カヌーの旅
わたしはカヌーが好きだ。川の国である岐阜の田舎の川べりで育った。
河原にいるとささくれだった心も、不安な気持ちも和らいで心が安らぐのを感じる。
去年の夏、北海道は釧路川をカヌーで下ってからは、また行きたくてうずうずしている。
今までもカヌーを海や湖、川でする機会はあったのだが、釧路川は原野であり、日本で唯一、人の手が入っていない、堰がなく護岸されていない川だ。
日本が失った原風景のような川をくだるという経験は、今までしてきた、川や湖、海のどのカヌーの旅とも全く違ったものとなった。
釧路川に漕ぎ入った瞬間、一瞬にして、圧倒的でかつ親和性をもったこの川に魅了された。
追われるような日常生活の、どの瞬間にも味わったことのない、フルに存在している実感と、穏やかな、そして湧き立つような幸福感が、わたしを包んだ。残りの人生を、こういう在り方で過ごしたいと思った。
川のうえは、圧倒的に自由だった。
パドルを漕ぐことすら手放し、ただカヌーのうえにいるというだけで、目の前には毎瞬、新たな出会いが差し出される。
うねるように蛇行する水の流れはほとんどが穏やかなもので、その流れがすぐそこで展開するさまが何とも言えず心地よい。透明な無数の筋が、先に向かって走る。
それがひとつの流れになり、うねりになり、瀬に発達していくさまを眺めているだけで飽きない。流れは、漕がなくても滑るようにカヌーを運んだ。
透き通るような、抜群の透明度をもつ水面は手を伸ばせば触ることができるくらい近く、岸はこちらからこころもち見上げるくらいで、木々の植生や動物の動きなどがよくわかるのだ。
目線は泳いでいるときのものとも、岸から見下ろすものとも違った。自然な護岸の、岸の少し上に視線が来る。
この日本が失った、護岸されていない川。川の岸は、いきなり土が出てくるのではなく、大小さまざまな草が緩やかに生えている。どこからが川で、どこからが土かなどと、あまり区別なく、境目はなだらかで曖昧だ。だが、それがなんとも有機的で、そのありようをみていると、こちらの身体が自然に緩んでくるかのようだ。
オコジョなどの小動物との出逢いがあったときには、こどものように歓声を上げた。たくさんの流木がトンネルのようになっているところを、首をすくめてやり過ごすのも楽しい。
境界のない世界。すべてが緩やかにつながっていて、流れている。そのなかにいると、心身ともにリラックスしてくる。
水の上は自由だ。目の前にある自然とどうつきあうか、一瞬一瞬自分で選ぶことができる。
日常生活では押し流されているように感じることもあるが、ここでは自分がパドルを握り、決めていく。
今回は漕ぐことも手放し、ただ委ねて出会いを楽しみ、喜んで受け入れ続けるカヌーの旅となった。
おそらく、わたしたちは知っているのだと思う。
本来、わたしたちと自然との関係はこのようなものであった。つまり、わたしたちは自然の一部であり、無理や力みは必要ないものだ。
獲得することよりも、目の前に差し出されている豊かさに心を開いて、受け取り、受け入れること。そして感謝とともに呼吸すること。その大きな感応と循環のなかで生きること。
目の前の、風に揺られる木々を眺めているだけで、じぶんの拍動とそれが連動し、要らないものは振り落とされ、その風景と溶けて一体になってゆく。
与えられることを信頼し、受け取ることに感謝していられることが、幸せなのだという境地に、川は導いてくれた。
わたしの人生を通じてある、この川との、自然とのこの親和性に満ちた関係。生きることに対する示唆に富む関係に、感謝している。
それをこれからも深めていけたら、と思っている。大きな外側の宇宙から学び、生きること。与えることと受け取ることのバランスを見つめること。
生きることはわたしにとって、自分という自然をマスターする旅。そして、自由を実現するための道程である。