも言えない重低音の吐息を感じながら、ぬくぬくとしてこちらは幸せなのだが、猫は、たいてい、1、2分経つと「ハイハイ、サービスはもう終わりね」という感じで去ってしまう。ツレない生き物なのだ。でも偶に、お互い本格的な眠りに落ちることがあった。
私が高校生だったある日、そんな感じでお互い寝入ってしまったのだけれど、私が寝返りを打って、熟睡している猫を胸の辺りで軽く潰してしまった。
「ギャゥン」
という鳴き声で夢から醒める。醒めたと同時に、左の脇腹に鮮やかな赤い爪痕があった。まさに痛み分けといったところだろう。
その猫の名を、カフカという。
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2005年のホワイトデーに我が家に来て、2025年のバレンタインデーの翌日に死んだ。
享年20歳。まごうことなき大往生である。果報者であったということだ。
カフカと名付けたのは私だった。その時、フランツ・カフカという作家の名前を知り、その由来がチェコ語の烏(からす)であることを耳にしたばかりだったのだろう。姉が突然連れて来たその黒い仔猫に、ぴったりの名前だと思った。
何度か病気はしたが、私の記憶の限り、すこぶる健康で気の良い黒猫だった。刺身が大好物で、夜、私が晩酌のために買ったそれをいつも狙いに部屋にやってきた。私にとっては、唯一の晩酌の相手と云える。刺身を食べさせてやると、しばらく膝の上でサービスをしてくれるのだった。
カフカについての思い出は尽きない。
去年、私の結婚が決まって家を出る時、歳も歳だし、きっと今生の別れになるだろうなと思った。お互いなんとなくそういう雰囲気になった。
「幸せになれよ」と、黒猫は男前なことを言った。
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実際はそれから何度か会う機会があった。最後に会ったのは、今年の一月。実家に置いてある楽譜を取りに少し寄った時だった。
ずいぶん痩せ細って、唇のあたりが腫れ上がって辛そうだったが、しばらく撫でさせてくれた。
別れ際、玄関で、「おい、おまえ、しっかりやっていけよ」と黒猫は言った。
二月に入ってから一度母と会う機会があって、猫の様子を尋ねると、「もうボケとるわ。大きな声で鳴くのよ。アンタが聞いたことないくらいデカい声で」。結局、この猫と一番長い時間をともに過ごしたのは母で、その次が私なのだが、二人とも、そろそろお迎えだよなという気がしていた。
その一週間後、朝、母から「カフカ、水もエサも食べないけど、元気」という連絡があり、写真が送られて来た。猫は毛布に包まれて、ベランダとカーテンの間で日向ぼっこをしていた。カフカが一番気に入っていた場所だ。
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昼になると、「亡くなりました。もう硬くなってる」という連絡があった。なんでも、母が少し外出している隙に、二月の弱い陽射しの中で死んでいったらしい。猫は、死ぬところを飼い主に見られないために、隠れて死ぬという。カフカの場合はそれが、母が外出する間だったのだろう。
最後まで男前な猫だった。軽々に云うべきでないことは承知だが、理想的な死に方だったのではないかと思う。
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願わくは 猫に倣いて冬死なん その如月の 甘菓子の頃
西行に遼か及ばず。
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これを書いた後、(そういえば、腹に本当に傷が残っているかな?)と思って駅の便所でシャツをたくしあげて見たのだが、傷はもう消えてしまったようだ。少なくともある時点までは確実にあったのだが。
カフカが死んでから、夜、布団に這入ってから、眠りに就くまでの間、暗闇の中で考えている。
あの温もりに触れたい。もう一度カフカを抱いて眠りたい。すぐに布団から出ていってしまうことは解っているけど。