【残せ!公立高校】『兵庫県立神戸高校』出身の有名人たち。
うちの学区で一番賢い連中(かしこ)が行く公立高校ですね。
神戸で私立高校っていうと、「報徳学園」とか「滝川高校」とか、なんだか、
「野球」さえ出来たらアホでも入れる学校というイメージですね。
東京なんかだと、私立高校=進学校、という感じなんだけど、
神戸だと、私立高校=野球バカ、という感じですね。(報徳の金村とか)
で、神戸市立の中学校では、成績上位7人(男女合わせて)ぐらいの賢い生徒(かしこ)が、うちの学区では「神戸高校」に行くのです。
五課目は成績は良いが、素行が多少悪いとか、体育や音楽などの受験以外の成績がイマイチという生徒は、二番手の「兵庫県立御影高校」に行かざるを得ません。まあ、土井たか子さんやBOROが通った学校なんで悪い学校ではないのですが。
では、どんな人が「兵庫県立神戸高校」出身なのかをご紹介します。
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■志村喬(俳優)
兵庫県朝来郡生野町出身。
大学は、関西大学に行くが、父が定年になり、家が急に貧乏になり、関西大学の夜間部英文科へ移籍し、昼間は、市役所大阪水道局で働く。
英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎やシェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学の演劇研究会に参加。さらに1928年(昭和3年)には豊岡を演出家に頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団・七月座を結成する。
しかし、芝居に熱中するあまり市役所は欠勤続きでついにはクビとなった。そこで大学も中退して、本格的に役者の道を目指し、七月座のプロ化を図り巡業などをするが、大赤字となり失敗した。
志村喬さんのお父さんは転勤族で、いろんな場所に引っ越しを繰り返す少年時代を過ごしたが、高校1年生は当時の「神戸一中(現在の兵庫県立神戸高校)」で迎えた。その後、父の転勤で高校3年のときに他校へ転校することになる。
片岡千恵蔵と競演した伊丹万作監督「赤西蠣太」では、志村喬の江戸弁に、ほんのりと関西なまりがあるのが微笑ましい。
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■村上春樹(小説家・ノンフィクション作家・翻訳家)
村上春樹(1949年〈昭和24年〉1月12日 - )は、日本の小説家・翻訳家。
京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市育ち。
両親ともに高校の国語教師であり、本好きの親の影響を受け読書家に育つ。1955年に西宮市立浜脇小学校入学。
4年生の頃から、急に本が好きになり、ジュール・ヴェルヌや、デュマの小説、ホームズシリーズやルパンシリーズを読むようになった。
また、娯楽がなかったため、父・千秋に連れられ、西部劇や戦争映画を見た。西宮市立香櫨園小学校卒業。芦屋市立精道中学校卒業。
1964年に兵庫県立神戸高等学校に進学。
この頃から、国語教師であった父に『枕草子』や『平家物語』といった古典文学を暗唱させられ、その反動で海外文学に興味を移す。
最初に読んだ長編小説は、ショーロホフの『静かなドン』だった。
この頃は、ツケで本が買え、親が購読していた河出書房の『世界文学全集』と中央公論社の『世界の文学』を一冊一冊読み上げながら10代を過ごした。
また中学時代から中央公論社の全集『世界の歴史』を繰り返し読む。
在学中には新聞委員会に所属し、2年生の時には編集長も務めた。
また、初めてロス・マクドナルドの『わが名はアーチャー』をペーパーバックで読む。
一年浪人したあとに、1968年に早稲田大学第一文学部に入学、演劇専修へ進む。
在学中は演劇博物館で映画の脚本を読みふけり、映画脚本家を目指してシナリオを執筆するなどしていたが、大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトなどをしながら、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観た。
1979年4月、『群像』に応募した『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞。
同作品は『群像』1979年6月号に掲載され、作家デビューを果たす。
カート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた清新な文体で注目を集める。
同年、『風の歌を聴け』が第81回芥川龍之介賞および第1回野間文芸新人賞候補、翌年『1973年のピンボール』で第83回芥川龍之介賞および第2回野間文芸新人賞候補となる。
はやく、ノーベル賞をとってください・・・。
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■小松左京(SF作家・小説家)
大阪府大阪市西区で五男一女の次男として生まれた。
4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った。
1943年、第一神戸中学校(現在の神戸高校)入学。
小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。
一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った。
終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。
そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという。
1948年に神戸一中を四修し、第三高等学校に入学。
あこがれの旧制高校時代は「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが学制変更のため1年で終わる。
翌年には京都大学文学部を受験し、イタリア文学科に進学。
大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。
高橋和巳や三浦浩と交流を持つ。
ほかに福田紀一とも知り合う。当時デビューしたばかりの、安部公房の作品に熱中する。
1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(ハヤカワ・SFコンテストの前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。
筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。
「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『宇宙塵』に掲載された。
翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の福島正実からはすでに評価されており、それを待つことなく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる。
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■高島忠夫(俳優・タレント・映画評論家)
1930年7月27日、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区御影)で、姉妹弟のいる4人姉弟の長男として出生。
祖父は大地主で不動産収入があり、そのため父は琵琶師匠を自称していたが弟子もおらず、生涯定職につくことのない有閑階級の家庭であった。
成績は優秀で神戸一中に進学。
水泳部に所属した。同じクラスに作家の小松左京と國弘正雄がいた。
小松とは、一緒にバンドを組んでいたこともある仲。
学制改革により六・三・三制となり、神戸一中5年から新制神戸高校3年へと進学するがジャズに没頭し、退学。
翌年に関西学院高等部へ、今で言う「水泳推薦」で編入学する。
高校では団鬼六がボーカルだった軽音楽クラブに所属した。
1951年に映画会社新東宝のニューフェイス「新東宝スターレット」の第1期生として芸能界入り。
スターレット同期生は天知茂、久保菜穂子、小笠原弘、松本朝夫ら18人。
映画界入りしたことで関西学院大学は2年で中退。
弟は、日本にビートルズを呼んだことで有名な「高嶋 弘之」。
弘之の娘があのうるさいバイオリニスト「高嶋ちさ子」である。
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■山村聰(俳優)
(1910年〈明治43年〉2月24日[1] - 2000年〈平成12年〉5月26日)は、日本の俳優・映画監督。
作品により、「山村 聡」のクレジット表記もある。
神戸一中、旧制一高を経て東京帝国大学文学部卒業。(さりげなく書いてあるけど凄い学歴である)
研究劇団「太陽座」に入団。戦前の劇団文化座等での舞台活動を経て、1946年、『命ある限り』で映画初出演。
1947年、溝口健二監督作品の『女優須磨子の恋』で田中絹代演じる松井須磨子の愛人役・島村抱月役に抜擢され、1950年には小津安二郎監督作品の『宗方姉妹』で第1回ブルーリボン賞の主演男優賞を受賞。
同じく小津の監督作品である『東京物語』など数多くの映画に出演する一方、1952年には東宝砧撮影所の芸能部長であった山田典吾とともに独立プロ「現代ぷろだくしょん」を設立し、翌年には山村自身も多額の出資をして完成させた第1回監督作品『蟹工船』を発表、映画監督としても活躍した。
山村は日本映画界において風格のある名優として戦後の早い時期から重宝される存在であり、更に極めて英語が堪能であったこともあり海外製作の映画への出演が多く、ハリウッド映画では1958年に公開された20世紀フォックス製作の『黒船』(ジョン・ヒューストン監督)の下田奉行の田村左衛門守役でジョン・ウェインと、1986年に公開されたパラマウント映画『ガン・ホー』(ロン・ハワード監督)の日本の自動車メーカーの重役・坂本役でマイケル・キートンらとそれぞれ共演している。
一番有名なのは「トラ・トラ・トラ」での山本五十六役であろう。
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■井深大(ソニー創業者のひとり)
井深大は、(1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)
日本の弁理士、電子技術者、実業家、教育者。位階は正三位。
栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。
この人がいなかったら、「ウォークマン」も「プレイステーション」もこの世になかったのである。
2歳の時、青銅技師で水力発電所建設技師であった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父のもとに引き取られる。
母さわと共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校(現在の安城市立安城中部小学校)卒業。
のちに再婚した母に従い、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区(現在の中央区)に転居。
兵庫県立第一神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)に入学。
この頃、日本ではアマチュア無線の免許制度がなかったが、ラジオ少年は盛んにアンカバー(無免許)で無線機を自作し通信し始めた。
引っ越しによる中退後、第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部に入学し卒業。
学生時代から奇抜な発明で有名であった。
早稲田大学時代にキリスト教徒の恩師山本忠興の影響で日本基督教会(のちの日本基督教団)富士見町教会に通うようになり、洗礼を受けてキリスト教徒になる。
卒業論文は「変調器としてのケルセル 附光線電話」。
東京芝浦電気(のちの東芝)の入社試験を受けるも不採用。
大学卒業後、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称:PCL)に入社、取締役であった増谷麟の屋敷に下宿する。
学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」がパリ万国博覧会で金賞を獲得。
後に日本光音工業に移籍。
その後、日本光音工業の出資を受けて、日本測定器株式会社を立ち上げて、常務に就任した。
日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社であり、その縁で戦時中のケ号爆弾(赤外線を利用したホーミングミサイル。画期的である)開発中に盛田昭夫と知り合う。
敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年(昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げる。
後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流する。翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇宮内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が取締役(営業担当)、太刀川正三郎が取締役(経理財務担当)、増谷麟が監査役、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業
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「大阪維新の会」は、大阪府内の公立学校をつぶしてその土地を高く売り「タワマン」を建てまくっている。
おかげで、世界的にも有名なグラフィックデザイナーを生み出した「大阪市立工芸高校」も廃校にしてしまった。バカ維新め!これで関西の広告業界は、東京にはるかに遅れを取るのだ!
兵庫県では、公立高校を守らなければいけない。
公立高校は将来偉くなる貧乏人のための大切な資源なのだ。
兵庫県に維新の「公立つぶし」を取り込ませてはいけない!
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