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『ボヘミアン・ラプソティ』に見る手段としての映画

 異例のロングランとなった『ボヘミアン・ラプソティ』。しかし上映前は英米の批評家からは酷評されていた。

 遅ればせながら今日この映画を立川シネマシティの極上音響上映で見た私はそのねじれ現象の答えが分かった気がした。

 結論から書く。『ボヘミアン・ラプソティ』は映画として見ない方がいい。『ボヘミアン・ラプソティ』はライブを今までなかった形で体感するものなのだ。映画というのは上映する為の手段でしかないのである。

 『ボヘミアン・ラプソティ』は伝記映画や音楽映画として見てしまうと決して高い評価とならないのも頷ける。
 この映画はフレディの性的志向と民族という二つのアイデンティティをテーマとしているわりには、特に序盤その描き方が不足していて中途半端な印象を受ける。ミュージカル的な音楽映画としてはラストのライブシーンの為に貯めているのか、音楽シーンが物足りない印象を受ける。

 だが、映画を見た人はこの映画の最初のシーンを思い出してほしい。
 『ボヘミアン・ラプソティ』のラストシーンは85年のライブエイドの再現シーンなのだが、この映画の冒頭はまさにそのラストのライブが始まる寸前から始まるのである。
 そう、『ボヘミアン・ラプソティ』はこのライブエイドのライブを最大限に堪能するものなのだ。厳密には映画ではない。ライブ体感なのだ。
 ライブ時はカメラが生きているように動き回る。フレディの視点からそのままなめるように客席へ。ドローンがなかった時代は当然こんなカメラワークはできない。
 シネマシティの極上音響上映は本当に素晴らしかった。本当に何万人もいるライブ会場にいるような臨場感。あの感覚も現在の音響技術があればこそのものだ。
 そして、もっとも大事なことは、この最後のライブシーンを見る時、私達はそこに至る時の流れを見ていることだ。冒頭のボヘミアン・ラプソティが始まる時に、私達はフレディが何を殺してしまったかを彼の人生から理解することができる。カメラが物理的に自由自在に動くように、このライブシーンを体感している私達は時を自由自在に旅してフレディの人生のあの時あの時を重ねることができるのだ。

 youtubeにはライブエイドの実映像もあった。もちろん素晴らしいライブ映像であるが、『ボヘミアン・ラプソティ』がこの映像を元に全く新しいライブ体験をつくりあげたことを理解できるはずだ。


 映画『ボヘミアン・ラプソティ』はライブエイドのライブの再現を全く新しいライブ体験として体感する為のものなのだ。
 従来の映画の評価ではこの映画を正しく評価することはできない。
 

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