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3刷に寄せて『ワンルームから宇宙をのぞく』

 三連休の終わりの夜12時、ふと、この世界に僕は一体何を残せるのだろうかなんて布団の中で考え始めてしまって、何を残せても残せなくても、自分のこの意識があと数十年後に永遠に途絶えてしまうのは確かなのだと思った。のれんをくぐるぐらいの軽快さで、蓋をしていた意識がふわっとめくれて、ああ、まただ、と思う。背中を丸めて、毛布を首元に手繰り寄せて、温かくて、けれどめくれた意識は元に戻らず、表紙のめくれた本があっという間に風に攫われていくように、意識が死の方へ裏返っていった。僕は今でも、死ぬのがどうしようもなくこわくなってしまうことがある。

 去年、『ワンルームから宇宙をのぞく』というエッセイ集を出した。その本の中にも、そういう死の恐怖を書いた章があった。おめでとうございます、3刷になります、と担当編集さんからこの前連絡があった。爆発的に売れた本では全然ないけれど、じわじわとこの一年半読まれ続けて、どうやら少なくとも数千人には届いているらしい。その中の何人に、僕のこの恐怖が伝わっているのだろう、いや、何人に分かってもらえても、僕の死は誰かに引き取ってもらえるものではない。ならばなぜ書くのだろう、何を書きたいのだろう、とかそんなんじゃなく、書きたい気持ちはなんか知らんけどずっとあって、まだ僕は細々と書いている。一ヶ月前に書き始めた嘘の日記は、原稿用紙六十枚分ぐらいになった。六十枚も嘘を書いている。一日あたり八百文字分の嘘、嘘八百だ、はっはっは。

 頭ではなく体から無意識に言葉が出てくるということを、最近考えている。エッセイでは社会の中にある自分の話を書いていて、だからそれは社会の、つまり人と人との間にかかる圧力によってひねり出されるような言葉で書かれる。けれど、もっと個の体の反応としてじわりと染み出してくるような言葉もある。嘘の日記を書いていると、そういう、無意識に出てくる言葉に意識的になる瞬間がある。意識が多層に折り重なったものだとして、その層と層の間隔がふわっと緩んでにじみ出てくるような言葉、意識がめくれ上がるのとは少し違う、圧力がかかればすぐに奥に引っ込んでしまうような、そういう言葉でものを書きたいと思っている。エッセイではないかもしれない。エッセイを出したから気づいたことではある。

 三連休の終わりの夜12時、暗闇が怖くて布団にいられなくなった僕は、部屋の電気をつけて、自分の机に向かって、また噓の日記を書いた。

言葉はあるだけだ。そこにあって、壊れないように引き出す。焦らない。焦って出したものに過剰な投影をしない。落ち着いて、今自分が確かに書いている。生きている。循環する化学物質の淀みの中に自分がある。流動する流れに意識がある。丁寧に前を向く。後ろから目を背けるのではなく、今は絶望の淵を覗かずに、その断崖の足元を見つめる。

全部噓みたいで、なんか良かった。

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