お客様はお客様です
1.はじめに
最近、『検察庁法改正案』に抗議しますというハッシュタグがトレンド入りしたそうです(まぁスパムだったとかなんだとかって話が色々されているんので自然な流行なのかは知りませんが、『トレンド入り』した事だけは事実なのでこの表記でお茶を濁そうという魂胆)。更に、先ほど黒川検事長宛にカッターの刃入りの封筒が送られたという話もあります。私自身の思想としては、例えそれがどれだけ公益を害する可能性が存在したとしても、その事実を受け止めた上で本人がその主張をしたいというのであれば、その『思想を主張したい』という意思だけは否定しないのですが、それが実際に公益を害する行動によって主張されたり、事実を認めずに自分たちの主張だけを通そうとしてくる輩に対してだけはまた同じようにちゃぶ台返しし直さなくてはなりません。
2.お客様は舞台装置です
『お客様は神様です』という言葉を聞いたことがあると思います。元々は芸人さんが『お客さんの前に立つときには神様の前にいる時の様に清らかな気持ちで望む』みたいな意味で使ったとかなんとかという話を聞いた事もあるのですが、個人的にはこの『神様』は相手をお客様と観る側から見て主観的に発生する関係性だと考えています。要するに『自分が何かをするときにはその相手が神様だった時と変わりがない様に心清らかに』であったり、『自分が何かをするときはその相手が神様だった時に様に粗相がない様に』であったり。相手が神様であると言う関係は、あくまでもお客様側からでも三人称視点の時であったり、それこそ本物の神視点から見たときの神様ではなく、お客様に何かを為す主体だけ成り立つものだと考えています。逆に言えば、例えばコンビニでは店員がお客様に対して神様と同じように接し、コンビニに買いに来た客は店員を施してくださる神様のように扱う。これが理想の『お客様は神様です』だと考えています。視点を変えてみれば、関係ない人間から見たその『両お客様がまるで舞台装置のように違和感、あるいは気分を害すること無い』存在として振る舞うべきだと考えています。しかしこれもまた先ほどと同じように、『あるべき』論であり、この目的を達するための手段としての公益を害す行為は肯定化されません。
3.『人間的神様化』するお客様
今回の検察庁法改正案に対する抗議も同じです。両者共に神前のように清らかに接するべきだと考えています。特に今の民主主義国家では、公益を害さない限りの表現の自由というものがしっかりと認めているのだから、尚更公益的な接し方は大切なものだと考えています。国民がどうせ忘れられるからと接されていると感じるのであれば、大切なことは忘れる前に違法でも復讐をするのではなく、忘れずに合法的な復讐をすることです。要するに、当該ツイートをした人間をリスト付けし、仲間意識を結束させたのと同じように、法改正に賛成した議員をリスト化して投票しなければ良い話なのです。私はこの法改正にさほど問題を感じてはいませんが、もしも投票しないという行動を起こすのであればもちろんそれを否定するつもりは毛頭ありません。互いに互いに清らかに接し、もしも相手がそうでは無いと主体が感じたのであれば、それは清らかに否定するべきだと考えます。もしも主体が互いに清らかさを捨て醜く接するようになれば、それはどちらにも非の打ち所しかない愚かな戯曲にしかならないでしょう。我々は神的人間性を持ち、毅然とした合法的暴力(少なくとも主観的にはそう感じた場合)には『合法性』を持った態度に訴えるべきであり、『暴力性』に焦点を当てた対応をするべきではありません。
4.おわりに
黒川検事長の事件が出てすぐ書き始めたので、なんだか文法がめちゃめちゃになっている気がしますが、要するにこの記事全体をまとめて言いたかったことは『コンビニでお客様は神様という態度でお客様が望むことがおかしいとは知られるようになったのにそれ以外ではそうでもないよね』という一文に尽きるような気がします(笑)
ご青藍ありがとうございました。