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この作曲に至った思索1
実体験からの帰結
さて、
この構想は私の実体験と多くの哲学、
そして学問と科学を反映した娯楽的結論だ。
全ての国家や共同体、大事業は、
必ず一極集中した後、崩壊する。
多様性と、その排除
商業にせよ、戦争にせよ、国家にせよ、
利潤、利便、利己を得る過程においては、
都市的な密なる空間と、文化ができあがり
多様性が産まれる。
しかし、
利潤、利便、利己を得た末路においては、
市場原理により、生産性と効率性が追求される為、
多様性の排除が必須となる。
排除された多様性は、
逃亡するか闘争するかでしか、
生存する事ができない。
そして社会そのものが、
この状態を続けている限り、
貧困的敗者に逃亡先は見つからず、
よって闘争するしかない。
貧困的敗者に逃亡先が見つかった場合、
それらは社会構成員である事由を欠落し、
そもそも、その不在により、
社会構成員としてカウントされないからだ。
この闘争の勝利者は、
新たな共同体を誕生させうる。
この闘争の敗北者は、
古い共同体と別れを告げる事になる。
ここでまず、決定的な格差が成立する。
格差の本質
しかし私が着目したのは、
そこで起こる格差ではない。
格差自体は人類でなくても、
どの生物でも起こる事だ。
恐らく格差と貧困を紐づける真の問題は
「格差状態の固定」
なのである。
個人が市場原理に基づいて経済行動を取ると、
そこでは必ず経済的利得を確保する
「一意性」を巡る競争が起こる。
その競争は、
短期的には共同体全体への経済的恩恵を与えるが、
長期的には過当競争に突入し、
決定的な優劣が誰にも分からなくなり、
最後には、一意性を失う。
その結果、どのような立場の人間であれ、
生き残る為、あるいは差別化する為に、
あらゆる手段を講じざるを得ない。
この傾向は、経済活動のみに留まらない。
受験にせよ、就活にせよ、恋愛にせよ、
全てこれらは当てはまる。
原則として、
いくら生産効率が上がろうとも、
地球の面積は増えない。
世界の総量が決まっている現在では、
この状況において敗北とは、
すなわち貧しい者へと転落する意味を持つ。
殺される前に殺す
従ってこの過当競争の参加者は、
勝利する為、
または何があっても敗北を回避する為に、
競争そのものとは関係の無い、
自分に有利な属性と概念を巻き込む傾向にある。
愛、正義、神、仏、
涅槃、解脱、慈悲、秩序、
共感、差別、勤勉、etc。
これらは全て、原初の意味を外れて「悪用」される。
そこでは誰であれ、
無限に勝ち続けなければならない。
そして勝つ為には、
利得がコストを上回る必要があるが、
最終的にはコストそのものを
削減する方が有利になる。
これはエントロピーの法則や、
音響機器の音圧値(常用対数の上昇値)等が
証明しているように思う。
万事において、
上限を突破するのは至難であり、
万事において、
下限を広く作る方が容易であるからだ。
貧困製造機である二元論
概ねこのような状態において、
人類は二元論を「無自覚」に活用する。
自分の一意性や市場価値を
常に証明し続けるコストより、
他人を「邪悪的」にした方が
群衆を味方につけるコストが安くなるからだ。
必然的に富める者がその立場を利用し、
自分に有利なルールを策定し、
それを必ず正当化する。
すると、ますます貧富の格差が拡大するが、
富める者が貧しい者になりたくなければ、
常に自分に有利なルールを
作り続けなければならない。
よって、
貧しいものは常に貧しくなりつづける運命にある。
貧困とは、概ねこうして製造されるものなのだ。
無自覚に、無慈悲に、無関心に。
呪物的社会制度
最早、これは呪物的社会制度と言っても良い。
極一部の社会を除いて、
人類史は普遍的にこのようなプロセスを経て
誕生と崩壊を繰り返している。
一定の閾値を超えると、
何が善かを考えるより、
誰が悪かを考える方が、
脳のリソースを割かないですむからだ。
日本の受験やコンクール等を見て欲しい。
殆どが減点方式になるじゃないか?
よって、善なるもの=神=仏を求め過ぎると、
どこかで他人を悪にする方が、
戦術的に有効になってしまうのだ。
むしろ、何か一つの基準を絶対視する行為、
これこそが「格差状態の固定」の
正体なのではないかと私は推測した。
そして思索の結果、
私はこのような結論をだした。
この多様から二元論に収斂する事象は、
現代に至るまで「不可避」だったのだ。
社会的災害
この二元論に振り回される状態を、
こう名付けよう。
これは「社会的災害」である。
今、世界中で起きている、
分断そのものである。
だが、
どれだけ富める者が財を蓄えても、
貧しい者が支出を減らしても、
どれだけ権ある者が力を使っても、
罪なき者が踏みにじられても、
どれだけ美しい者が注目を得ても、
醜い者が無視され続けてても、
人権、つまり生存に必要な衣食住は、
本来、人ひとり大して変わらないはずなのだ。
恐らくここを
武力闘争によって解決しようとしたのが、
マルクス最大の失敗だったと、私は思う。
恐らくここを
市場原理によって解消しようとしたのが、
アダム・スミス最大の欠陥だったと、
私は感じる。
これらは、
法整備と警察力、社会システムとAI、
計画的行動と漸進的啓蒙等で
相互補完的に解決するものなのだ。
努力の如きアナログの出番は無い、機能が如きデジタルで行えば良い。
過当競争の結果は、
必ず勝者の正当化となり、
そこで善と悪が決まる。
そして、善悪二元論では必ず、
格差状態の固定に収斂する。
よって、
片方は無限に貧しくなり続ける。
そんな状態で貧困から脱出したければ、
より弱い者を造り搾取するしかない。
価値のミス
つまりこういうことだ。
そもそも、あらゆる社会は、
市場原理が続く限り、
倫理道徳的に生きるのが難しく、
堕落する道が多く作られていくのだ。
堕落する道を歩まねば、
堕落する道を作らねば、
堕落する道に誘わなくては、
自分と他者を市場において差別化できず、
個人が一意性を失い、
市場的価値が無くなるからだ。
よって
必然的に社会構成員から倫理が捨てられる。
この破綻の始まりである「価値のミス」から、
個人の力で逃げる事は不可能に近い。
古代から現代社会に至るまで、
ほぼ例外は無い。
そして
この「価値のミス」は
「社会的災害」に直結する。
もう十分だ。
これ以上の鬱展開を、
私は容認できない。
これ以上の貧困の放置は、
私の受忍限度を超える。
これ以上の悲劇と無関心を、
私が社会から消し去りたい。
ではどうするのか?
答えは簡単だ。
中庸
最初から、
二元論の「使い方」そのものを規定すれば良い。
そして二元論から
生存時間そのものを隔離してしまえば良い。
つまり「中庸」のデジタル化だ。
人類が、この長く使った
二元論なる「赤子のおしゃぶり」から、
卒業可能かどうかは分からない。
だが人権そのものを複数の通貨に分けてしまい、
国家や共同体が
それらを完全に保証する仕組みを作ればどうか?
新たな社会の創造基盤
まず生存維持に必要なリソースと、
それを得る個人行動そのものを
時間的に観測し、第一通貨と規定する。
次に共同体成立に不可避な要素、
個人対個人を繋ぐ
「慈悲の可視化システム」をSNS的に制作し、
第二通貨と規定する。
これら2つの通貨で、
個人生存と、共同体持続の要素を透明化し、
重点的に警察力で他の通貨から保護する。
自由主義や共産主義、
果ては金融資本主義の如き等、
第三通貨で好きにさせればよい、今まで通りだ。
これで自由も人権も
最小限の抑圧で、デジタル化し、
可視化、透明的な運用ができると考える。
これで自由も人権も
売り飛ばさなければならない社会から、
適正な価値を推し量れると考える。
貧困の根源は、デジタル的に粉砕
結局のところ、あらゆる貧困とは、
輜重(供給)の不足なのだと思う。
人類史上、
皆がこの問題を「謎の変数不足」で
理解した気になっていた。
努力、根性、勇気、才能、愛、etc。
どれも生命が無ければ、
意味が無い概念だ。
どれも実在しようがしまいが、
生命の持続には関係ない。
ただ単に、
輜重の不足という一言に
尽きる。
では最も解決せねばならない重要な貧困は何か?
絶対的貧困、相対的貧困、派生した各種貧困、
これらに全てに共通する根源たる部分は何か?
先に答えを出そう。
それは時間的貧困だ。
時間による可視化
この1秒が苦痛であっても、
2秒後に快感になるなら
その貧困は、成立しない。
この1分が極寒であっても、
2分後に温暖になるなら
その貧困は、成立しない。
この1時間が飢餓であっても、
2時間後に満腹になるなら
その貧困は、成立しない。
この1日が無知であっても、
2日後に知恵が得れるなら
その貧困は、成立しない。
この1ヶ月が孤独であっても、
2ヶ月後に恋人が得れるなら
その貧困は、成立しない。
この1年が不景気であっても、
2年後に好景気になるなら
その貧困は、成立しない。
今日、私があらゆる事由において
不足があったとしても、
明日、私にあらゆる事由が
供給されるのであれば、貧困は成立しない。
今日、
君の財布に1円も無く、
何も買えなかったとしても
明日、
君の財布がお札で溢れていて、
何でも買えれば、貧困は成立しない。
つまり、
これら全ての貧困の対処とその優先順位は、
生存時間との関係性を
可視化する事で凡そ全て解消できる。
これが私が生きて得た、つまらない悟りだ。
そして、
この悟りはAIとの対話の結果、
数式となった。
新たな律
T=ΣL
私はこの式で以て、
100億年の間、
宇宙の全生命を救済できうると予感した。
ただし絶対視はしない。
無謬は二元論に回帰する。
あくまで可謬である。
従って、絶対に近い値として参照する。
生命とその持続に、
市場的に勝る価値を認めない。
デジタルで「価値のミス」を防ぐ。
これが、新たな律だ。
お前ら全員、例外なく救済する
行き過ぎた金融資本主義は、
まっとうに稼ぐことが困難だ。
何故なら市場において
支配的地位にある人間の最優先使命が、
利潤を増やし続ける事にある為、
貧困にある者をさらに困らせる手法が、
戦術的に最適解となるからだ。
行き過ぎた経済的「信仰」は
金という神に忠誠を誓うより、
無能という悪魔を造る方が易い。
結果、人も水も富も易きに流れる。
これらは、
全て過当競争による弊害だと思う。
しかし、まったく競争しない社会は、
これも必ず停滞する。
日本が新自由主義に染まったのは、
当時の若者が年功序列を
嫌悪したのが一因にある。
従って
無競争と過当競争に関与しない範囲で、
人権を完全に保証する
「新たな律」が必要なのだ。
赤子が、
おしゃぶりを手放せないように、
これまでの人類は二元論を活用し、
発展してきた。
会計士が使う借貸
一神教が使う善悪
経済学者が使う貧富
司法行政が使う罪罰
仏教徒等が使う因果
これらは全て、
人間の脳にとって「分かりやすい」
という強力な作用をもたらす半面、
デジタルであり、
アナログ及び多様性を殺す役割をも担ってきた。
利便性という薬理効果には、
思考停止という副反応が起こる。
従って、
昨今のあらゆる社会の分断は、
必然的とも言える。
だが最終的に
「持続可能性」を突き詰めると、
「生存そのもの」が
最も絶対に近い価値を持つ事になる。
何故なら、
人類が生きていなければ、
文化は意味をなさない。
人類が生きていなければ、
機器は効果をなさない。
人類が生きていなければ、
文明は成立しない。
人類が生きていなければ、
経済は回らない。
人類が生きていなければ、
戦争は利益を産まない。
人類が生きていなければ、
差別は認識できない。
人類が生きていなければ、
愛憎は起こらない。
人類が生きていなければ、
貧富は用を足さない。
つまり無出生主義でもない限り、
社会を継続させる為には、
この二元論を生存から隔離する必要がある。
これは私の最後の作曲物である
なにと、比べるまでもない。
生命は最早、それだけで美しいのだ。
絶対に近いこの事実に、
二元論が介在する余地は無い。
生命の持続という価値に
善悪
貸借
貧富
罪罰
因果
等の二元論は全て超越させるべきではない。
何故なら、
この地球の公転周期に
善悪は無く、
あらゆる生命が仔を産むのに
貸借など無く、
死から生きようともがくのに
貧富の差など無く、
生き続けようとする
生物の捕食行為に
罪罰など無く、
そして、
宇宙誕生の因果は、
結局誰にも分からないからだ。
何と関係する事も無く。
生命は最早、それだけで美しい。
よって生命の生存時間そのものこそが、
時代や市場が何であれ、
最も絶対に近い価値とされるべきだ。
T=ΣL
これこそが、
新たな律の始まりであり、
これこそは、
次の社会の創造原初であり、
これこそを、
私の最後に書く、楽曲の意義にしたい。