完全ネタバレ 『アベンジャーズ/エンドゲーム』と神について
11年22作のシリーズの一区切りとして空前絶後の話題とヒットとなっている『アベンジャーズ/エンドゲーム』。
シリーズの集大成としての魅力は他でも十分に語られているので、ここではエンドゲームのテーマとして感じるものについて書きたいと思います。
それは神の存在とそれに対する意思について。
前作インフィニティ・ウォーはあれだけのヒーローを集めながらヴィランのサノスを主人公とした物語でした。
全宇宙の生命を半分にする指パッチンは増えすぎた宇宙の人口を減らして調和をもたらす為のものであり、これは現在の世界の人口問題を想像させます。
指パッチンの対象となった人々は塵となって消えてしまいます。これは一部のキリスト教で終末に訪れるとされている消失のイメージに似ています。アメリアではこの消失をテーマとした映画は少なくありません。
インフィニティ・ウォーはサノスが犠牲を乗り越えて神になるストーリーでした。
ここからは『アベンジャーズ/エンドゲーム』のネタバレになります(見ている前提で書いてます)。
エンドゲームではナターシャとトニーが命を落としたこと、最後に指パッチンでサノスを倒したことなどが大きな驚き(人によっては違和感)でした。このへんを改めて神としてのサノスを軸に考えてみます。
エンドゲームは神となって宇宙を救ったサノスの行為をなかったことにし、その上でサノスを倒す物語です。
5年後の世界は生命の半分を失った悲しみと共にですが、安定した世界として描かれているように見えました。しかしアベンジャーズはそれを覆します。
その道は神となったサノスが辿ったのと同じ道でした。ソウルストーンの犠牲を越えてアベンジャーズは二度の指パッチンをします。
ここで重要なのはアベンジャーズがしたのはサノスがした消失ではなく、その消失の拒否と神であろうとするサノスの排除でした。
神の庇護をなかったことにするには神になるのと同じ道が必要だったのです。
神の力を持って神の加護から逃れる。それが神というキーワードから見えるエンドゲームのストーリーでした。
「私は絶対だ」と言うサノスに対して、ストーンを奪ったトニーが発する言葉は「いや、絶対は私だ」ではなく「私はアイアンマンだ」だったのは神と人の対比にも見えます。
アベンジャーズは神の庇護から自分の意思で生きる選択をしました。
これはシビル・ウォーのテーマとも似ているのです。
シビル・ウォーではヒーロー達が国連の傘下に入るかどうかを巡る対立が描かれました。頑なに国連を拒否するスティーブの意思は日本人には少し理解しにくかったかもしれませんが、これは大きな力の庇護の下で自由を失うか、自己決定をして生きていくかの選択なのです。
エンドゲームで迫られた決断は、神によって無作為に人々が半分にされた平和な世界を選ぶか、自分が犠牲となってもそれを拒むかの選択でした。
アベンジャーズは後者を選択し、ナターシャとトニーは自らを犠牲にすることを決断します。
普通のストーリーならソウルストーンを手に入れる為にお互いが犠牲になろうとするナターシャとフリントは二人とも助かるのが筋でしょう。しかし、何の奇跡も起きずに一人が犠牲になります。これによってこの映画のテーマがより鮮明になったように私には感じました。
エンドゲーム、いや、アベンジャーズの大きなテーマはヒーローとは何かだったように思えます。
アベンジャーズが定義するヒーローとは 自己犠牲を厭わず他者の為に自分の意思で行動する者 だったのではないでしょうか。