TENETを楽しむためのループ重力理論
クリストファー・ノーラン監督の『TENET』は時間を逆行する技術を使って、未来と戦うスケールの大きな物語。出てくるキーワードはループ重力理論という最新の量子力学理論をベースにしている。
この理論、何を言っているかというと、『宇宙には時間はない』。何を言っているのかわからないかもしれないが、理論物理では未来や過去を決める数字がないのだ。でも昨日は昨日だし、今日は今日だし、明日はきっと明るい日なのはなぜ? 時間のない世界で時間を生み出しているのは、実は熱。熱いものが必ず冷える、この熱の拡散が時間の正体なのだ。
以前書いた原稿を掲載するので、TENETを見た人も見終わった人も一読していただけると、映画の世界が若干でもわかりやすくなるかと思う。
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時間は存在しない! そんな無茶なことをいう物理学者が現れた。量子力学で重力と時間を説明する新しい理論物理学、ループ量子重力理論では、そういうことになるらしいのだ。
屁理屈なのか、物理学の革命なのか、今回は『時間は存在しない』(NHK出版)という、そのままズバリの本を出したイタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェリの言説を追ってみよう。
時間には、いろいろな尺度がある。以前、ベストセラーになった『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』(本川達雄・中公新書)では、動物はサイズが大きくなると1分間あたりの心臓の拍動回数は遅くなり、小さくなると拍動回数は速くなる。しかしサイズに関係なく、一生の総拍動回数はおおよそ同じだという。小さな生き物は代謝が早く、それだけ寿命が短い。言い換えれば、時間が早く過ぎる。大きな動物は代謝が遅い分だけ寿命が長く、時間の進み方が遅い。これは人間も同じで、代謝が早い小さな頃の時間の過ぎ方と年を取り代謝が遅くなってからでは時間の感じ方が違う(経験による脳の情報処理の差を考慮するにしても)。
こうした生命の時間とは別に、物理的な時間もある。ニュートンは宇宙を貫く絶対的な時間があると考えた。宇宙の端から端までを貫く巨大な時計があるのだ。日本での今とアンドロメダ星雲のどこかの惑星上の今は同時だ。到達するまでの時間がかかるために同じ今だと体感できないだけで、宇宙のどこであっても物理法則のように均一に時間は進む。
この考えは実にニュートン的で、ニュートン力学においては、世界はビリヤード台のようなものだ。キューが玉を突いた瞬間、玉がどのポケットに落ちるのか、正確に予測できる。宇宙で起きるできごとはすべて、起きた瞬間から最後のエンドロールが決まっている。人間が未来を予測できないのは、台の上の玉とキューの数が恐ろしく多いからだ。もし世界中の原子の動きを丸ごとシミュレーションできるコンピュータがあるなら、未来は予測できる。あなたが生まれた瞬間に、その何十年後かの今、月刊ムーのこのページを読むことは定められていたのだ。
ニュートンの考えた絶対時間と絶対空間に対して、そうではない、時間と空間は均一ではなく山あり谷あり速くなったり遅くなったり不均一なのだとしたのがアインシュタインだ。重力と速度が時間を支配する。
相対性理論では、時間と空間は不可分で、空間の変化が時間の変化だ。強大な重力で空間が曲がるとそこでは時間の進み方が遅くなる。ブラックホールは重力の大きさが物理法則を越えてしまう特異点だが、その表面では時間が止まる。
速度が速くなると時間の進み方が遅くなる。光速で飛べる宇宙船があったとしたら、光速に近づけば近づくほど宇宙船内部の時間の進み方は遅くなる。これは俗にウラシマ効果として知られ、実際にこれは測定されているし、利用もされている。
量子加速器では、量子と量子がぶつかって生まれる別の量子を観測するが、とにかく不安定で、数百万分の1秒ぐらいで別の量子に変化してしまう。そこでほぼ光速まで加速させた量子をぶつけると、生まれた量子もほぼ光速で飛ぶため、量子の時間が遅くなる。そして量子が消えてしまうまでの時間が伸びるため、測定可能になる。
GPS衛星は高速で飛んでいるため、特殊相対性理論により地上よりも時間の進み方が遅くなる。ところが地球からは遠いために重力の影響が小さくなり、今度は時間の進み方が早くなる。この早遅を補正して精度の高い位置情報をナビゲートすることが可能になる。
地球と火星は光の速度で約3分の距離がある。ニュートンの絶対時間の考え方からすれば、電波で情報を伝えるのに3分間のずれが生まれるだけで、地球の今と火星の今は同時に存在する。光速を越える技術があれば、地球と火星では同じ時計を使うことができる。しかしアインシュタインの考え方からすれば、この3分間のズレは絶対に埋まらない。
光速で時間が止まるなら、光より早く動くことは時間を巻き戻すことになる。時間が戻るのであれば、空間も戻ってしまい、永久に火星に着くことはできない。ズレが埋まらない以上、地球と火星の間には3分間ズレたそれぞれの今があると考えるのが正しい。
時間はどこで時計を見るかによって変わる。相対的なのだ。だから相対性理論と名付けられたわけだ。
ループ量子重力理論の導き出した時間の姿は、ニュートンの時間ともアインシュタインの時間とも違う。
量子の位置が確率でしか求めようがないという話は聞き知っている人も多いだろう。原子以下のサイズの粒子=量子は、ぼんやりと広がる確率の波として存在する。あまりに小さくて見えないからとか、計算上そう表すしかないとかではなく、本当にぼんやりとした雲のような状態なのだ。それが一定の条件が決まると急に粒子になる。
量子は波であり粒子であり、その重ね合わせの状態は確率で表される……コペンハーゲン解釈と呼ばれ、量子とはどういうものかを説明した量子力学の基礎的な考え方だ。
私たちの世界は雲のようなボンヤリしたものとそれが収束した粒子とが無数に組み合わさってできている。私たちが変わらないと信じている物質は、あやふやなつかみどころのない確率の波が瞬間瞬間に粒になったり波に戻ったりするゆらぎの中にあるのだ。
空間とは確率の波が無数にゆらいでいるエネルギーに満ちた場であり、確率の波がある値をとった瞬間に波は粒状に収束する。何もない空間などなく、すべての空間には量子がエネルギーの状態でゆらいでは粒子化し、また消えていく。
アインシュタインは時間と空間が不可分なもので、時空連続体と呼んだ。空間に満ちたエネルギーが量子として放出され、再びエネルギーとなって空間へ吸い込まれていく。量子がゆらぐならそれを生む空間もゆらぎに満たされ、時間もゆらぐ。
物質がゆらぎなら、時間もゆらぎだ。
ゆらぎから粒子が生まれるのなら、時間からも粒子が生まれる?
時間の粒子?
突拍子もないが、時間と空間が同じ物理の裏表ならそうなるはずだとカルロ・ロヴェリは言う。
では時間量子=タイムクオンタムがあるとしよう。
時間をどんどん分割する。1秒を100万分の1に、1億分の1に分けても、それは時間だろう。時間は無限に分けられるのではないだろうか。∞分の1の時間があっても、直感的にはそれはありだ。しかし科学は「違う」という。数学ではそれは可能だ。時間は無限に分割できる。しかし物理の世界、現実のこの宇宙ではそれは不可能なのだという。
時間が量子の性質を持っているとすると、量子が粒子として存在する最小の時間がそのまま時間の最小単位となるはずだ。それ以下の短い時間には量子は存在せず、この宇宙を構成しない。
最小の時間はプランク時間と呼ばれ、10マイナス44乗秒と導かれるのだそうだ。時間は粒子であり、10マイナス44乗秒以下では存在しない。ということは量子力学が仏教の色即是空空即是色、世界は空っぽだがすべて満たされ、すべての物質は究極的には空っぽであるという世界観と共通するように、時間もそうらしい。時間はあるがなく、ないがある。
エネルギーから量子が実体化して粒子になる時、同時に時間も発生する。粒子が再びエネルギーの確率の波に変われば、時間もまた確率波となる。量子がどのタイミングでどこで実体化するかは私たちは知るすべがない。場所とエネルギーを同時に測定できないのが量子の性質なのだ。ぼんやりとした雲のような確率の波のどこかでエネルギーが収束し、粒子に変わる。では時間は? 量子では場所とエネルギーがゆらいでいた。時間量子の世界では、過去と未来と現在がゆらぐはずだ。量子の性質を時間が持つというのだから、そうでなければおかしい。
究極の最小時間では、過去=原因も未来=結果もなく、ただすべてがゆらぐという奇妙なことが起きているのだ。
じゃあ時間は幻なのか? 私たちが生きる世界は過去から未来へと矢のように止まらず、変化し続けているが、これは幻で本当は時間はない?
「ない」のだ。
だからカルロ・ロヴェリは言っているわけだ、時間は存在しないと。
時間はない、しかし明らかに私たちは現在を生きている。もし時間がないというのなら、原因と結果、因果律はどう説明する?
過去は過去であり、終わったことを私たちは覚えている。未来は来ておらず、私たちは未来を思い出すことはできない。それなのに因果律も幻だというのか?
そうではないらしい。カルロ・ロヴェリは言う、
「過去と現在と未来の違いは決して幻ではない」
この宇宙のすべては量子の組み合わせで作られている。量子がある限り、そこに時間はある。では過去から未来へと時間を方向付けるのは?
カルロ・ロヴェリらが研究している量子重力理論(この中の一つがループ量子重力理論である)には、時間変数がない。物質が変化する時、時間も変化する。種から芽が出て実がなるまでは時系列に並べることができるが、この時間の変化が時間変数だ。1日目に芽が出て2日目に双葉が出るというように時間の変化で植物の変化が追える。ところが量子重力理論には時間変数がない。では量子の変化をどう書き表せばいいのか。時間は経過しないのか。
「この理論は、時間のなかで物事が展開する様子を記述するわけではない」
とカルロ・ロヴェリは書いている。
「物事が互いに対してどう変化するか、この世界の事柄が互いの関係においてどのように生じるかを記述する」
物事は互いに関係しあう。関係すれば変化する。量子重力理論では、量子同士がスピンネットワークという巨大なネットワークを作っていると考える。連結した量子のネットは輪=ループになり、そのループが無数に組み合わさって構造体を作るが、これらは量子なので、決まった値でしか収束しない。目には見えないが、理屈の上では構造体は泡、それも幾何学的な形を泡を作り、それが連なったものが空間を埋め尽くす。これがスピンフォーム=スピンの泡だ。
量子レベルの時空間は量子が互いに関係しあい、織りなすカーペットのようなもので、ネットワークに過去も未来もない。関係性があるだけなのだ。カルロ・ロヴェリのループ量子重力理論は世界をそのように描き出す。極微の世界では因果律はないのだ。過去も未来もなく、基点となる現在もない。量子という糸同士が近づいたすべてのポイントで時空間が編まれ始める。編み始めも編み終わりもないのだ。
極微の世界には時間はない。しかし私たちが生きるマクロの世界にはあきらかに時間がある。どこで時間は生まれるのか。
時間は順序だろう。過去から未来へという流れは逆転できない。原因があってこそ結果が生まれる、因果律はこの世界で絶対だ。時間以外に絶対に逆転できない何かがあれば、それが時間のない世界に時間を生み出しているものの正体ということになる。
熱力学にはエントロピーという考え方がある。熱いお湯は放っておけば、冷めた水へと変わる。エントロピーが増大する。私たちはそれを当然だと思うが、世界の根元が量子であり、ゆらぎであるならそれは当然ではない。すべてが確率なので、物理法則さえも確率なのだ。私たちはたまたまエントロピーが増えていく世界に生きているが、これが宇宙の隅々まで通用するかといえば、そうではない。エントロピーが減っていく世界に量子が収束した世界もありえる。
私たちの世界は熱力学第二法則、エントロピーは増大して絶対に減少しない世界で生きているため、エントロピーの方向が時間の方向を決めている。エントロピーが少ない方が過去で、エントロピーが多い方が未来だ。
「過去の痕跡があるのに未来の痕跡が存在しないのは、ひとえに過去のエントロピーが低かったからだ」
とカルロ・ロヴェリ。
「過去と未来の差を生み出すものは、かつてエントロピーが低かったという事実以外にない」
カルロ・ロヴェリが言うように時間=エントロピーの増大なら、エントロピーの増大も量子力学で説明がつかないとおかしい。
2017年9月6日、東京大学大学院工学系研究科の伊與田英輝助教らは量子力学から熱力学第二法則を導くことに成功した。カルロ・ロヴェリが言うように、エントロピーの増大が時間の正体なのだ。
因果律が正しければ、エントロピー=時間で良いだろう。しかしそうではない、未来が過去を決定することもあるのだと考える物理学者もいるのだ。
未来が過去の原因となる「逆因果」は、量子消しゴム実験で確認できる。ヤングの実験の応用で、レーザー光を二重スリットを通過させる。スリットを通ったレーザー光は干渉して壁に縞模様を作る。ところがスリットに偏光板をつけて、右か左かどちらを通ったかわかるようにすると干渉縞が消える。つまり光子が波から粒子に変わったのだ。ここまでがヤングの実験。ここでスリットと壁の間にもう一枚、偏光板を置いて、スリットの偏光板の情報を消してしまう(だから消しゴムなのだ)。どちらのスリットを通ったのかわからなくなるわけだ。どうなるか? 干渉縞が復活するのだ。もう一枚偏光板を置くという未来が光子が粒子になるか波のままで行くかを決めた?
量子もつれというペアになった量子には非局所相関という現象が起きる。ペアを引き離したら、片方の回転の向きを変えると離れた場所のペアのスピンも変わるのだ。スピンを変える情報がどのように伝達しているのかがわかっていない。これも逆因果により、スピンの向きが変わるという未来によって現在のスピンが変更されると考えると矛盾がないらしい。
エントロピーの向きが逆転すれば、時間は逆行する? 2019年3月、ロシア、アメリカ、スイスの量子コンピュータ研究チームは量子コンピュータ内のゆらぎから85%のエントロピーを取り除くことに成功した。
量子の確率波をエントロピーで考えた場合、どこで収束するかがわからないためにエントロピーは常に増大する。もし未来に結果がわかって、ここで収束するというポイントがと特定できたら、他の可能性を全部排除できる。すっきりと因果関係は整理され、エントロピーは減少する。
量子コンピュータ内の量子を人間の手で収束させることで、エントロピーは減少した。つまり時間は逆行したのだ。研究者の一人、モスクワ物理技術研究所のゴルディ・レソビクはプレスに対して、「過去から未来への一方向の時間の方向を表す時間の矢の概念と密接に関連している」と答えた。
逆因果では、未来に起きることが過去の確率波を収束させ、現在を生み出す。「時間はない」のだから、エントロピーの枠を外してしまえば、原因も結果も同時に存在する。未来の原因が現在の結果を決めてもおかしくない。それは量子スケールでは可能なのだ。それがマクロの世界に応用できれば、熱力学第二法則に逆らい、部屋の熱を集めてコップの水を沸騰させるようなことが可能になったら、時間は逆転する。
予言者がいるということは、逆因果こそがこの世界の真実かもしれない。私たちの現在は未来から干渉されているのかも?
参考
http://www.cpt.univ-mrs.fr/~rovelli/rovelli.html
https://engineer.fabcross.jp/archeive/170907_u-tokyo.html
量子消しゴム実験
Double-slit quantum eraser (PHYSICAL REVIEW A, VOLUME 65, 033818)P.3
http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/double_slit_quantum_eraser.html
時間反転
https://www.sciencealert.com/physicists-successfully-put-time-into-reverse-on-the-smallest-scale
初出:2020年月刊ムー9月号