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【作曲家】🎸GSブームが生んだ「三人・邦彦」…パート1『加瀬邦彦』。
昔々、日本の芸能界で、「GSブーム」(グループ・サウンズブーム)というバンドブームがありました。
1967年〜1969年という短期間で終わったバンドブームです。
とにかく多くのエレキギターを中心とする「演奏&歌」を聴かせるバンドが生まれましたが、玉石混交でした。
洋楽を嫌い演歌を愛する某レコード会社の偉いさんが「悪貨は良貨を駆逐する」という考えで、作曲も演奏も出来ないクソみたいなバンドでもデビューさせ、バンド飽和状態にさせ、若者たちの熱を冷ましたというのが、ブームを早く終わらせた説が有力となっております。
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◆◇◆
「GSブーム」の功績として第一にあげられるのが、レコード会社による作詞家&作曲家の独占制度を崩壊させたことです。
洋楽レーベルからはじまった「GSブーム」は、レコード会社による作曲家や作詞家の強制から逃れることができました。(このあたりを詳しく知りたい方は「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のデビューについてお調べください)
専属作家を持たない洋楽レーベルから、新しい感性をもった作曲家や作詞家が、GSバンドのために新鮮な曲を書きました。
そのなかでも、「三人・邦彦」と呼ばれる作曲家がいました。
①加瀬邦彦
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②鈴木邦彦
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③村井邦彦
![](https://assets.st-note.com/img/1719302230758-7MHvnlcuqi.png?width=1200)
の3人です。
たまたま、同じ「邦彦」という名前の作曲家が1960年代末に活躍したのは、なんというか奇遇ですねぇ。
◆◇◆
今回は、パート1ということで、「加瀬邦彦」さんを紹介したいと思います。
1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県茅ヶ崎市に転居。
これが縁で同年12月23日にアメフト部の先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならずプライベートでも親交を深めるようになる。
慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する。
その後ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。
1963年には事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入した
ブルージーンズ時代に、売れっ子作詞家の安井かずみに
「曲をつくりたいので、歌詞を書いてくれませんか」
と頼むも、
「あんたの下手くそな曲に、私の歌詞は、猫に小判よ」
と断られる。
しかし、加瀬は諦めず、何曲も作曲し、安井のもとへ持参。
「・・・まあ、これなら、歌詞を書いてあげてもいいかもね」
と完成した、加瀬邦彦の実質上の歌付きのデビュー曲が
名曲「ユア・ベイビー」である。
⇑ 加瀬の曲も素晴らしいが、寺内タケシの編曲も凝っていて良い。
1966年、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった加瀬はブルージーンズを脱退した。
所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「タダで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成、渡辺プロダクションに移籍する。
得意の12弦ギター(ヤマハ特注)は、ワイルドワンズ・サウンドの要となる。
⇑ 「青空のある限り」。作詞:安井かずみ。イントロの「12弦ギター」が、印象的かつカッコよすぎる。
⇑ 「バラの恋人」。作詞:安井かずみ。童謡風のストレングス&ラッパ隊の編曲がロマンチックで泣けてくる。青春を思い出します。編曲は東海林修。
◆◇◆
ワイルドワンズとして活動しながら、ザ・ピーナッツなど、渡辺プロの歌手にも傑作を提供した。
⇑ ザ・ピーナッツ「指輪のあとに」。作詞:安井かずみ。ピーナッツ後期の大傑作。編曲も加瀬邦彦が担当している。コーラスワークが素晴らしい。
・・・
GSブームが終わり、ワイルドワンズ解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二の音楽プロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。
私、個人的には、加瀬邦彦の仕事といえば、「沢田研二をスターにした」ことだと思う。
ジュリー最初のスマッシュヒットは、加瀬邦彦&安井かずみの名コンビから生み出された。
この後も沢田研二に多くの曲を提供するが、印象的なのは、作詞が荒井由実であること。「ルージュの伝言」で捨てられた男性側からのアンサーソングを書きたいということで沢田研二に「ウインクでさよなら」を提供した。
面白がった加瀬は、この詞に軽快なロックンロール風の曲をミックスさせた。あまりヒットはしなかったが、ジュリーの歴史の中ではポイントとなる曲である。
⇑ 「ウインクでさよなら」。作詞:荒井由実。ギターは井上堯之。編曲は大野克夫。おそらく、ベースは岸部一徳であろう。
このあと、沢田研二は「阿久悠」の世界に巻き込まれてしまい(ジュリー本人は、阿久悠の世界はかなり照れくさく、毎曲、苦悩していたそうである)
そして、阿久悠の世界から脱した沢田研二が、新たにチャレンジしたのが、当時、世間で流行していたテクノポップであった。
作詞を売れっ子コピーライターの「糸井重里」に依頼し、久々に加瀬邦彦自身が曲を書いたのが、日本中で大ヒットした「TOKIO」である。
⇑ ♬ 海に浮かんだ 光の泡だと おまえは 言ってたね ♬ 「バブル時代」の到来を予言したような歌詞である。パラシュートも忘れられない。
しかし!
この「TOKIO」の派手なパラシュートに腹を立てたのが、いままでジュリーのバックで演奏していた「井上堯之バンド」のリーダー井上堯之である。
「これじゃ、見世物じゃあないか・・・」
この一曲で、沢田研二&加瀬邦彦と、井上堯之バンドは、決裂する。
このあとも、加瀬は沢田研二と一緒に、「沢田研二とワイルドワンズ」といったGSバンドを組んだりしたが、沢田研二の人気も年齢的なこともあり旧宅していった。これを決定的にしたのは、(私の大嫌いなクソ野郎)小室哲哉グループの芸能界への台頭である。
小室たちのせいで、「歌謡曲は殺された」。
沢田研二たち、歌謡曲歌手の時代は終わり、阿久悠は亡くなり、日本のポップスは腐りきった。
加瀬邦彦は、ガンを患い、最後は自死した。
私が愛した歌謡曲は消え去り、顔の区別もつかない「女の子集団」たちがテレビの音楽番組を席巻した。
◆◇◆
最後に、加瀬邦彦が亡くなる寸前、彼らしい曲を残しているのご紹介して終わろうと思う。
⇑ 「渚のラララ」(百田夏菜子 with 加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ)
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