誰かの顔色を見て決めた夢は必要ない
夢は叶うものなのか
私は、夢は叶わないものと思っているようだ
わたしにとって夢というものは、学校の先生や親が納得する、叶わないであろうけど、叶いそうな微妙なラインのものを卒業文集に書いておけば丸がつく、そんな程度のものだった。
大人は、叶えるつもりなんてないだろと思いながら、がんばれ、夢は絶対叶う!とか、嘘っぱちの励ましを送って、こどもに嘘を書かせて満足する生き物だと思っていた。
小中の卒業行事の茶番だ。
だから、いつも冷ややかに見ていた。
あほくさ と。
本気で夢を叶えるつもりの子の文章は、支離滅裂でも決意が溢れているし、しっかり書かれていた気がする。私のように、叶わなくてもいいやという子の文章は、ふわふわして大人が喜びそうな言葉を沢山散りばめて書いてあった気がする。
大人も適当に書かれていることに気がつきながら、みんなに誉められそうな文章を書くようにすすめて、自分の保身に走っている。それは、こども心に分かるし、大人のずるさをしっかりと目に焼き付けてしまう。そして、いつか自分もその仲間になるのだと知っている。絶望する何とも言えない苦い気持ちと、諦めが心に広がっていく感じがした。
本当に馬鹿馬鹿しい。
大人のダブルスタンダード
夢は叶わないものと大人が教えつつ、大人が納得する叶えたい夢を書けと強要する。私のように、大人のダブルスタンダードを見て、将来に夢も希望も持ちたくなくなる子も出てくるだろう。
私の人生設計は
それなりの学校にいって
それなりの成績をとって
それなりの就職をして
それなりの結婚をして
それなりの家庭を作って
それなりの子育てをして
それなりの老後を暮らして
それなりの人生を送る
だった。
これこそが大人たちの希望であり、正しい人生の生き方でえり、大人たちのいう通りにしてあげたら、自分の心と人生を守ることが出来ると思い込んでいた。
自分がそれなりだから、他者にもそれなりを求める。それなりであることが正解で、それなりでないことを許さない。
それなりな自分はダメだから、それなりな他者もダメに違いない。
何もかも無理と思っているから、他者も無理に違いない。
こんなことを思いながら、モーニングページを書きすすめていくと、ひとつの言葉を思い出した。
自分が自分を信じなくて、誰が信じるというのか。
自分を信じていないから、人を信じられない。
自分を信じれば、人を信じられる。
自分を信じるのは自分しかいない。
自分で自分を信じずに、誰が信じてくれるだろうか。
自分の素晴らしさや凄さを、自分が信じないで、誰が信じるだろうか。
自分を信じるには
自分のやりたいことをやってみよう。自分を信じてやってみよう。と決心するしかない。
夢は必要ない。
夢を見なくても目標は掲げられる。
(夢=誰かの顔色を見て決めたもの)
叶わない夢は必要ない。
叶わない夢を見なくても、やりたいことは実現できる。
自分を信じられれば、何でも出来る。
私は、そう信じることにする。
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